200.美食の喜びと切なる視線
久しぶりに領主邸の皆に囲まれての食事は美味しかったけれど、それ以上に感動している人が目の前にいた。
「美味しいですね、本当に美味しいです。このお肉、口に入れるとほろりと解けるのにパサついた感じは全然しなくて、それどころかとろっとした口当たりと、シチューの濃厚なソースが本当によく合って」
コーネリアは涙を浮かべて……本当に泣きながらシチューを口に入れ、パンをちぎり、口に入れる。
「このパンも、塩気がすごく薄くて、それがシチューにすごく合っていて……パンってもっとしょっぱいものだと思っていました。ふわふわで、白くて、ほんのりと甘くて……」
「今日のパンはシチューに合わせて塩は少なめにしたんですよ。その分バターを多めにしているので、ふわふわに仕上がるんです」
「パンは、もっと固くて、重たくて、汁物に浸すか料理のお皿代わりにするものだと思っていました。こんなに美味しいパンがあるなんて……」
コーネリアはやや背が高いものの、平均的な体型の女性だ。食事の所作もはっきりと上流階級のマナーを学んだひとだと分かる洗練されたものだった。
それなのに、一人だけすごい勢いで料理の皿が減っていく。領主邸の住人はメルフィーナとマリーを除けば全員男性だというのに、その健啖ぶりは見事なほどだった。
「神官様、失礼でなければ、具の入ったパンはいかがですか? こちらは昨日作ったものなのですが……」
「いいんですか!? あ、失礼いたしました……是非いただければと……」
「お持ちしますね!」
気を遣ったこともあるだろうけれど、これくらいの食べっぷりを見せられると、エドももっと色々食べさせたいと思ったらしい。コーネリアはドレッシングの掛かったサラダをつまみながら、ほう……と幸福そうに息をついた。
「何を口にしても、本当に素晴らしいです。まるで楽園に来てしまったような心地です」
「喜んで頂けたなら嬉しいですわ」
「お見苦しい所を見せてしまって、申し訳ありません。神官の食事は、量はそれなりに出るのですがともかく質素なものでして。お肉なんて特別な日にほんの少し食べられるだけで、それも廃鶏や乾燥ハムを作った豚の残りの細かい部分を使ったシチューといったものでして……」
エンカー地方は肥料目的で大量の家畜を飼育している関係で、他の土地に比べれば食肉へのハードルは非常に低くなっているけれど、平民と肉との関係はおおむねコーネリアが口にしたようなものだ。
去年の冬にフリッツに教えてもらった年越しのスープがまさにそれにあたる。
乾燥ハムの切れ端を全て入れ、常食している豆と冬に穫れる野菜をたっぷりと入れて、そこに新鮮な鳥の足や豚肉の美味しいところを足してゆっくりと煮込んだ料理は、平民にとって年越しという特別な日の奮発した料理で、それ以外の日は基本的に豆と芋と野菜を塩で調味したスープに、塩を強く入れて固く焼いた、日持ちのするパンと自家製のあまり美味しくないエールというのが主流だ。
「このエールも、美味しいです。一体どうしたら、こんなに美味しいエールになるのか……」
しみじみと、いっそ物悲しさを感じる様子は、美味しいものを食べて幸福の絶頂から現実を思い出して落ち込んでいる様子だった。
「神官様は、神殿にお勤めなのですからエールは美味しいものを飲めるのではないですか?」
「そうですね、確かに、町や実家で飲むものよりはずっと美味しいのだと思いますが……神殿はワインのほうが多いので、修道院の方が美味しいエールにありつけました」
修道院は神殿が運営する団体の一種で、より洗練された組織が神殿という認識だったけれど、食べ物にはそれなりの差があるらしい。
「神官様は、元々修道院にいらしたのですか?」
そう尋ねたタイミングで、エドが温めたパンを運んでくる。
「熱いので火傷をしないように気を付けてくださいね。中身も柔らかいので、お召し物にこぼされないようになさってください」
パンと呼ぶには真っ白なそれにコーネリアは大分戸惑っている様子だったけれど、おずおずと持ち上げ、手でちぎる。
「わっ、具がこんなに! それにすごく柔らかくて、具を入れてパンを焼くなんて、考えたこともありませんでした」
どうやら領主邸の昨日の昼食だったらしく、出されたのは肉まんだった。中身はミンチと野菜にチーズの塊を入れたものらしく、きちんと蒸し直してきたようで、口に入れた後、コーネリアは頬に手を当てて、文字通りとろけるように表情を崩す。
「わたし、頬が緩んで、そのままぽとりと落ちてしまいそうです……」
美味しいの表現にほっぺたが落ちるというものがあるけれど、この世界で聞いたのは初めてだ。また金色がかった茶色の目を潤ませ始めたコーネリアに、アレクシスが神官殿、と静かに声をかける。
「メルフィーナの質問の途中だ」
「え? ああ、わたしが元は修道院にいたという話ですね。いえ、神官には特に珍しいものでもないのですよ。修道院には色々な人がいて、そこで礼拝や畑仕事、修練をして過ごすのですが、その中で見込みのある人は経験を積んだ後神殿に移されるのです。まあ、出世ですね」
あまり愛想がいいとは言えないアレクシスにまるで気にした様子は見せず、早速熱々の肉まんを口に入れて咀嚼したあと、エールを流し込む快感を知ったらしいコーネリアは特に気にした様子もなく続ける。
「わたしは治癒魔法に向いていたようで、割と早い段階で神殿に異動する打診を受けました。……正直、修道院での暮らしが合わなかったこともあって、その時は喜んで受けたのですが、神殿での暮らしはもっと合わなくて」
美味しいもので気が緩んでいるにしても、随分箍が外れている。メルフィーナも驚いたけれど、同席しているラッドやクリフ、セレーネといったある程度分別がついて神官が民衆の癒し手と呼ばれていることを知っている面々は、これは自分たちが聞いていいものなのかと不安がる様子だった。
――そういえば、今日のエールは「特別製」だわ。
久しぶりにメルフィーナが食堂に現れて、みんな大袈裟に喜ぶ様子を見せてはいなかったけれど、出されたエールは特別な樽で醸造した少量しか造れないエールである。
内側に真銀を張った樽で、これでエールを造ると炭酸が強く、アルコール度数も高いものが出来る。酵母はメルフィーナが厳選を重ねたもののひとつで、濃厚でかつフルーティに仕上がっていた。
これまでも時々あったけれど、エールは水の代わりに飲めるくらいありふれた飲み物で、アルコール度数も低いので、ハイペースで領主邸のエールを飲んでいると、酩酊する。
「神殿の外に出るには、治癒院のお勤めに出るか、討伐の参加に志願するくらいしか方法がなくて。討伐に参加すれば神官にも騎士と同じ食事が出るので、公爵様には本当に感謝しているのです」
「危険な仕事を依頼しているのだ、それくらいは当たり前だろう」
その言葉に、コーネリアはしょぼしょぼと肩を落とす。
「領主によってはすごく歓待してくれることもありますが、兵士と同じ扱いをするところもあるんです。神殿の中では仕事のえり好みをすることは許されないので、派遣先は選べませんし、そういう領主は粗末な扱いをしても神官は文句を言わないとバレてしまっているのですよね。怪我人には罪はありませんので、お仕事は真面目にしますけど、やっぱりそういう時はあまり力が出ません」
「治癒魔法は、修道院で学ぶんですね」
「修練の項目にあって、修道女は全員学ばされるのです。わたしは向いていたようですぐに簡単な治癒魔法を覚えることが出来ましたが、向いていない方は十年以上学んでも覚えることが出来ないらしくて」
神殿と教会の人間以外で治癒魔法と回復魔法を使う者がいないということは、神殿と教会に入った後に学ぶものなのだろうと思っていたけれど、向き不向きというものも多分にあるらしい。
治癒による民衆への癒しは、神殿の大きな教義のひとつだ。大勢いる修道女の中から才能を見せた者を上位組織の神殿に引き抜くのは、なるほど理に適っているように思える。
「神官様、他の料理も持ってきますか?」
「いえ、さすがにおなかいっぱいです。とても興味はありますが……どうしておなかは一つしかないのでしょう」
「では、明日も美味しいものを作るので、楽しみにしていてください」
コーネリアはエドの言葉にとろとろの笑みを返す。胸の前で手を組んで、額を押し付け、真摯な様子で告げた。
「素晴らしい料理人に、女神の祝福と加護がありますように」
先ほどまで随分赤裸々に粗食を嘆いていた割に、その祈りは堂に入ったもので、エドは面食らった後、照れくさそうに笑っている。
これだけ美味しそうに食べてくれるのだ、作り甲斐もあるというものだろう。
「神官様はいつまで滞在できるのですか? エンカー地方には美味しいものがたくさんあるので、滞在中は是非たくさん食べて行ってほしいわ」
「冬の移動は大変なので、公爵様と共に戻ることになっています。ですので、公爵様次第ですね」
そういって、切なげな視線をアレクシスに向ける。
そこに色っぽい熱は全く無くて、どうか一日でも長くエンカー地方に留まっていてほしいという願いで満ち満ちたものだ。
さすがのアレクシスもやや動揺している様子で、うん……と曖昧に答えて頷いた後、どうやら最後に残していたらしいタンの塊を口に入れ、もう一度うん、と頷いた。
コーネリアと以前出てきた神官は別の人です。