201.治癒魔法と幼い願い
食後に温かいお茶を飲んで、コーネリアもようやく人心地ついたらしい。満足そうに微笑む表情は、本当に幸せそうだ。
「こんなに幸福な気持ちになったのは、いつぶりでしょうか」
「満足いただけてよかった。負傷者の様子はいかがでしょうか?」
「無事傷は癒えました。失った血は戻らないのでしばらく安静が必要ですが、もう大丈夫だと思います」
その言葉にほっと胸を撫で下ろす。
「本当にありがとうございます。命を懸けて村を守ろうとした人だったので、最悪のことにならずによかった」
「いえ、わたしが来るまでの処置がよかったのですよ。止血もきちんとされていましたし、清潔を保っていて傷が膿んだりもしていませんでした。あの状態で瀉血などされたら、とっくに手遅れになっていたと思います。エンカー地方には、いいお医者様がいるのですね」
「……この一年、領主様に色々と教えを頂いたので、あの状態の患者から血を抜くのが悪手であることくらいは心得ていますよ」
セレーネ付きの医師であるサイモンは、むっつりとした表情で答える。彼が愛想がないのは今に始まったことではないし、今も機嫌が悪いわけではなく、これが常態のようなものだ。
「あら、そういえば、領主様はお手に布を巻いていますが、怪我をされているのですか?」
「恥ずかしながら、包丁で切ってしまいました。浅い傷なので、すぐに塞がると思います」
「よろしければ、美味しい食事のお礼に治療いたしましょう」
本当に、ただ浅く切れているだけで血もほとんど出なかったので、神官に掛かるほどの傷ではない。
「処置していただくといいと思います、メルフィーナ様。こちらの神官様の腕前は、本当に素晴らしいものでした」
良くも悪くも人と距離を保ちがちなサイモンが、手放しで人を褒めるのを聞くのは初めてかもしれない。もう痛みも感じなかったけれど、治癒魔法というものに興味もある。
「では、お願いしようかしら」
「お任せください! 美味しいものを食べた後ですから、傷痕ひとつ残さず癒してごらんに入れます!」
やけに張り切ったようすのコーネリアが席を立ち、メルフィーナの傍までやってくる。手に巻いた布を外すと、彼女は小さな傷痕をじっと見つめ、指先をかざす。
特に何かを唱えるようなこともなく、ほんの少し傷の周囲が温かくなって、傷が小さくなり、薄くなり、そして完全に消えてしまった。
「――すごいですね。どこに傷があったか、完全に分からなくなってしまったわ」
何度か角度を変えてみても、僅かな引っかかりすら見当たらない。怪我をしたのが左右どちらの指かすらだんだん分からなくなってくるくらいだ。
「大きな負傷だと時間がかかることもあるのですが、これくらいの傷ならあっという間ですね」
「遠征では大怪我を負う騎士や兵士も少なくないと思うのですが、魔力中毒になったりすることはないのですか?」
魔法使いは魔力の耐性が高くなければなれない仕事だが、それでも大きな魔法を使ったあとはやはり体に負担がかかる。ユリウスは規格外として、魔法使いを雇用するときは体を休める時間も込みで報酬を出すので、人足に比べるとかなり割高になるのが一般的だ。
「治癒魔法は、魔法と名前は付いていますが実際は魔力はそれほど消費しないのですよ。それよりも気力といいますか、集中力を必要とするので、気持ちが疲れてしまうのですよね」
「気持ちが、ですか」
「はい。ですので、暖かい寝床や美味しい食事といった癒しが神官にも必要なんです、絶対! 本当に、それを分かってくれない領主も多くて……」
「ふふ、神官様がエンカー地方にいる間は、毎日美味しいものを用意します。うちの料理人はまだ若いですが、国一番と自負しています」
「ああ、ありがとうございます、領主様」
瞳をきらきらと輝かせるコーネリアに微笑んでいると、レナが椅子から飛び降りて、とことこと近づいてくる。
「あら、どうしたの、レナ」
「神官様、レナも怪我しちゃったの。治してくれる?」
そう言って、コーネリアに差し出された小さな手には横に一線、裂いたような傷が走っていた。あきらかにメルフィーナの傷よりも深く、大きなものだ。
「まあ、これどうしたの、レナ」
「工房でガラスを割ったときに切っちゃったの。ごめんなさい、メル様」
「それはいいけれど、怪我をしたらすぐに言ってちょうだい。小さな怪我だって、放っておいてそこから悪い風が入ることがあるのだから」
夏より危険性が低いとはいえ、膿んだり破傷風になったりする可能性がゼロというわけではない。特に城館内に作られた工房は、金属や食品の取り扱いも多い。衛生には気を遣っているけれど、何事も完璧にはいかないものだ。
「小さなお嬢さん、少しじっとしていてくださいね」
レナの治療をコーネリアに依頼してもいいものかと思っていると、メルフィーナが願い出る前にコーネリアはレナの傷にさきほどメルフィーナにしたのと同じように、指をかざす。
傷はまるで時間を巻き戻すように、小さくなり、薄くなり、そして消えた。
「これで大丈夫です。痛くありませんか?」
「はい、ありがとうございます、神官様」
レナはぺこり、と頭を下げると、来た時と同じだけの唐突さで自分の席に戻る。
隣に座っているレナの兄のロドは、急に動くなよと苦言を呈していた。
「ありがとうございます神官様。……食後にデザートはいかがでしょう。果物のソルベがあるのですが」
もうお腹いっぱいだと言っていたコーネリアだが、その言葉にぱっと目を見開く。
お腹がいっぱいだと追加の料理は断っていたけれど、甘いものは別腹というのはこの世界でも通じるらしい。
冬林檎のコンポートを冷やして砕いたソルベを出され、コーネリアは再び頬を押さえることになった。
* * *
夕飯を終えると少し団欒して、その後はすぐに寝床に入るのはこの世界では最も一般的な夜の過ごし方だ。領主邸もその例に漏れず、ラッドとクリフは後片付けの手伝いをした後、敷地内にある使用人用の宿舎に戻っていった。
子供たちとアレクシスとオーギュスト、コーネリアはそれぞれ割り振った部屋に戻り、マリーとメルフィーナとセレーネは本館の二階にそれぞれ寝室があるので、毎晩そこで分かれることになる。
「メル様」
だが今日は、新館から引き返してきたらしいレナに、部屋に入る前に声を掛けられた。
「レナ? どうしたの?」
夕飯後の歓談が長引いたため、いつもならばとっくにベッドに入っている時間だ。首をかしげると、レナは普段の親しみを込めた子供らしい表情ではなく、どこか思いつめた様子だった。
「メル様と、お話がしたい」
「今でなくてはダメ? もう寝る時間でしょう」
「他の人には、聞かれたくないの」
その言葉にぐっと胃のあたりが重たくなる。
レナは決して秘密主義な性格ではない。いつも元気で、思いついたことはすぐに紙に描いたり必死で言葉にしたりして伝えて来るくらいだ。
そのレナが、二人で話をしたいというなら、心当たりはひとつしかなかった。
「……いいわ、部屋にいらっしゃい」
「メルフィーナ様」
「マリーは先に休んでいて。レナの話を聞いたら、私もすぐに寝るから」
メルフィーナの安眠に気を遣い、寝室に仕事を持ち込むことを良しとしないマリーに大丈夫だからと声をかけて、レナを中に招き入れる。
メルフィーナの寝室はそれなりの広さはあるけれど、内装は凝ったものではない。ベッドとサイドボード、クロゼットの他は、寛ぎ用のソファと小さなテーブルがある程度だ。
そのソファにレナを座らせ、メルフィーナも隣に腰を下ろす。
「それで、どうしたの、レナ」
あの事件の後、メルフィーナは臥せる日が多く、レナを十分に気遣えていたとは言えない状態だった。
領主邸には彼女の兄であるロドも共に滞在していて、彼らには仕事もある。レナがいつも通り熱心に仕事をしているという報告は聞いていたけれど、改めて向き合えば、レナはあの日以前のような屈託のなさが潜められて、その分少し、大人っぽくなったような気がする。
――もっと、気遣ってあげるべきだったわ。
レナは前世の基準を適用するまでもなく、去年の秋口までは舌ったらずにしゃべっていたほど、とても幼い少女だ。ユリウスと出会って格段に語彙が増え、理知的な話し方をするようになったけれど、それでも小さな子供の心と体を持っている。
あれほど懐いていたユリウスのあんな姿を見て、その小さな心にどれほど重たい影響があったのか、たった二人、真実を共有しているメルフィーナが気にかけてやらねばならなかった。
「メル様、あのね、私、治癒魔法のやり方、解った気がする」
寂しく、悲しくなって部屋を訪ねてきたのかと思ったけれど、レナの口から出たのは意外な言葉だった。
「神官様以外、治癒魔法って使えないんでしょう? でも、メル様は神殿で作ってるエールやチーズも作るから、治癒魔法のやり方も、知りたいんじゃないかって思って」
「レナ?」
レナはうつむきがちになっていた顔を勢いよく上げると、メルフィーナの服にぐっとしがみ付いた。
「教えるよ、メル様! 治癒魔法のやり方も、この先、思いついたことも、知ったことも全部、メル様に教えてあげる。だから、お願い……ユーリお兄ちゃんを絶対に助けるって、約束して!」
レナは賢い子供だ。ユリウスを助けると決意しながら、領主としてのメルフィーナの迷いや葛藤も、きちんと理解していたのだろう。
「お願い、メル様!」
その声は、半ば悲鳴のように、メルフィーナの寝室に響き渡った。
サイモンはメルフィーナの個人的な畑の一角に薬草園を持っていて、メルフィーナの「鑑定」を組み合わせて色々な薬草を育てたり、症状や治療について話をする機会もたまにあります。
メルフィーナ視点で話が進むため、色々と本編から外れた細かいエピソードがあり、それらを書きたい気持ちもありますが、今は本編を進めることを優先します。