203.温室と秘密
朝、目を覚ますと、レナは先に起き出したようでベッドの隣はすでに空っぽだった。
寝乱れた髪を軽く直しながら起き上がり、ふと、テーブルの上に紙が置いてあるのに気が付く。取り上げてみると、ややたどたどしい字で書かれた短い手紙だった。
夕べの謝罪と、ロドにちゃんと謝って仲直りするということ。
それから、メルフィーナが怪我をした時のために、治療魔法はあったほうがいいと思うと続き、読みたくないなら破棄しても構わないという前置きのあと、その方法が綴られている。
その内容に目を瞠り、もう一度しっかりと読み直して、燃え尽きかけている火鉢の中にくべる。前世のそれより植物の繊維の目立つ紙はあっという間に火がついて、すぐに真っ黒に燃え尽きた。
以前、レナはロドと共にユリウスに文字を習っていると言っていた。レナの分の植物紙をロドが使ってしまって、兄妹喧嘩に発展した一幕もあった。
たどたどしいけれど、丁寧な字だった。レナからもらった初めての手紙を燃やしてしまうことは気が引けたけれど、後に残さない方がいいだろう。
身支度を整えて階下に下りる。まだ朝食には少し早い時間だが、エドが厨房に火を入れていて、中は暖かかった。
「おはようエド」
「おはようございます! 早起きですね、メルフィーナ様」
エドは今日も元気だ。無邪気な笑顔にほっとする。
「二人で話したいことがあるから、私とレナの分の朝食はいらないわ。その代わり、パンを少し分けてもらえる?」
二人分のサンドイッチでも作ろうかと思ったけれど、ならばそちらは別に用意すると言われて頼むことにする。お湯だけ貰って、ミルクティをゆっくりと飲んでいると、やがてラッドとクリフが出勤してきて、少しずつ食堂に人が集まってきた。
「おはようございます、メルフィーナ様。夕べはよく眠れましたか?」
「おはようマリー。十分に寝たわ」
「それならよかったです」
「朝食はレナと二人で取るから、アレクシスたちのことを任せてもいいかしら」
「勿論、お任せください」
メルフィーナが落ち着いた様子でいたので、マリーも少しは安心してくれたらしい。
レナはロドより先に現れたので、上着を取ってくるように告げ、エドが用意してくれたバスケットを持って二人で外に出る。皆、いつもとは違うメルフィーナの行動が不思議そうな様子ではあったけれど、誰も声を掛けずにいてくれた。
冬の朝はとても寒く、吐いた息は瞬く間に真っ白に凍り、息を吸うだけで粘膜がぴりぴりと痛む。片手にバスケットを提げ、もう片方の手で手袋に包まれたレナと手をつなぎ、領主邸の門から少し歩く。
メルフィーナの個人的な実験圃場の入り口で靴を替えると、レナは初めて、少し戸惑ったような表情を浮かべた。
「メル様、ここ、入ってもいいの?」
「ええ。「入る時は私と一緒か菜園の管理者に許可を得る」必要があるけれど、立ち入り禁止というわけではないの」
子供達には、病気を持ち込まないよう庭で遊んでいても決して菜園には立ち入らないように告げていたので、子供は入ってはいけない場所だと思っていたらしい。
実験圃場はそれなりに広いけれど、子供の足でも一周するのに十分程度というところだろう。石畳が敷かれた道の外をレナは興味深そうに眺めながら歩いている。
「あそこが、私の隠れ家よ」
実験や休憩をするための家に入り、魔石のコンロに薬缶をかけて、増築した温室に入る。全面ガラス張りの温室ではなく、いわゆる半温室形式で、大きな金属の柱や梁がいくつも走り、その間に平面ガラスをはめ込んであった。
室内の左右には木製の棚が並び、冬は栽培に向かない作物の鉢植えが置かれている。
「すごい……」
「天井を見てみて。レナたちがサラに作ったおもちゃを参考にしてみたの」
ゆったりと回るシーリングファンを見上げ、棚に並べられた植物をひとつひとつ、丹念に見つめる様子に微笑んで、沸いたお湯で紅茶を淹れる。レナにはまだ渋く感じるかもしれないので、砂糖とミルクを少量足しておいた。
バスケットの中身はサンドイッチだった。ふわふわのパンに生野菜とマヨネーズ、鶏の塩焼きを薄くスライスしたものが挟まっているものと、ハード系のパンの断面にバターをたっぷりと塗って、塩味の強いチーズと乾燥ハムを挟んだものの二種類だ。
柔らかいパンは多目に挟んだ具をしっかりと包み込んでいて鶏の塩焼きとレタスのシャキシャキとした食感がとてもよく合う。ハード系のパンは、具はシンプルなのにパンの内側がバターをたっぷりと吸っていて、ざくざくとした歯ごたえの後にじゅわりとバターが染みて、しみじみと美味しい。
朝食ということもあって、どちらもやや小ぶりなのが嬉しい気遣いだ。
「レナ、ここから、エンカー地方を一望できるから、私はとても好きなの」
声をかけると、レナはサンドイッチから顔を上げて、少し歪んだガラスの向こうに広がる景色に目を向ける。
やや小高くなった城館を囲む堀の向こうにはエンカー村が広がっており、その向こうの遠くに、黒々としたモルトルの森が見える。
「エンカー地方に来たばかりの頃、馬車から見たエンカー村は今よりずっと家が少なくて、ここから見えるのとは全然違う姿をしていたの。あそこの水車もなかったし、領主館も、今私が暮らしている古い部分だけだったわ」
春が来れば、メルフィーナがエンカー地方に訪れて二年が過ぎる。
たった二年足らずの間で、エンカー村もメルフィーナ自身も、色々なことが変わった。
「レナは、私と会う前のことは覚えてる?」
レナはサンドイッチを両手で掴んだまま、うん、とつぶやいたあと、首を横に振った。
「あんまり、覚えてない。いつも寒くて、おなかが空いていて、なんでこんなに寒いのかなあって、思ってた気がする」
レナは遠いモルトルの森の辺りを見ながら、ぽつぽつと言った。
「お父さんもお母さんも、今とは全然違う感じだったし、友達にも意地悪な子が多かった気がする。メル様と初めて会った時は、お日様が出ていて、あったかい日で、メル様は白い服を着ていて、春の女神様が来たんだって思った」
それから思い出したように、あっと声を上げる。
「私、メル様に、魔女なのかって聞いたよね!?」
「ふふ、聞かれたわね。エリが慌てて止めに入って、三人で麦茶を飲んだわ」
「メル様が、作物にも太陽と水の他に栄養が必要で、だからお手伝いしてほしいって。あの時は、作物にご飯なんて不思議だなあって思ったけど、今ならわかるよ」
レナはほろり、と解けるように笑って、手にしていたサンドイッチをぱくりと口に入れる。
「お兄ちゃんが、おなか一杯食べさせてくれるって本当かなって、お父さんに言ってた。お父さんも、どうだろうなあって笑ってたけど、でも、メル様は嘘を言わなかった」
「上手くいって良かったわ。本当は私も、ずっと、上手くいって欲しいってお祈りしたい気分だったのよ」
「そうなの? メル様は、いつも当たり前みたいに、豊作にしたり、連れてきた人たちも、楽しそうに暮らしていたりするのに」
「私が不安な顔をしたら、皆も不安になってしまうでしょう? だから一生懸命、絶対に上手くいくって振る舞っていたの」
「そうなんだ……」
「冬が来ても、飢饉が来ても大丈夫なように、皆のことを守りたかったわ。でもそれが出来たのは、私だけの力ではなくて、皆が、私を信じて力を貸してくれたからよ。私一人では、なんにも出来なかった」
栄養状態や衛生の問題で、この世界の子供の死亡率は、恐ろしいほど高い。
飢饉や寒波の年には、実に七割ほどが幼いうちに命を落とす。
もう永遠に確認する術はないけれど、原作の世界では、レナは、間に合わなかったかもしれない。妹のサラも、この世に生を享けるのは難しかっただろう。
シナリオと呼ばれる運命の前で、農奴や平民は、ただの悲劇のひとつとして、名前もつけられないまま消費されていったはずだ。
「レナ、ユリウス様と出会えてよかった?」
レナは、どうしてそんな当たり前のことを聞くのだろうと、不思議そうにしながらもこくりと頷いた。
「ユリウス様も、そうだったわ。ユリウス様は、エンカー地方に来たばかりの頃、もっとずっと自由気ままで、そして多分、大事なものはなにも持っていない人だった」
セドリックは、ユリウスを何も持たない男だと言った。
昔から、彼のそういうところに、腹が立っていて、そして、最後に傍に居たい相手を見つけたなら、少しでも長く、そうさせてやりたいと。
その彼が、最後は未練だと呟いた。
ユリウスの生い立ちでは、もしかしたらなにも抱えないままのほうが楽だったのかもしれないけれど、それでも、彼にとってレナとの出会いは幸福なものだったはずだ。
「レナ。ユリウス様は、レナやメルト村での暮らしが、すごく大切だった。ユリウス様にとっては、多分命よりも大事なものだったと思うわ。ユリウス様が目覚めた時に、変わらないままのあなたでいて欲しい」
「……うん」
「毎日笑って、好きなことを考えて、調べて、夢中になって。そうして、目が覚めたユリウス様に、お兄ちゃんが寝ている間にあんなこともこんなこともあったんだよって報告してあげてちょうだい」
「……っ、うんっ!」
ぽたぽたと、膝の上で握られた小さな拳の上に滴が落ちる。
レナの背中に手を回してそっと引き寄せて、ぴたりと体を添わせ、その涙が止まるまで、口をつぐむ。
セドリックとの別れの時は、あんなに大声で泣いていたのに、今はただ、静かに涙をこぼしている。
「ごめんね、メル様、私、どうして忘れてたんだろ。メル様がたくさん、優しくしてくれて、周りもみんな、優しくなって、ユーリお兄ちゃんに会って、毎日楽しかったのに」
「取り戻せるわ、あなたがあなたでいる限り、きっと」
「うん……うん」
涙を擦り、洟を啜って、ようやく顔を上げたとき、レナはあの無感動な様子ではなく、目を腫らしながらくしゃくしゃの笑顔を見せてくれる。ハンカチで優しく涙を拭いて、お互いに笑い合った時には、それまで抱えていた重たい秘密の重圧も、ほんの少し、和らいだ。
サンドイッチを食べきってお茶をもう一杯淹れて、おなかが膨れたところで、レナに尋ねる。
「レナ、手紙に書かれていた、あれは本当なの?」
レナは神妙な様子でこくりと頷き、気まずそうに組んだ指を動かしている。
「うん、方法が分かったって言ったのに、中途半端でごめんなさい。でも、間違いないよ」
レナは澄んだ目で、確信を持って言った。
「あれはユーリお兄ちゃんやメル様がやっているのと同じ。「鑑定」だったよ」