223.公爵の側近と公爵夫人の会話
「マリー様、拠点には兵士もいますし、戻る前に籠を持ってきて差し上げては」
「そうですね。ここは任せて構いませんか、オーギュスト卿」
「はい、お任せください」
オーギュストがちょっとわざとらしいくらい恭しく言うと、マリーはこちらを向いた。
「メルフィーナ様、入れ物を持ってきますので、ここで少しお待ちいただけますか?」
「一人で行動は危ないわよ。一緒に戻りましょう」
「馬車は見えていますし、すぐに戻ります」
子供たちに言った手前、馬車が視界から外れないように行動していたため、確かに梢の向こうに馬車は見えている。
この辺りに危険な獣がいないことは到着前に調べてもらっているし、これだけ賑やかにしている場所にわざわざ近づいてくる獣もいないだろう。
「なにか、ごめんなさいね、マリー」
「いいえ、メルフィーナ様が楽しそうで、私も嬉しいです」
「走らなくて大丈夫よ、ちゃんとここで待っているから」
駆け出そうとしたマリーに声をかけると、マリーは肩越しに振り返り、少し照れくさそうに笑った。
小川から水の流れる音に交じり、ぴちち、と小鳥の鳴き声が聞こえる。
積もった雪が音を吸い、しんと静まり返っていた冬が終わったのが、ただ立っているだけで伝わってくる。
「メルフィーナ様、マリー様が離れている間に、少しお話をしてよろしいでしょうか」
その背中が十分に離れたのを見計らうように、オーギュストが告げる。
「いいわよ、どうしたの?」
「ウィリアム様のことです。ここ最近、様子がおかしいとメルフィーナ様もお気づきでしょう?」
「やっぱり、気のせいではないわよね。時々、気持ちが沈んでいるように見えるわ」
「そろそろ本格的に春ですから、公爵家に戻るのが憂鬱なのでしょう」
オーギュストにあっさりと言われて、ぱちぱちと瞬きをする。
すっかり領主邸の子供達の一人という認識になってしまっていたけれど、思えばウィリアムは冬の間エンカー地方で預かっているだけで、春になれば公爵家に戻ることになっているのだ。
むしろそんな当たり前のことを忘れていた自分に、少し驚いてしまう。
「そうよね、セレーネ殿下やロドとレナともすっかり馴染んでいたから、きっと寂しいわよね」
療養の名目で滞在しているセレーネはともかく、ロドとレナは領主邸内で仕事がある。醸造所とガラス工房の中でも二人の働きは評判がいいし、本格的な春になればそれなりに忙しくなるだろう。
ウィリアムだって公爵家の跡取りとして教育を受け、あと数年もすれば騎士見習いとしての訓練も始まるはずだ。いつまでもエンカー地方に置いておくのは、彼のためになるとは思えない。
来月に採れる木の実の話に表情を陰らせたのも、その頃には自分はここにいないのだと思ったからなのだろう。
「メルフィーナ様は、ウィリアム様を公爵家に戻すことに抵抗はないんですね?」
「私が抵抗を感じるようなことが公爵家にあるみたいな言い方をするのね」
聞き返すと、オーギュストは虚を衝かれたような顔をして、それから苦笑した。それから珍しく、困ったように空を見上げて、ふぅー、と間延びしたため息を吐く。
「家臣の身でこのようなことを言うのは出すぎなんですけどね、俺は、結構ウィリアム様には同情的な立場なんです」
「なんだか、穏やかではないわね」
どういうことかと視線で問うと、オーギュストは気まずげに告げた。
「ウィリアム様は、公爵家では明確にあるべき姿を望まれる立場です。立派な公爵家の後継ぎであり、理性的に振る舞い、公平で、そして強い武力を持つ次期公爵としての姿を公爵家に所属するすべての人々から望まれています」
オーギュストは視線を馬車の方へ向けるけれど、気持ちは馬車ではなく、どこか遠い場所を見ているようだった。
「ウィリアム様って、閣下によく似ているでしょう? そのせいもあるのか、自然と閣下のように育つと周りは思っちゃうんですよね。そして、ご本人もその期待に応えようとしていますが、ウィリアム様と閣下は全然違う存在なわけで」
「それはそうよ。たとえウィリアムがアレクシスの遅れて生まれた双子の弟だって、同じように育つわけはないわ」
その例えにオーギュストはぶはっ、と肩を揺らして笑う。
「本当、そうなんですよ! 周りの大人がもっとそこのところを分かっていなければならないんですけどねえ……、まあ、俺もエンカー地方で過ごすウィリアム様を見るまでは、困った方だと思っていたので、偉そうなことは言えないんですけど」
「ウィリアムは、いい子だわ。聞いていた話とは全然違うなとは思っていたの」
実際に会う前にマリーとオーギュストから聞いていたウィリアムの評価は、思い立ったら何をするか分からず、強引で、周りの意見を聞き入れない、手に余る子供に近いものだった。
公爵家の継承権を持ちながら王都にやられるかもしれないとまで言われていたのだから、どれだけ周りが手を焼いていたのか伝わってくる。
けれど、実際に会ったウィリアムは感情を押し殺す、環境に傷ついた子供にしか思えなかった。
この冬の間、問題行動と言えるものは一度もなく、子供らしくよく笑い、大人の言いつけを聞いて、セレーネを慕う、普通の子供にしか見えない。
「きっと、俺たちが思うよりずっと、ウィリアム様は無理をしていたんだと思います。閣下も気にされてはいるのですが、仕事が忙しくて普段は顔を合わせることも稀ですし」
母親がいればまた違ったかもしれないけれど、ウィリアムの両親は彼に物心がつく前に他界している。
その両親についても、ウィリアムの心の支えになるようなエピソードがあったようには思えない。
「オーギュストは、私にどうして欲しいのかしら」
「それが、俺にも答えが出ないんですよねえ。このままエンカー地方にウィリアム様を置くのは、家臣たちがどう受け取るか分かったものではありませんし、かといって公爵家に戻せば元の木阿弥になりかねない。これまであの方を困った子供だなんて思っていた大人として、なんとかなってほしいという気持ちは、すごくあるんですけど」
「私も出奔している公爵夫人だから、あまり偉そうなことが言える立場でもないけれど、ひとつ、アドバイスしましょうか」
「お、ぜひお願いします」
「そんな風に自分のことで悩んでくれる大人がいるって、それだけで子供には心強いと思うわ。まずはウィリアムに、自分はあなたを気にかけているのだと伝えてみたらどうかしら」
「……そんなことでいいんですかね」
「アレクシスがオーギュストを頼りにしているのも、オーギュストが誰よりアレクシスを大事にしているからじゃない? そういう存在って力になるわよ」
メルフィーナにとってマリーがどれほど心強く、また支えになったか、きっとマリー自身にも分からないだろう。
ウィリアムにそういう存在が出来るまで、周りの大人が彼を大切にしていければ、それが一番だ。
「心に留めておきます。あ、マリー様が戻ってきますね。今の話はご内密にお願いします。メルフィーナ様の心を煩わせるなと、また叱られてしまいますので」
「マリーはそんなことでは怒らないわよ。――と言いたいけど、マリーってオーギュストにはちょっとだけ当たりが強いわよね。二人は、もしかして仲がよくないの?」
揉め事に発展したことはないけれど、マリーはオーギュストに辛辣なところがあるし、オーギュストは茶化してはいるけれど、それはマリーの言葉をまっすぐに受け止める気がないようにも見える。
それは彼女の兄のアレクシスに忠誠を誓い、マリーを様付けで呼んでいるにしては、少しちぐはぐな印象を受ける物だった。
「いやあ、俺は結構マリー様のことは好きなんですけどね、マリー様から好かれていないだけです。すみません、もしかしてメルフィーナ様、気まずいですか?」
そう言いながら、やはりその言葉からは、マリーからどう思われていても関係ないという気持ちが伝わってくる。
マリーは基本的に親切で優しい人だし、オーギュストだって決して悪人ではないけれど、人には相性というものもあるのだろう。
「いえ、二人が気にしないなら別にいいの。二人は幼馴染なのよね?」
「うーん、幼馴染というには年が離れてますけどね。同じ時期に公爵家で子供時代を過ごした相手という意味では、そうかもしれませんが」
妙に含みのある言い方である。本人も自覚があるのだろう、複雑そうな表情だ。
「マリー様と俺では、大事にしている部分が違うんですよ。その違いが噛み合わないから、お互い距離があるだけで、軽蔑しあっているとか、そういうことではないです。……去年の冬、マリー様が、メルフィーナ様が北部に嫌気が差してどこかに行きたいというなら、それがどこであっても付いていくと言ったのを、覚えていますか?」
「そんなこともあったわね」
セレーネとの距離感を不意にアレクシスに見られて、彼の抱えているトラウマを刺激し、それに呼応する形でメルフィーナも過去を思い出して腹を立てた。
思い出せば、感情的になった自分が恥ずかしくなる記憶だ。
「俺は、閣下に忠誠を誓っています。もし閣下に魔物の牙が向けられれば、肉壁にでもなんでもなる覚悟もあります。それでも、閣下が公爵の地位に嫌気が差して、何もかも捨てて出奔すると口走っても、そうしましょう、俺も付いていきますよとは言えません。それが言えるマリー様が羨ましいと思いますし、同時に相容れないとも感じます」
「そう……そうね」
アレクシスの両肩には、北部そのものが乗っていると言っても過言ではない。
人一人が背負うには重すぎる責任を、それでも担いでいるからこそオーギュストは自分の夢を捨ててでもアレクシスに忠誠を誓っているのだろう。
マリーは、もしメルフィーナが全てを捨ててしまっても、きっと傍にいてくれるはずだ。
どちらの感情にも、きっと、正解はないのだろう。
それにしても、過去にこの二人は縁談が持ち上がったことがあると聞いている。どう考えても無理だろうと思うのだけれど、言い出した人はよほどデリカシーが無かったのだろう。
悪気はないけど無神経だと、前にマリーが言っていたのを思い出し、それに該当する心当たりが一人しかいないことに、マリーも大変だと少し同情する。
「伯母様! 籠を持ってきました!」
ウィリアムの声に、オーギュストは半歩後ろに下がると、それまでの気安い空気を消した。
マリーに、セレーネとウィリアムもついてきたらしい。外側のスカートをたくし上げたままのメルフィーナにセレーネはぎょっとした様子だったけれど、ウィリアムは構わず駆け寄ってくる。
「ありがとうウィリアム。あら、お花が入っているわ」
森に咲く花を摘んで作ったブーケが、籠の中にちょこんと入っている。草の蔓でまとめたらしく、白と青を基調にした、かわいい花束だ。
「私とセレーネ様と、ロドからの贈り物です!」
「私も頂いてしまいました」
マリーも片手に野草のブーケを持っていて、嬉しそうな様子だ。
「ふふ、ありがとう、ウィリアム、セレーネ」
ウィリアムの頭を撫でると、ウィリアムは虚を衝かれたように息を呑んで、それから、照れくさそうに白い頬を赤く染めて笑う。
「そろそろお昼にしましょうか。ロドとレナはもう戻ってる?」
「先ほどエドが到着したので、そちらを手伝っています」
「あら、じゃあ、私達も行きましょうか」
収穫物を籠に移し、共に連れ立って歩き出す。
ウィリアムは、ぴょんぴょんと跳ねるように少し先を歩いている。
マリーとセレーネはメルフィーナの左右に並んでいて、オーギュストはその少し後ろに控えていた。
小鳥の鳴き声がずっと響いている。
――ずっと、こんな時間が続けばいいのにな。
ここにセドリックやユリウス、アレクシスもいて、ユリウスはレナと興味を引かれるまま走り出し、セドリックはそれに呆れて、アレクシスは何を考えているか読み取りづらい顔でエールを傾けていて。
誰も何も我慢せず、諦めずに過ごせれば、どれだけいいだろう。
「姉様、この緑の長いものはなんですか」
「アスパラソバージュよ。昼食に少し焼いてみましょうか。気に入ったらもうすこし摘んで帰りましょう」
「楽しみです」
笑うセレーネに微笑み返して、ロドやレナ、エドの待つ拠点に歩いていった。




