221.それぞれの心の裏
丁寧に礼を尽くし、再会の約束をしてレイモンドは城館を辞していった。隊商の一部はまだエンカー地方に残るそうだが、彼らはその足でロマーナに戻るのだという。
マリーが淹れてくれた温かいコーン茶でほっと一息つくと、先ほどまでレイモンドが座っていた席に腰を下ろしたオーギュストも同じように一服した後、ぽつりと告げた。
「正直、あの取引は意外でした。エンカー地方で赤豆煮を独占することも出来たのでは?」
オーギュストの声は何気ないものだけれど、ほんの少し、不満げに響く。
「豆というのは、そのまま種なわけでしょう? 今回購入した赤豆をエンカー地方で育てて、甘く煮た後瓶に詰めればいい輸出品目になったんじゃないかって、俺なんかは思うんですが」
「そうね、そうすることも出来たと思うわ。でも、当面はこれ以上の事業を抱える余裕がないのよね」
事業を回すには、そのための人員が必要になる。いくら住人が増えつつあるとはいえ、輸出品目ではとうもろこしに新種のエール、瓶詰の加工製品が軌道に乗り、海運によって北部に留まらず海外でも高級品として広まりつつあり、需要は高まる一方だ。
ロマーナの赤豆の相場の心配をする前に、エンカー地方は現在、すでに飢饉による食品高騰と新製品の輸出による特殊需要に入っている状態である。
甘い赤豆煮は確かに大きな流行を生む商品だとメルフィーナも確信している。これひとつで、将来的に大企業と呼ばれる商会が新たに誕生してもおかしくない規模だろう。
オーギュストがやすやすとそれを他の商会に譲ってもいいのかと思うのも、尤もな感覚である。
公爵家に余裕があれば作付けと加工を担ってもらうこともできたけれど、そちらはそちらで、いずれ来る製糖事業の準備を秘密裏に行っているところだ。
こちらは商売どころか、国の在り方を変える可能性すらある大事業である。
「私は知識や技術の安売りをしているつもりはないわよ。赤豆煮だって、基幹技術はこちらが抱えている状態だわ」
赤豆の生産と加工は大獅子商会が行ったとしても、その規模が大きくなればなるほど、種麹の価値も上がっていく。
いずれ種麹の製法が看破される日がくるかもしれないけれど、それまでに十分な利益がメルフィーナの元に転がり込むだろう。
メルフィーナは微笑んで、ぴっと人差し指を天に向ける。
「まずしばらくは、種麹を大獅子商会に卸すことで利益が入るわ。そして赤豆煮にエンカー地方で作られている種麹とやらが必要だと周囲の商人や資本家たちが気づくのに数年、大獅子商会の頑張りによっては十年以上かかるでしょうね。そうして気づいたら、こちらにも種麹を卸してほしいと接触があるでしょう?」
「まあ、必ずそうなるでしょうね」
オーギュストの答えに、メルフィーナは人差し指に続き、中指を立ち上げる。
「そうなったら赤豆煮の取り扱いの優位性を保ちたい大獅子商会は、独占契約を持ち出さざるを得ないわ。その頃には赤豆煮の事業は今からは想像できないほど膨れ上がり、掛かる手間や経費も相当なものになっているはずよ」
農作物というのは、今年取れた分量が必ず来年も収穫できるというものではない。高需要と実際に確保できる作物の量の天秤は、常に不安定に揺れている。
だからこそ前世でもあずき相場という言葉が生まれ、あずきは赤いダイヤとまで呼ばれる存在になった。
メルフィーナは薬指を立て、最後に、と告げる。
「高まりきった赤豆の需要はある時天井を突いたあと、おそらく一気に下降するわ。流行は移ろい変わるものだし、時間が経てば新しい商品に人の興味も移るもの。ただ、それが十年後か二十年後か、もっと先かは誰にも分からないわ」
いずれ公爵家が行う製糖事業のことは、懐刀であるオーギュストも知っているはずだ。砂糖が平民の口に入るほど価格が下がるには、それなりに長い時間がかかるだろうけれど、その時はいずれ必ずやってくる。
「需要があるうちに極端に製品が不足すれば大きな不満を買うけれど、今年売れたものが来年は見向きもされなくなるかもしれない。そうなった時に投資や設備、借金がどうなるのか、これはもう賭けのようなものよ」
特許という概念のないこの世界では、技術は秘匿し、漏れるのを恐れながらそれまでの間稼ぎ抜くものだ。それに比べたら、定期的に種麹を作って卸すのは随分気楽な立ち位置である。
メルフィーナは最初こそトウモロコシ単体で莫大な利益を稼いだけれど、その後は複数の製品を開発、販路を固定しないことで、どれか一つが駄目になってもすぐに大きな影響が出ないよう、収入源を分散させている。
大幅な設備投資をしすぎない代わりに一品目で最大限の売り上げを見込める売り方もしない。リスクを分散させるやり方は、商人ではなく領主の稼ぎ方だ。
「私は確実性のない賭博はしたくないし、ギャンブルに領民を付き合わせる気もないの。そういうのは生粋の商人がやればいいことよ」
「ははぁ……それは、あの会頭は」
「もちろん承知の上でしょうね。彼にこんな忠告をするのは、却って失礼だわ」
ほんの少し話しただけで、レイモンドはこちらの意図を正確に汲み、返してくる。
攻略対象のスペックを持つ一流の商人である。メルフィーナが行うよりよほど上手く、そして長くこの事業を扱ってくれるだろう。
「彼は怖い人よ。敵に回したくないし、多少の恩で信頼と手助けが買えるなら、それに越したことはないわ」
「なるほど、メルフィーナ様と同類ってことですね」
「オーギュスト卿」
オーギュストの軽口に、マリーが諫めるように名前を呼ぶ。
メルフィーナは笑って、コーン茶に口を付けた。
「私とは全然違うわよ。私は平凡な領主で、無害な公爵夫人だもの」
そう言うと、オーギュストだけでなくマリーまで、なんとも言えない複雑そうな表情を浮かべている。
欲をかきすぎず、それでいて領地を富ませる努力をする。
どこから見ても平凡な領主だというのに、それには納得してもらえない様子だった。
***
荷物を積んでいない馬車は、そうでない馬車と比べると格段に揺れが少ない。幌を張っているとはいえ、護衛と主人二人しか乗っていないならなおさらだ。
「まさかこんなに素晴らしい商売のネタを与えてもらえるとは。ちょっと顔を見るくらいのつもりだったのに、思わぬ収穫でしたね」
小壺を取り出して眺めるレイモンドの目は、どこかうっとりとしたものだ。向かいに座るショウは、不機嫌な様子を隠さずむっつりと向かいに座る主を睨む。
元々身内贔屓なところがある男だが、あの公爵夫人に対してはどうも箍が外れている気がする。長い付き合いで、決して失敗しない男だという認識が、彼女と関わるたびにぐらぐら揺れている気がする。
「お前は、本当に彼女を妹だと思っているのか?」
「またその話ですか。いい加減、繰り返しに飽きてきませんか?」
小壺を布に包み、座面の下の物入れに慎重にしまい、こちらに向けられたレイモンドの複雑な色をした目に、少しうんざりしたような色が宿る。
自らの興した商会に大獅子商会という悪趣味な名前を付けた男は、長い脚を持て余すように組んで、気だるげに肘を突く。
客の前では絶対に見せない姿だし、決してしない口調だ。
「何がそんなに気に入らないんですか? ロマーナ皇族である条件は、十分に満たしているでしょう」
ほんの子供の頃からの腐れ縁でもある護衛の前では、レイモンドもいつもとは違い昔の身分の喋り方になる。
名前も立場も変わってしまった彼が、皇子と呼ばれていた頃の、かすかな残り香を感じることが出来るのは、こうして二人で密室にいる時だけだ。
「その条件とは、金の髪と緑の瞳のことか? 周辺の王家を見回せば、その色を持った人間などいくらでもいるだろう」
「それに加えてあの飛び抜けた知識を持つ人間が、どれくらいいると思っているんですか」
「あれは飛び抜けすぎだ。――おまえだって本当は分かっているだろう」
こちらとて何度も蒸し返すのは気が滅入るけれど、目の前の男が盲目になろうとするときは歯止めになるのも自分の役割のひとつだ。
エンカー地方に実際に足を運んだのはたった二回だが、部下たちの報告はつぶさに受けていた。
ほんの二年前まで、商人の間でエンカー地方という名前は認知すらされていなかった。公爵家に長く出入りしているアントニオさえほとんど印象になかった土地だ。
個人的に調べたけれど、過去には国の端の開拓地域という以外の情報はひとつも出てこなかった。
それが今はどうだ。真新しく整った街並み。清潔な空気と明るい表情の住人達。通りは常に活気に満ちていて、子供たちは労働力ではなく笑って道を走り回っている。
そこらの露店で肉がたっぷり挟まった軽食を売っている土地など、長くレイモンドの補佐をして各地を渡り歩いたけれど、一つも知らない。そのひとつひとつがいちいち美味で、領主直轄店で売っているエールと嫌味なくらいよく合う。
大規模な貯水池と領地に張り巡らされた水路。堀の向こうに外界から隔離された城館。政治システムはまだ甘い所があるが、寒村しかなかった荒野と森から、公爵夫人がたった二年で作り上げた領地だと聞いて、誰が信用するというのか。
あまりにも出来過ぎている。客観的に見ればそう思うのは順当な判断だ。
そして、その才能に、目の前の男が夢中になるのも、また分かる。
為政者ならば、あの公爵夫人は誰であっても傍に欲しいと願わずにはいられない存在だろう。
「満たしている条件とやらがこじつけなことが分からないお前じゃない。――本当に、あの公爵夫人が自分の妹だと思っているわけではないんだろう」
普段、ショウはレイモンドのすることに文句をつけることはほとんどない。商売に関しては武骨な自分は柔軟で繊細な感覚を持っているレイモンドの足元にも及ばないことは分かり切っている。
どんな場面でも抱かなかった危惧を、あの公爵夫人は抱かせる。
「――あなたが心配することはないですよ、ショウ」
ふい、と視線を背けると、長く伸ばした金の髪がさらりと音を立てて肩から零れ落ちる。
「結局は、確認しようのないことです。革命軍が僕にたどり着くまでに犠牲になった後宮の女性たちや、名前も顔も知らないまま斬り捨てられていった兄弟姉妹たちの、一人でもどこかで生き延びていてほしい。僕がそう信じたい、それだけです」
皇太子である以前に「神の目」と呼ばれる特徴的な瞳を持っていた少年は、後宮の最深部で神の子として暮らしていた。人前で瞼を開くことはなく、崇められ、成人しても人前に出ることはない象徴としての皇帝となるだけだっただろう。
革命軍が王宮を落とし、次代の皇帝である皇太子にたどり着くまでに、皇帝の女たちも継承権が無いに等しい皇子皇女たちも、血だまりに横たわることになった。
その中で、たった一人逃げ延びたことを皇太子は――レイモンドは未だに許せずにいるらしい。
豊かな土地と多くの資産を持ちながらただそれを消費するばかりの愚帝の首を取ることで革命軍の信頼を得て、その裏で皇子の逃亡を手引きした父と自分を傍に置き、革命軍に与えられた「ライオン」の別名を自分の商会に名付けたのは、どういう心の裏があったのか、ずっと傍にいる自分にも計り知れない。
いずれ彼は正しい立場に返り咲くだろう。それだけの能力がある男だ。
その時はまた、多くの血が流れるに違いない。
それほどの男が、たった一人でも兄弟姉妹に生き残っていて欲しいのか、そんなことが救いになるのかと思うこともある。
しばらく黙り込んだ後、レイモンドはふぅ、と気だるげにため息を吐く。
「本人は否定していますし、何より公爵夫人という高い地位を持った人です。実際にそうだったとしても、違っていたとしても、僕にどうこう出来る人ではありません。ですが心の中で、生き残った妹が幸せに暮らしていると思うくらい、許してくれてもいいんじゃないですか?」
「……分かった。俺からは、もう何も言わん。だが、俺が優先するのはお前の安全だ。それは忘れるな」
「分かっていますよ。あなたの父上の悲願も、それを果たす義務が僕にあるということも。忘れたことはありません」
皮肉気な言い方をするのは、機嫌が悪い時のこの男の癖だ。
何度も蒸し返されて、嫌気が差したのだろう。自分の機嫌は自分で取れるのは分かっているので、口をつぐみ、しばらく放っておくことにする。
馬車は雪解けが始まった道を、ゆっくりと南に向かって進む。
――幸せに暮らしている、か。
もしもそうでなくなったときに、レイモンドがどう動くのか、自分にも予想がつかない。こんなことは初めてだった。
あのやたらと知恵を持った美しい公爵夫人については、北の端でトラブルなく暮らし続けていて欲しい。そう願うよりほかなかった。