227.生ハムと商人の野望
アンナに来訪予定の商人が到着したと告げられ、ややして厨房に顔なじみの商人がやってくる。
「アントニオ、いらっしゃい。厨房に呼びつけてごめんなさいね」
「お久しぶりです、メルフィーナ様。本日はしっかり腹を空かせて参りました」
赤茶の顎髭を蓄えた大柄な商人は爽やかな笑みを浮かべると、ぱん、と腹を叩いてみせる。
アントニオはアレクシスが最初にメルフィーナに紹介してくれたロマーナの商人である。公爵家に出入りを許されている立場で、フランチェスカ王国における大獅子商会の実質現場責任者のような立場だ。
背が高く、おそらくユリウスと同じくらいだと思うけれど、体の厚みはその倍くらいあるかもしれない。春用の長袖の服の上からでも、筋骨隆々な体躯であることが伝わってくるほどだ。
「先日の来訪も、本来私が任されるはずでしたが、会頭に横取りされてしまいましたので、本日はお会いできるのを楽しみにしておりました。相変わらずエンカー地方は素晴らしく、また、メルフィーナ様も春が来て、ますますお美しい」
「お上手ね」
ロマーナ人らしいあけすけな誉め言葉にころころと笑い、どうぞ座ってと席を指す。挨拶の間にマリーがさっとお茶を淹れてくれて、アントニオが腰を下ろす前にメルフィーナの促した席にカップを置いた。
「今日は、新しい商品のご紹介をいただけると伺っていましたが、これですかな」
いそいそと腰を下ろしたアントニオがこれ、と視線を向けたのは、二本並んでテーブルの上に置かれた豚の足で作った生ハムの原木である。片方はまだ手つかずで、もう片方はすでに限界まで肉を削ぎ落したあとだ。
「ええ、一昨年の冬の初めに仕込んだものが、ようやく完成したので、ささやかだけれどお披露目も兼ねてね」
「ほう……」
常に爽やかな笑みを浮かべているアントニオの目が、すっと細められる。
「見たところ豚の脚のようですが、それほど長く、形を保ったままでいられるのですか」
「ええ、そして常温保存が可能、これは一年半熟成したけれど、まだ若い部類で、高級品は三年くらい貯蔵させるわ」
「つまり、エンカー地方で仕入れて、数か月の輸送に十分耐えると」
「秋から今くらいの季節までは問題ないわ。夏も直射日光に当てなければ大丈夫だけれど、真夏のロマーナやスパニッシュ帝国だと、一応気を付けておくほうがいいと思うわ」
正確な温度計もない世界であるし、メルフィーナ自身が温暖と言われる南部やロマーナ、スパニッシュ帝国に足を運んだことがないので、どの程度高温になるのか肌で知っているわけでもない。
「でしたら、今年からすぐに検証に入れるわけですね」
なんとも前向きな言葉に微笑んで頷く。商人としての腕もよいと聞いているけれど、アントニオの一番の特徴はこの前向きな明るさだろう。
「こちらが卸す形の原木で、こちらはすでに肉を削いだものです。今日は実際に食べてもらいながら、よければこの「商品」の売りどころや使い道について相談させてもらいたいの」
「勿論、お任せください」
にかっ、と歯を見せて笑うのは貴族の流儀ではないけれど、妙に様になる。そうしているうちにエドがてきぱきと皿を並べてくれる。
メルフィーナもアントニオの向かいの席に腰を下ろし、マリーはその隣に着席する。
「まず、アスパラソバージュを軽く茹でたものを生ハムで巻いたものに、ドレッシングを掛けました。こちらは未熟成のチーズと生ハムを重ねて、塩とオリーブオイルで調味したものです」
「この豚の脚は、生ハムというのですね」
「ええ、乾燥ハムに近いと思いますが、月兎の葉を使っていないので胡椒のような香りはありません」
言いながら、まずメルフィーナがアスパラソバージュの生ハム巻きを口に入れる。
癖のないアスパラソバージュのしゃきしゃきとした歯ごたえと、ねっとりとした生ハムの塩味と風味がよく合う。しっかりと熟成した生ハムは柔らかく、脂身の甘みと赤身のコクが十分に引き出されていた。
「ほう、乾燥ハムのような硬さはなく、柔らかいですね。それでいて生肉より弾力がありますし、風味も素晴らしい」
「熟成させた分、塩が中まで染みているのと、コクが出るの。歯ごたえは結構あるし塩も利いているから、こうして薄く切って食べるのが基本の食べ方になるわ」
モッツァレラチーズと生ハムを交互に円形になるよう重ねたサラダを取り分け、一口サイズに切り分けて口に入れる。
こちらは優しいミルクの風味が残ったチーズと生ハムの塩気がよく合っていて、オリーブオイルがしっかりと絡み、優しい味だ。
季節柄トマトとバジルの収穫が出来なかったのが残念に思えるけれど、いずれカプレーゼと呼べるものを作ってもらおうとこっそりと心に決める。
「おお、このチーズも、新鮮でしっかりと弾力があり、噛み心地がいいですね。それとこの生ハムがよく合います。先ほどの青い野菜との相性が抜群にいいと思いましたが、こちらも素晴らしい」
ロマーナは美食の国でもあるので、アントニオも美味しいものを食べ慣れているのだろう。口元が嬉し気に綻んでいる。
「生ハムと葉野菜、熟成チーズのサンドイッチです。領主邸のソースと挽いた胡椒で調味しています」
次に出されたのは、細長いハードタイプの白パン……バゲットのサンドイッチである。一人分でも重くならないように小さめのサイズで、横に切り込みを入れ、バターとマヨネーズを薄く重ねて塗り、レタスと生ハム、ややオレンジがかったチーズをスライスしたものが挟まっている。生ハムの上に挽いた胡椒が掛けられていて、いいアクセントになっていた。
皮がパリパリに焼かれたバゲットは、口に入れるとざくり、とした食感のあとふわっと柔らかいパンのアクセントが楽しい。塩気の強さをバターとマヨネーズがマイルドに包み込み、口の中で混じり合う。
「これは、文句なしに美味です。腹にたまりそうですが……白パンですか。高級品ですね」
「生ハムは味が濃いので、黒パンにも合いますよ。むしろそちらの方が相性がいいかもしれないわ」
貴族としてはバゲットサンドにかぶりつくのはあまりお行儀がいい振る舞いとは言えないけれど、これはフィンガーサンドをつまんで口に運ぶのでは得られない美味しさである。
ここまでの料理でも十分に満足そうな様子だったけれど、エドが次の皿を出したことで、アントニオがぎょっと目を剥いた。
「こちらはモルトルの森で採れたクレソンと生ハムのパスタです。味付けはシンプルににんにく、唐辛子、塩とオリーブオイルで調味しました」
パスタはロマーナの名物料理であるし、貴族から平民にまで、幅広く食べられている食材でもある。領主邸で時々食べているパスタもロマーナからの輸入品だ。
フォークでくるくると巻いて、口に入れる。クレソンの苦みと生ハムの風味がよく引き立てあっているし、何より茹で加減が完璧で、もちもちとしたパスタとよく合っていた。
「さすがエドね。とても美味しいわ」
「おそれいります」
客人の前と言うこともあり、今日のエドは礼儀正しい調子を崩していないものの、口元は嬉しそうに綻んでいる。
「これは……美味しいです。初めての組み合わせだというのに、懐かしささえ感じるほど、よく合っています」
「本当に、どれも美味しいです」
「マリーはどれが好き?」
「料理の方向性が違うので、どれも甲乙つけがたいですが、私はチーズと重ねたものが好きです。食べやすいですし、チーズの風味とよく合っていて」
「生ハムは、生の果実ともよく合うのよ。夏の収穫ができるようになったら、また作ってもらいましょう」
「楽しみです」
アントニオは無心でパスタを食べていたけれど、品数が多いため一皿は小さめなので、すぐに食べ終わってしまう。名残惜しそうな様子のアントニオに、エドがそっと近づいて、お代わりはいかがですか、と囁いた。
「その、無作法であるとは分かっているのですが、もし余っているようでしたら」
「すぐにお作りします。少し味を変えたものはいかがですか?」
「心遣い、痛み入ります」
さすが公爵家に出入りを許されているだけあって、若いエドにも丁寧に振る舞っている。その様子に唇を綻ばせながら、皿を片付けてもらう。
「じゃあ、新しい料理が届く前に、このハムの使い方について説明するわね。まずこの腿の上の皮を剥いでいきます。皮と黄色くなっている脂肪は食べても美味しくないので、廃棄します」
オーギュストがナイフを取り出し、上面の皮を削いでいく。セドリックも時々目を瞠るような手先の器用さを見せたけれど、オーギュストも中々のもので、一度見ただけの原木の処理を完璧に再現してみせた。
「となると、歩留まりはすこし悪そうですね」
「ええ、この皮や脂身は、パンやパイの皮のようなものね」
「ああ、なるほど……」
ふわふわのパンを焼くことが出来るのは特定の高級料理人だけで、その技術は職人ごとに秘匿されている。貴族はこの白く柔らかいパンを食べるのが一種のステイタスであり、職人は大変な高給で雇われるものだ。
貴族であってもこうした職人を雇えない家は固く焼きしめたパンを食べるしかなく、皮は固すぎて基本的に可食部として扱われない。使用人すら食べずに浮浪者への施しや、野良犬に餌として与える部位だ。
「先ほど頂いたパン、皮はパリパリとして美味しかったですね」
「料理人の腕がいいのよ。夫も彼の作る料理がことのほかお気に入りなの」
アントニオは納得したように頷く。
エドは平民で、元は農村から出てきた後ろ盾のない立場だ。領主であるメルフィーナと公爵であるアレクシスのお気に入りだと吹聴しておくほうが安全だろうと、アレクシスとはすでに合意を取ってある。
――実際、ひとつも嘘ではないのだけれど。
エドは物怖じしない性格で、誰にでも親切であり、人懐こい。好物を覚えていてそっと量を増やしたり、お代わりを勧めたりと何かと細やかに気も利くので、アレクシスすらエドには少しだけ、気を許している様子である。
「一度に全部使うのでない場合は、この切り落とした皮を切断面に張り付けて、布で巻いておくといいわ。白い脂身と赤身がちょうどよい割合になるように薄くそぎ落としていって、ここが可食部よ」
切り落とした生ハムをそのまま口に入れて、どうぞ、と促す。アントニオも皿に並べられた生ハムに指を伸ばす。
「なるほど、これ単体では大分塩が強いのですね」
「ええ、その分保存が利くのだけれど、これだけを食べるのはあんまりお勧めしないわ」
「しかし、単体だと美味さがよく理解出来ます。舌の上で脂がほどけて、甘く、コクが強い。これだけでもかなりいい酒のつまみになりそうです」
「エールよりもワインね。特に水で薄めていない赤と合うんじゃないかしら」
「常温で長期間の保存が可能で、可搬性の高さとこの旨味、これは、欲しがる者は多いと思います」
「エンカー地方では家畜をたくさん飼っていて、住人だけでは肉を消費しきれないの。国内はエンカー地方と公爵家が共同事業として売り出すことになっているけれど、国外への輸出分は大獅子商会に委託をお願いできればと思っているわ」
アントニオはぐっと唇を引き締めると、右腕を腹に沿えて、恭しく礼を執る。
「ご指名、ありがたく受け取らせていただきます。このような素晴らしい商品を取り扱わせていただけること、会頭に代わって深くお礼申し上げます」
その後は、陸路と水路の二経路からの輸出、目方当たりの値段や量の調整などの話し合いに入り、途中でエドが新しく作ってくれたパスタが並べられる。ほうれん草と生ハムを使ったスープパスタで、ほうれん草を葉に見立て、生ハムをくるりと巻いて薔薇の花のように見立てていて、見た目からして華やかだ。
だが口に入れると、スープはこってりとしていて、ニンニクと葱の風味ががつんと来る味付けである。
「これは、なんというか、大変に濃厚ですね。ものすごく美味しいですが、初めて食べる味です」
「生ハムの骨を水からゆっくりと煮て、出汁を取りました。すごくいい味が出るんですよ」
いわゆるトンコツであり、スープは前世のラーメンとほとんど変わらない味がする。ラーメンの麺がないのが、しみじみと惜しく感じるほどだ。
小麦の麺は重曹で茹でるとラーメンの麺になるというけど、その重曹を今のところ見たことが無い。
だが、こうしてスープパスタとして食べても中々の美味である。
「骨まで美味しく頂けるとは、素晴らしいですね……」
しみじみと感服したようにアントニオはため息を吐く。
「豚はすぐに増えてしまうけれど、販路が確定すれば安心して量産できるわ。今後ともよろしくね、アントニオ」
「必ずこの美味な肉を、大陸を越えてあらゆる国に根付かせてみせます」
心強い商人の言葉に微笑んで、そっとお腹をさする。
量は少ないものの、次々と出て来る料理の美味しさに、つい食べ過ぎてしまった。
マリーは同じだけ食べてもほっそりとしていて羨ましいことだ。
これ以上服がきつくならないよう、夕飯は少し減らしてもらおうと思うメルフィーナだった。
セレーネがエンカー地方に来たばかりの頃に仕込んでいた生ハムが食べ頃になりました。
生ハムはスペインに旅行した折、バルや市場だけでなく、ごく普通のスーパーに常温で吊り下げて売っているコーナーがあり、日常的な食べ物なのだなあと思ったことがありました。
名前だけ出ていたアントニオですが、もう何度もエンカー地方に来ていてメルフィーナともそれなりに親しくなっています。
ロレンツォは商人の修行のやり直しとして、地方や国外を練り歩いてます。