213.寝室と密談
二日間の討伐の疲れが出たのだろう、コーネリアは朝食を終えた後、実に幸せそうな顔のままあてがわれた客間に入り、午前中はずっと眠っていたようで、次に顔を出したのは昼食の席のことだった。
アレクシスは魔石を懐に仕舞うと、朝食は要らないと告げると同じく客間に戻り、こちらは昼下がりまで休息にあてていたらしい。途中オーギュストが軽食を運んだようだが、結局全員が再び食堂に揃ったのは、夕食の席になってからだった。
「公爵家の騎士も兵士も、とても士気が高いです。討伐にも慣れていて動きに無駄がないですし、皆さん本当に勇敢でした」
「北部の魔物の討伐は、生活に直結している。自分の後ろに家族や領民がいると思えば、自然とそうなる」
「怪我人が出たということですが、大丈夫でしょうか? 以前聞いた話だと、傷が治癒しても流した血は戻らないということでしたが」
「すぐに治療できましたし、安静にしていれば大丈夫だと思います。治療魔法を使った怪我人は二週間は訓練などに参加はせず、食事を増やして保温しつつ養生してもらうことになっているので」
なるほど、体を回復させるのに、正しい処置である。この方法が確立されているのと同じ社会で、いまだに瀉血がまかり通っているのが信じられないくらいだ。
「兵舎に振る舞いをしたほうがいいかしら」
「必要ない。エンカー地方には見習いの兵士が多いが、自分たちで対処できるようになるまでが訓練だ」
口調は相変わらず淡々としているけれど、エドが丹精込めて作った料理は口に合うらしく、肉を切り分けては口に運んでいる。コーネリアもアレクシスの口調など全く意に介した様子はなく、ローストビーフを口に入れてはほう、とため息を吐いた。
「神殿でたまに口にするお肉は硬くて噛み切れなくていつまでも口の中に残るのに、生のお肉がこんなに柔らかくて、こんなに美味しいなんて、不思議です。ああ、口の中が全部幸せです」
「赤い色をしていますが、火はちゃんと通っているんですよ。決してお腹を壊すようなことはないので、安心して食べてくださいね」
牛は食肉用というより、農耕用と乳を取る用としての利用がメインだ。肉が硬いのは、おそらく農作業用の牛が年老いて使えなくなって潰したものを食べているからだろう。
「このソースがまた、お肉の味を引き立てていますね。付け合わせのお野菜と一緒に食べても、パンと食べても合うなんて本当に素晴らしいです」
コーネリアの皿が空になると、すかさずエドがスライスして追加を載せる。
「しかし、本当に美味しいですね。これってオーブンで短い時間焼くだけ、ではないんでしょうねきっと」
「勿論、色々と工夫がしてあるわ。真似をするのはいいけれど、おなかを壊しても責任は取れないわね」
「肉に中ると、まあまあ命に関わりますから、俺としてもメルフィーナ様の料理長の作ったものでなければ口にする勇気はありませんね」
惜しみない称賛に、エドは面映ゆそうに笑っている。それにメルフィーナも微笑みながら、パンの上に野菜を載せ、その上にローストビーフを重ねてオープンサンドとして口に入れる。
ソースはすりおろした玉葱にオリーブオイル、ヴェルジュ、ワインビネガーを混ぜたものに砂糖と塩で味を調整し、挽いた胡椒を混ぜたものだ。爽やかな酸味がしっとりとした薄切りのローストビーフの味を引き締め、際立たせている。
「そうだわ、アレクシス。今夜寝室に来てほしいけれど、大丈夫かしら? 疲れているなら明日でも構わないのだけれど」
「ああ、構わない」
あっさりと応じられてほっとすると、向かいに座っているマリーと目が合った。その隣に座っているオーギュストも、やけに驚いたような表情を浮かべている。
「あの、メルフィーナ様。お話をするならお茶を用意したほうがよろしいでしょうか」
「マリーったら、夜はちゃんと休んでちょうだい。お茶くらい、飲みたくなったら自分で淹れるから」
休日でもメルフィーナが動くときは自然と隣にいるマリーであるけれど、夜は休息の時間だ。そこまで自分に付き合う必要は無いと笑う。
「念のために確認しますが、閣下の護衛は必要ではありませんよね」
「寝室と言っているのに、必要なわけがないだろう」
貴婦人の寝室に入ることが許されるのは、侍女と夫くらいのものだ。貴族の家なら護衛がドアの前で立ち番をしていることもあるけれど、領主邸でそんな真似をされるのは流石に抵抗がある。
「ですよね。失礼しました」
夕飯を終えると、使用人たちは城館の敷地内にある宿舎に戻り、セレーネを含む子供たちはおやすみの挨拶をして領主邸の別館にある部屋に引き上げていく。たくさん食べて大いにエールを楽しんだコーネリアは、満腹感にすでに半分ベッドの中にいるような眠そうな様子だった。
メルフィーナもマリーと挨拶を交わして寝室に入り、結った髪を解いてブラシをかけていると、しばらくしてドアが軽く叩かれた。ドアを開けると先ほど食堂にいた時と変わらない服のままのアレクシスで、中に誘う。
「ごめんなさい、夜中に呼び出してしまって」
「構わない。――魔法使い殿のことだろう」
ドアを閉めて鍵をかけてから、慎重に声を潜めて言われ、頷く。
昼間、魔石を浄化した時から同じ方法をユリウスに対して試してみたいと思っていた。そしてそれには、どうしても、アレクシスの助けが必要だ。
「今日、魔石でやったことをユリウス様にも試してみたいので。その立ち会いをお願いしたいの。実は、以前魔力を使おうとして、昏倒して三日寝込んだことがあって」
そう言うと、アレクシスはとても驚いた様子だった。
オルドランド家は生まれつき魔力も魔力耐性も高い子供が生まれるというし、アレクシス自身子供の頃から魔力中毒に悩まされることもなかったようなので、魔力中毒で倒れてそのまま三日も意識が戻らないというのは、想像がつかないことらしかった。
弱い魔力しか持たず、肉体の耐性も低いメルフィーナにとって、魔力が関わる行為はその大半が危険なものである。前回のことを考えても昏倒するのにタイムラグは存在せず、一気に意識を失ったとしか思えない。
ユリウスを安置している地下室は、現在氷の魔石を使った氷室になっている。氷点下を優に超えた場所で昏倒しようものなら、発見される前にメルフィーナ自身が氷像になっているだろう。
そう説明すると、アレクシスは神妙な表情で頷いた。
「私も、一度魔法使い殿がどのような状態かこの目で確認しておきたかった。立ち会いに関しては、心配しなくてもいい。何が起きても対処できるようにしよう」
高魔力の氷属性のアレクシスがそう言ってくれるならば、メルフィーナとしても安心して浄化を試すことができる。
この世界の夜は早い。日が落ちればみんな夜更かしなどすることなくベッドに入り眠りにつくけれど、念のため、少し時間を潰してから地下に向かうことにした。
「エンカー地方の家畜は豚と牛と鶏がメインのようだが、羊やヤギは飼わないのか?」
「乳は牛から取れるし、臭みのないチーズを作るのは牛乳のほうが向いているの。何より、牛は牛糞がよい肥料になるし、農耕にも利用できるから」
「ソアラソンヌでも実験的に牛を増やして肥料を作る体制を整え始めているが、初めての試みなので試行錯誤の最中だ。甜菜の栽培が始まるまでには軌道に乗せたいところだが」
「一度、うちの農場から技術指導に人を出しましょうか。引き抜きをされるのは困るけれど、数か月の出向なら問題ないわ」
「それは助かる。それと、花押入りのエールの評判が騎士から貴族家に広がり始めている。何度か、購入出来ないかと書簡が届いていた」
「公爵家が推薦する家なら直接売買してもいいけれど、個別対応が増えるとエンカー地方の事務能力だと難しくなるかもしれないわ。間に商人を入れるのが一番いいのでしょうけれど……」
「何か不安があるのか?」
「商人によってどうしても値段の上下が出るのと、輸送能力の違いも少し心配ね」
前世では信じられないようなことが平然と起きるのがこの世界というものだ。
不心得な商人が樽からエールを抜いて口を付け、減った分は自分たちの造ったエールをつぎ足したり、下手をしたらただの水で埋めたりするという可能性もないわけではない。
出来れば一度はエンカー地方に足を運んで直接自慢のエールを堪能してもらいたいものだけれど、移動中の危険もある。中々難しいだろうし、多少輸送に時間が掛かっても劣化しないエールを開発し、洗練させている最中だ。離れた場所でも特産のエールが楽しめるというコンセプトは外したくない。
「いずれ、ソアラソンヌにエンカー地方の直売店を持ちたいと思っているのだけれど、いい物件があったら押さえておいてもらえないかしら」
「エンカー地方の品を販売する店ということか。斬新で話題になるだろうな。今なら店や土地を手放したいという者も多いだろう。ルーファスに良い物件を探しておくように伝えておこう」
どんな店も、購買力のある客に支えられているものだ。飢饉に端を発した不景気と食料品のインフレーションに、ほとんどの店は経営が苦しくなっているのは想像に難くない。
所有しているだけで税金が掛かる不動産を手放したいと思っているオーナーも少なくないはずだ。
「飢饉の不景気に付け込むようで、なんだか悪い気はするけれど」
「悪い? 何故だ?」
アレクシスは心底不思議そうな表情だった。
メルフィーナには生産力があり、資金も潤沢に保有している。投資家としては好機を逃さないことこそが賢い立ち振る舞いであり、アレクシスも弱みに付け込むなどという考え方のほうが奇異に感じるようだった。
「確実に儲かるだろうから、私にも出資させてもらいたいが、資本には困っていないだろうな」
「とても光栄な申し出だわ。いずれ北部からさらに手を広げるなら、出資にオルドランド家の名前が入っている方が箔が付くもの」
「君が経営している時点で、その箔は最初から付いているだろう」
「あら、ほんとね」
軽く笑うと、アレクシスもうっすらと口元に笑みを浮かべる。
ユリウスを、もしかしたら元に戻せるかもしれないという期待と緊張を前にして、穏やかに雑談が出来るのはいい兆候だ。
思いつめても不安に駆られても、いいことなどひとつもないだろう。
――その相手がアレクシスだなんて、一年前の自分に言っても、絶対に信じなかったでしょうけれど。
「そろそろ行きましょうか。あまり遅くなっても、よくないから」
アレクシスを寝室に呼んだことでマリーやオーギュストが勘違いをしているのは気づいていた。メルフィーナはあえてスルーしたし、アレクシスも冷静な態度を崩さなかったけれど、明日の朝、二人そろって寝不足そうな様子を見せるのはさすがに気が引ける。
――密談をするには、すごく楽だけれど、あまり使える手ではないわね。
今回はどうしても密談が必要な状況だったけれど、夫婦の「実績」があるような振る舞いは、極力するべきではないだろう。
――アレクシスにも、悪いことをしてしまったわ。
明日は特別製のエールを出してあげよう。そんなことを考えながら、音を立てないようにドアを開けて、そっとメルフィーナの寝室から二人そろって抜け出した。