208.冬の災禍
執政官であるギュンターから面会の申し込みが入り、執務室で落ち合うと、短い挨拶の後、農場からの陳情で敷地内に放していた羊が一頭、姿を消したと告げられた。
「血だまりだけが残っていたというので、おそらく獣に襲われたのだろうということです。つきましては、農場を経営する夫妻は、領主様に猟犬を貸して頂けないかということです」
「それは勿論構わないけれど、犬だけでいいの?」
「農場を経営する者は、獣の害には慣れています。一度都合のいい餌場と認識されると被害が続きますので、金属を浸した水を柵に塗り、夜間は犬を牧場内に放って獣を遠ざけようということだと思います」
執政官として地方を回ってきたギュンターも、こういうときにどう対処するのかは心得ているようだった。頷いて、メルフィーナは考え込むように唇をなぞる。
「羊を狩るような獣が出たことも大問題だけれど、去年のこともあるわ。魔物の可能性はないのかしら」
今年の春に赴任してきたヘルムートである。去年の騒動は話でしか知らないはずだが、心得たように頷いた。
「今の時点ではなんとも言えません。ですが、農場は村より森に近いので、その可能性もあるとは思います」
四つ星の魔物であるプルイーナを筆頭に、北部の魔物は冬に集中して出現する。
そしてアレクシスとオーギュストが言うには、経験則的に、人口が密集している場所ほど強い魔物が出るのだという。
エンカー地方は日を追うごとに人が流入し、商業活動も次第に活発になってきているところだ。去年出た魔物が今年は出ないと言い切ることは出来ないだろう。
「去年出たのは狐型の魔物であると聞いています。あれらは非常に警戒心が強く頭がいいので、犬を放つだけでも一定の効果はあるでしょうが、根本的に解決するわけではありませんので、獣にしても、魔物にしても、いずれ狩ることを前提に動くべきでしょう」
「あの農場には小さな子供もいるし、獣でも大問題だわ。被害が広がる前に、早急にどちらなのか確定させなければなりません。ひとまず犬は猟師のゴドーに必要な頭数を用意してもらって、兵士たちに巡回の頻度を上げてもらってください」
言いながら、さらさらと、手元の植物紙にゴドー宛に農場に協力を要請する旨の書状をしたためる。
「かしこまりました」
「マリー、鍛冶工房からロイかカールに訪ねるよう、連絡をお願い」
「はい、すぐに」
当面の対応は決まったものの、憂鬱にため息が漏れる。
森の近くの集落ということもあり、畑や家畜に獣の害はつきものだ。前世でもイノシシやサルの食害を完全に遠ざけることは難しかったのだから、センサーや電気柵のないこの世界ではある程度の被害も織り込み済みにするしかないけれど、実際に家畜を飼い畑を耕している人間にとっては仕方がないで済まされる問題ではない。
「城塞化を進めるべきなんでしょうけど、今の段階では難しいわね……」
この世界では住む土地を変えるというのは、それなりに大きな覚悟が必要な行為である。人口の増加はある程度のところで止まるはずで、特に、夏が来てマリアが降臨すれば社会全体の不安感が和らぎ一気に収束する可能性が高い。ある程度以上のインフラの整備は、そのタイミングを見計って行う必要がある。
「もう少し兵士の数を増やしたほうがいいかしら。人口当たりの兵士の数についてはアレクシスとオーギュストに聞いてみて、非常事態には農場や牧場の判断で動ける仕組みも作っておかないと」
「メルフィーナ様、お茶をどうぞ」
声を掛けられて顔を上げると、マリーはいつもと同じ、あまり感情を滲ませない表情をしていた。
けれど、その瞳が自分を案じているのは伝わってくる。
「最終的に決めるのはメルフィーナ様ですが、今後の施策については、それこそ執政官を交えて考えるのが良いと思います。二人とも経験が豊富ですし、良い案を出してくれると思います」
「……そうね。本当にそうだわ」
温かいお茶を傾け、飲み下すと、ほっと肩から力が抜ける。
「すぐ考え込んでしまうのは、私の悪い癖ね」
「メルフィーナ様がそれだけ領地と領民に心を砕いているということです。それを嫌がる領民なんていませんよ」
マリーの声は穏やかで、そして確信に満ちたものだった。
「悩む頭が多いのはいいことです。幸い、今は賭けの貸しがあるお兄様も滞在中ですし、ご相談してみてはどうでしょうか」
アレクシスに大きな借りがあるのは自分の方だ。
ただでさえ領主としてみっともないところを見せてしまったこともあり、中々に気が引けるけれど、確かに北部の魔物に関してこれ以上詳しい人間は他にいないだろう。
「そうね、正式な相談というのはすこし申し訳ないから、雑談として聞いてもらおうかしら」
「それがいいと思います」
マリーが頷くのに苦笑して、もう一杯、お茶のお代わりを貰う。
不甲斐なさを感じることは多く、地下に隠した秘密について心が痛むこともあるけれど、領民の財産と平和な暮らしを守りたいという気持ちは本当だ。
「出来れば、大事にならずに済めばいいのだけれど」
大抵のことがそうであるように、おしなべてそう願う時に限って期待は裏切られるものである。
この時もそうだった。
* * *
「せめて魔物かどうか判断してから出てもいいんじゃないかしら」
革製の装備に着替えて手甲を嵌め、もういつでも出発出来る姿になっても渋るメルフィーナに、アレクシスは流石に少し呆れたような表情をしてみせた。
「何事もないならそれでいい。兵だけでも問題はないだろうが、私が出ることに意味があるからな」
どういうことだという疑問が顔に出ていたのだろう、アレクシスはどう説明したものか迷いを滲ませ、隣に立っていたオーギュストが軽く手を上げる。
「メルフィーナ様。主人の家族、とりわけ妻や娘の警護に就くのは、騎士にとって最上の誉れとされています。ですが、騎士は日々鍛錬し腕を磨き、その働きによって主人に認められ、俸禄や階級が上がるものでもあります。こういう言い方をすると神聖な騎士職をなんと心得るかと怒鳴る面倒な御仁もいるのですが、特に大きな問題が起きない護衛任務は、騎士にとっては美味しい任務とは言い難いものです」
「それは、ええ、知っているわ」
セレーネの身辺を守るためにエンカー地方に滞在している騎士たちにとって、他国とはいえ王族の身を守る仕事は名誉ではあっても、冬のプルイーナ討伐に参加できないことは手柄を立てる機会を逃すことと同義である。
「閣下がエンカー地方に滞在中、どうやら魔物らしきものの被害が出た。閣下が先陣を切って調査に向かう。これはこの一年の間、お見せ出来なかった鍛錬の成果を振るう絶好の機会だ。騎士や兵士はそう思い、士気を上げます。それは同時に、閣下の彼らへの、主人としての気遣いでもあるわけです」
オーギュストの説明は多少砕けすぎではあるけれど、解りやすく、必要性をメルフィーナに納得させるものだった。オルドランド家の騎士とその主としてちょうどいい機会なのだと言われれば、強硬に断る理由もメルフィーナにはない。
「なにより、人里に出る魔物は初動が最も大切だ。イタチや狼程度のサイズならともかく、羊を連れ去ったならそれ以上に大型の可能性もあるし、群れで行動する魔物もいるからな。――最も悪い可能性は虫型だが、北部に虫型の魔物が出たことはないから、除外しても構わないだろう」
虫型の魔物というのは、メルフィーナも聞いたことがなかった。それらがどう悪いのかも分からない。
「それについてはオーギュストから聞くといい。――城館の警備は頼んだぞ」
「お任せください、閣下。とはいえ、エンカー地方くらいの規模の村なら、魔物であってもそこまで強いということはないでしょうし、安心してお帰りをお待ちしています」
軽妙に答える護衛騎士に無表情で頷くと、内側に毛皮を貼ったマントを身に付け、アレクシスは数人の騎士と兵士を連れて馬車に乗り込んで、城館を後にした。城門の向こう、雪の中を次第に遠のいていく馬車を見送り、頬に手を当てて、ため息をもらす。
「まさかアレクシスが出てくれるとは思わなかったわ」
「主人としての心遣いというのも本当ですが、案外閣下自身も喜んでいると思いますよ。閣下は仕事中毒なので、のんびりするのが得手ではないんです。毎日のように兵舎に出向いて鍛錬に交じっていますしね。折角の休暇なのだからのんびりすればいいと俺なんかは思いますけど」
「それはオーギュストが正しいと思うわ。……セドリックもそうだったけれど、休むのが苦手なのね、きっと」
「不器用ですよねえ。まあ、そういうところが放っておけないんですけど」
体が冷えるので中に入るよう促され、すでに見えなくなった馬車の轍にもう一度視線を向ける。
――どうか、みんな無事で。
魔物だろうと野生動物だろうと、大型の家畜を連れ去る生き物は脅威だ。どれだけ手練れであったとしても、上手くいかないことも、怪我をすることだってあるかもしれない。
「メルフィーナ様、よろしければ魔物の基礎知識について少しお話をしますか? 俺は閣下の隣で講義を受けたので、それなりの知識はありますよ」
もっとも、少し居眠りしたので抜けはあるかもしれませんが。そうおどけて言うオーギュストに、しっかりと頷く。
「ええ、お願いするわ」
まだまだ人を治める立場としては抜けも多い自覚はある。きっと、この先も沢山迷ったり戸惑ったりするだろう。
前世の知識があっても、こればかりはメルフィーナの覚悟の問題だ。
今できないからといって、それは歩みを止める理由にはならない。
新しい知識を付け、力を持ち、心を強く保たなければならない。
そうでなければ、守りたいものすら守れなくなってしまうだろう。
「あなたたちがいない時は、私が判断しなければならないのだから、少しでも多くのことを知っておきたいの」