211.待つ時間とカモミールティー
重たい雰囲気で夕食を済ませ、気を揉んでいても仕方がないとマリーに言われて寝室に入ったものの、中々寝付くことが出来ず、メルフィーナは何度も寝返りを打つことになった。
ベッドに入って随分過ぎてからようやくうとうとしたものの、眠りは浅く、何度もおかしな夢を見ては目が覚めてしまった。
朝が来ても中々目が覚めず、なんだか眠る前より疲れてしまった気がする。
朝食を終えて何か出来ることはないかと思ったものの、すでに用意出来るものは手配済みであるし、のこのこと慰問に出かけては現場の負担になるだけだろう。
せいぜい、何か起きた時に居場所を明確にしておくことしかやることがなくて、執務室で春蒔き用の種の選別をすることにする。
「種の選別の話は閣下から聞いていましたけど、実際、どれくらいの効果が見込めるんですか?」
メルフィーナの臨時の護衛騎士を任命されたオーギュストは、この手の作業を手伝うことをまるで嫌がらず、むしろメルフィーナのすることに興味があるらしく、積極的に手伝ってくれる。
「やり始めたばかりだから、一年で一割くらいの増収が見込めるかしら。もちろん品種にも、管理にもよるし、繰り返すうちに最大値に落ち着くと思うわ」
「今やっているこれはなんの種なんですか?」
「ニンジンよ。大きさもそうだけれど、食味を良くしたいの」
長年の品種改良を繰り返した結果の前世と今世では、同じ名前の野菜でも形が微妙に違っていたり、味もあまり良くなかったりするものも多い。
その中でもメルフィーナが気になるのがニンジンだった。
前世のそれよりひょろひょろと細長く、色はややくすんだオレンジと紫の中間で、生でも火を通しても青臭さが強い。繊維質で、火を通してもなんとなくボリボリとした食感が残る。
前世のような甘く柔らかく青臭さもない一代限りの優良品種とまではいかなくとも、もう少し収穫量が見込めて味の良いものに出来ないかと試行錯誤の最中である。
じっとしていると余計な想像をしてしまうけれど、細かい種に「鑑定」を掛けながらより分けていく単純作業は気を紛らわせてくれた。
ニンジンの選別が終わると豆類の選別に入る。これはニンジンの種よりずっと大きいので選別も楽だ。ただ、ニンジンはメルフィーナの実験用の菜園で育てる分だがこちらは領主直轄の圃場に使う用途なので、量はかなり多い。
二時間ほど没頭すると、マリーが休憩用のお茶を淹れてくれる。カップの中身は黄金色で、ほんの僅か甘酸っぱい、優しい香りがする。マリーは何も言わないけれど、気遣われていることが伝わってくるお茶だった。
オーギュストは初めて口にするらしく、口を付けて、不思議そうな顔をした。
「このお茶、コーン茶ではないですよね。初めて飲む香りです」
「カモミールよ。今、城館のあちこちで栽培しているの。お花が可愛いし、こうしてお茶として飲んでもとてもいいのよ」
温かいお茶を飲むと前かがみの姿勢での作業に負担がかかっていた首や肩がじわりとほぐれる感じがする。
「新しいお茶ですか。メルフィーナ様、お茶がお好きですよね」
「エールやワインも悪くはないけれど、昼間に飲むのはお茶の方が私は好きよ」
エンカー地方は寒冷なので、紅茶は栽培に適さない。現在は麦茶かコーン茶、アレクシスが土産で持ってくる紅茶が主な休憩中の飲み物だが、エンカー地方で取れるお茶の種類がもう少しあってもいいだろう。
「それに、カモミールティーはいい効能がたくさんあるの」
「お茶に効能ですか?」
この世界では水は安全という保証がないので、貴族も平民も口にする水分はエールやワインといったアルコール発酵を経たものがメインである。
水分補給という概念もないのと、習慣的に生水が体に良くないことは知られているので、それ以外ではそもそも、あまり水を飲みたがらない。
お茶に関してはせいぜい貴族が紅茶を飲むくらいで、あまり飲茶文化は広がっていないので、メルフィーナがエンカー地方に来て最初に行ったことのひとつに、農作業中の水分補給の推奨があった。
夏でも涼しい日の多いエンカー地方だけれど、労働者が汗をかくのは前世も今世も変わらない。幸いコーン茶や麦茶の原料は豊富に取れることと、水分を補給すると体が楽になるので速やかに広がり、今では午前と午後に小休憩を挟み水分補給するのが、エンカー地方では当たり前になった。
エンカー地方の存在感が増していけば、いずれこの習慣も広がって行くだろう。その頃に、手軽に飲めるお茶が色々とあればいいと思う。
「カモミールティーには、不眠や不安感の軽減、安眠、胃腸の不調の改善に、緊張や炎症……傷や喉の腫れの鎮静効果もあるわ」
「それって、もう薬草じゃないですか?」
「似たようなものね。でも薬草より育てるのが比較的簡単で、日常的に使えるのよ」
オーギュストはカップの中身を見下ろし、くい、と傾けて、ため息を吐いた。
「メルフィーナ様、こちらのお茶、少し分けていただけませんか?」
「構わないけれど、アレクシスに淹れてあげるの?」
オーギュストに限っては緊張やストレスで眠れないなどということはなさそうだと不思議に思って聞いてみると、いえ、と苦笑交じりに言われる。
「家令のルーファス様に差し上げようかと。それなりにご高齢なのですが、閣下が留守の間は公爵家の切り盛りを一手に引き受けていて、よく胃のあたりをさすっているので」
「瓶に詰めて、リボンもつけておくわ」
アレクシスの代理とは、中々重たそうな荷である。
公爵家の家令は有能だと、時々名前を聞くけれど、末永く元気で頑張ってほしいものだった。
* * *
その日、日が暮れる直前に伝令が届き、アレクシスとコーネリアは引き続き拠点とした牧場に滞在する旨を伝えてくれた。
今のところ魔物は姿を現しておらず、牧場内に囮の豚を放牧し、待ち伏せをすると伝えられた。
「何か足りていないものはない?」
「食糧やエール、毛皮なども十分に用意していただきましたので、問題はないかと思います。それと、用心深い個体の場合、長引くこともあるかもしれないので、あまり心配しないようにと閣下からの言付けです」
伝令の兵士は疲れを見せない様子で告げるけれど、目のあたりに隈が浮いていた。
どこに魔物が出るか分からない状況で、日暮れ近くに馬を走らせるのは緊張したに違いない。
労いの言葉をかけて、今日は兵舎に戻るというのでエールの小樽を持っていくように告げる。
「メルフィーナ様、夕飯の用意が出来ました」
冬の一日としては珍しく、執務室に籠っていたメルフィーナにエドが声を掛けにきてくれる。
食欲がないので夕飯は要らないと言いかけて、言葉を呑み込み、立ち上がる。
「もうそんな時間なのね。夕飯は何かしら」
微笑んで尋ねると、エドもほっとしたように表情を綻ばせる。
「低温でカリカリになるまで焼いたパンと冬野菜をベシャメルソースに浸して、刻みチーズを掛けて窯で焼いたグラタンと、鶏の肉団子と根菜のスープです。スープにはたっぷり生姜を入れました」
「まあ、温まりそうでいいわね。それにすごく美味しそうだわ」
領主であるメルフィーナが気を揉んで冷静ではない姿を見せれば、領主邸の住人にも不安が伝染してしまうだろう。
それに、長丁場になるならばしっかりと食べて休まなければならない。
戻ってきたアレクシスやコーネリア、兵士たちを労うのが、メルフィーナの役割だ。
今夜は、寝室に入る前にもう一杯、カモミールのお茶を淹れよう。そしてしっかりと眠って、明日を迎えよう。
そう決めるメルフィーナだった。