197.会話と願い
手にしていたカップの中のホットワインから湯気が出なくなる程度に、長い沈黙が落ちた。
「……君も知っているだろうが、私は察しの良くない人間だ」
「え? ええ、まあ、そういうところはあるかもしれないわね」
むしろ自覚があったのかとそちらのほうが少し意外だった。アレクシスは公爵として、常に威風堂々とした尊大な態度を崩すことはなく……有体に言えば、自信満々で偉そうな上に、表情が変わらないのでやけに威圧感がある人だ。
最近はそうでない顔を見せることも多くなってきたけれど、いまだにふと見せる笑顔の意外性に驚く程度には、人間的な温みを感じさせない印象が強い。
「君のその取引の内容を私なりに想像してみたが、そもそも君が何を考えているか理解出来たことなどなかったと思い出した」
「私は、それほど意外性にあふれた人間というわけではないと思うけれど……」
「オーギュストに、私が君にしたことは、気の弱い令嬢ならば自死を選ぶほどのことだと言われた」
いきなり何を言い出すのかと軽く眉を寄せて、ああ、と小さく呟く。
「北部の女性なら、そうなのかもしれないわね。なんというか、男性も女性も、生真面目で思いつめやすい方が多そうだし」
オーギュストが型破りなだけで、これまで出会った北部の騎士やその家族の話を聞いても、その印象は強い。現在メルフィーナの護衛騎士をしているテオドールには、セレーネとの距離感を注意されたことがあるくらいだ。
最終的には受け入れてくれることも多いけれど、基本的には変化を好まず、旧弊的な考え方に固執するきらいがある。
「私の母がどんな人なのか、調べたんじゃない? パーティが大好きで、観劇が大好きで、俳優や女優の支援者になって華やかなことが大好きで。夫や家に対しての忠誠心らしいものなんてこれっぽっちもない人よ」
「それは、貴族の夫人としては型破りな方だろう」
「極端ではあるかもしれないけれど、南に行くほど妻は夫や家に対して絶対服従ということはなくなるわ。先妻の子供が全ての遺産を相続しようとして、妻の立場で半分の遺産の相続を要求して法廷にもつれ込むなんて話もよくあるくらいだし」
母親であるレティーナは領地に近寄ろうともしなかったけれど、社交シーズンに王都に訪れる南部の貴族の奥方たちとの交流はよくしていた。
彼女たちの話題にゴシップはつきもので、どこの家の令嬢が駆け落ちした、どこの家の当主が愛人にうつつを抜かして家に帰らない間、妻が家を掌握してしまったなど、面白おかしく話していたものだ。
北部の人間が思いつめやすいのは、冬が長く、家に閉じこもっている時間が長いことも関係しているのだろう。
人間、閉じこもって自問自答を繰り返しているうちに、どんどん思いつめていくものだ。
そんな風に考えて、まるで今の自分の状況ではないかと気づいてしまう。
部屋に閉じこもって、どうすればよかったのか、申し訳ない、自分にはこの地を治める資格はないとぐるぐると考え込んで。
目の前にいる、立派な支配者を体現しているような人に、すがろうとしている。
「はあ……」
「どうした?」
「いえ、私、本当に小さいなあって」
温くなったワインを飲もうとすると、カップを取り上げられ、火にかけたままだったワインを足される。アルコールはすっかり飛んでしまっているけれど、温かいものを口に入れると少し肩から力が抜けた。
ふと隣を見ると、アレクシスも少し安堵したように息を吐く。
「どうしたの?」
「私も大概愚かな男だが、君も意外と抜けていると思ってな」
どういうことだと眉を寄せると、くつくつ、とアレクシスは肩を揺らして笑う。
マリーやウィリアムに対しても口元をほころばせる程度なのに、ここまであからさまにアレクシスが笑うのは、本当に珍しいことだ。
「女が、男に「自分の持つもの全てを捧げるから、ひとつだけ願いを叶えてくれ」と言うとき、求めるものはそう多くないとは思わないか?」
「……ちょっと、違うわよ!? 変な曲解はしないでちょうだい!」
「ははは」
とうとう声を出して笑ったアレクシスに、かぁっと顔に血が上るのが分かる。
「違う、違うの! あのね、私はあなたにそういうことを求めるのは、むしろ良くないなあって思ってるくらいなんだから! ああ、もう!」
いや、多分自分の言い方が悪かった。
セドリックに対しても二階に部屋をと言ったとき、あらぬ誤解をされてしまったことがあるけれど、あの時以来の大恥だ。
「……あのね、話題が出たついでに、ひとつ、あなたに言いたいことがあるの。結婚式の後の時のことだけれど、私、ずっと、あなたに謝りたくて」
アレクシスとの和解が済んだあたりから、ほんの小さな胸のつかえとして、それはずっとメルフィーナの中にあった。
いつか伝えたいと思っていたけれど、そんな機会もないままになっていたことだ。いざとなると口にするのは気恥ずかしく、靴の先でざりざりと雪を蹴るような、子供っぽい仕草をしてしまう。
「私とあなたは、政略で決まった結婚でしょう。私だってそれはちゃんと判っていたし、あなたに愛されようなんて思っていたわけではなかったの。それは本当にそうなのよ。あなたとはあくまで政略結婚だって。でも、子供はたくさん欲しいなって、そんなことを考えて北部に来たわ」
意味の無い雪を蹴る行為を止め、顔を上げれば、凍結したモルトル湖の雄大な自然が開けている。
自分の悩みも心のつかえも、ささいな物のように思えた。
それに、アレクシスと二人きりになるのは、これが初めてだ。
結婚証明書に署名をして一年半以上が過ぎたというのに、メルフィーナとアレクシスの傍には、常に人がいて、夫婦としての話をする機会など、一度もなかった。
きっと今を逃せば、次に伝える機会はずっと先か、あるいは二度とやってこないだろう。
「それなのに、子供を作る気はないとか、どこでも好きな場所で好きに暮らせって言われて、腹が立って、喧嘩腰になって……政略結婚ならあなたは私との間に子供を作るのは義務なのに、それすら放棄するのかって思ったの。いえ、望んでいないと思っていながら、あなたと家族になって、家族を増やして……そんな中で幸せになりたいなんて気持ちが、結局私の中にはあったのよ」
メルフィーナは孤独な少女だった。そして政略結婚に夢ではなく現実を見据えるよう、高位貴族として育てられた少女でもあった。
幸せな結婚、円満な家庭なんて、夢物語のようなものを信じていなかったはずなのに、いざ素敵な男性が自分の夫として目の前に現れたら、欲が出てしまったのだ。
それなのに、面と向かって拒絶されてしまった。
ゲームのアレクシスルートでメルフィーナの辿った末路を思えば、アレクシスのしたことは最低だ。
けれど、それ以外のルートのアレクシスは、きっとマリーを妹と呼ぶこともなく、ウィリアムとも距離が出来たまま、過酷な討伐と領主として自分を押し殺し続けた生き方をしたのだろう。
それは彼にとって、幸福とは言えない人生だったのではないだろうか。
「夫になったのだからこうするべきだなんて、思えば傲慢な考え方だったなって思うようになったの。私のその気持ちは、あなたにとっても負担だっただろうって。だから、それを謝りたくて。ごめんなさい、アレクシス」
「……君は、なんというか、分からない人だな」
アレクシスはじっとこちらを見た後、ふいと視線をそらし、先ほどのメルフィーナと同じように湖を見ていた。
「必要な謝罪とは思えないが、受け入れよう。君が怒っていないなら、私もありがたいからな」
「私の怒りなんて、あなたにはどうということもないでしょう?」
「そんなことはない。君が私に腹を立てていなければ、トウモロコシを小麦と同額とは言わなかっただろう?」
「あら、思ったより深刻な影響があったわね」
確かに、今の心境ならば流石に小麦と同額とは言わなかったはずだ。
この世界において、一種の通貨として機能する小麦と本来家畜の飼料として育てられるトウモロコシを同額とするのは、暴利に過ぎる。
「君は、私を許し、謝罪までするような人だ。私の感覚ではお人よしすぎる」
「ええ、だから、領主に向かないと思ったの。人を治めるための、正しい判断が出来ないのよ」
この一年半で、時には非情な判断をすることも必要なのだと思う機会は何度かあった。
けれど、今回のことは、メルフィーナには荷が勝ちすぎた。
「エンカー地方はこの先、どんどん大きくなっていくでしょう。こぢんまりとした領地だった頃には起きなかった問題も、起きてくるに違いないわ。その時、私情ではなく公正な領主としての判断が出来る自信がないの。権力を持ったまま私情を優先して正しい判断が出来ない人間に治められるなんて、領民が可哀想だわ」
「おそらく、君と私の認識の齟齬は、その辺りにあるんだろう」
どういうことだと顔を上げると、アレクシスはもういつもと同じ、何を考えているか分からない真顔に戻っていた。
「私が、エンカー地方に来て最初に思ったのは、地平まで広がる畑が美しいということと、こんなに明るい顔をした平民を見たのは初めてだということだった」
その声には、少し懐かしがるような色が含まれている。
「平民にも農奴にも誇りがあり、幸福がある。ただ管理し生かすだけではない人の治め方があるのだと、私に教えたのは君だ」
「……そんな、大層なことはしていないわ。私は、いつも目の前のことに気を取られてばかりで、必死で」
「そもそも、君が思うほど、領主というのは生真面目な為政者というわけではない。高級娼婦の元に足しげく通い散財する貴族も、家令に仕事を任せきりにして遊び歩く領主も別段珍しいものでもないし、貴族というものは、あくせく働くことを優雅ではないと嫌うものだ。有事の際はともかく、仕事は午前中だけなのが一般的で、一日中働くのは文官たちのすることだ」
確かに、メルフィーナが学んだ貴族の儀礼も、そのようなものだった。
常に優雅に振る舞い、朝食を軽く済ませた後は午後の鐘が鳴るまで執務を行い、午後からは読書をしたり狩りに出かけたりして過ごす。
「型破りかと思えば意外なほど理想主義で、君は本当に、読めない人だ」
「……今日は、随分よくしゃべるのね」
「君に何が目的か分からない取引を持ち掛けられて、動揺しているんだ」
「そうは見えないわ。……あなたも、損な人ね、アレクシス」
アレクシスはふっ、と笑うと、静かに目を細めた。
驚くくらい、優しい笑みだ。
「メルフィーナ、随分長く認めたくなかったが、結局私も利己的な人間の一人だ。大多数の誰かより、自分の幸福や、家族のほうが大切らしい」
どこか吹っ切れたように言って、それからじっと、目を見つめられる。
青灰色の瞳は全てを見通しているかのようで、僅かに顎を引いた。
「君がエンカー地方を愛していることを、私は知っているつもりだ。ただ問題にぶつかっただけなら、君はそれを克服していこうとする強さがあることも。――それを差し出してまで、何を願おうとしている?」
「だから、それは……」
「メルフィーナ、私に取引を持ち掛けるな。家族として、助けを求めれば、それでいい」
「………」
アレクシスは真剣で、そして真摯だった。
確約がなければ事情は話せないと口にすることが、不誠実に思えるほどに。
「あなたを信じたい、でも……」
ユリウスが新たな強大な魔物になりかけていること。
それを承知の上で、領主邸の地下に彼を隠したこと。
ユリウスの身柄を発端とし、象牙の塔と対立する可能性があること。
すべて、大きすぎる秘密であり、アレクシスにユリウスを守るメリットはない。
「アレクシス……」
助けてほしい、なんて、両親にすら言ったことがないことを、こんな時に思い出す。
磨かれた容姿、貴族令嬢として素晴らしい教養と立ち振る舞い。
愛されたいと願ったメルフィーナがしてきたことは、愛してくれと叫ぶことではなく、忍耐強く黙り込み、愛される娘として振る舞おうと努力することばかりだった。
アレクシスとの間のやり取りは、それこそ契約や交換条件が前提だったものばかりで、無条件に何かを願うなんて、これまでしたことがあったのかすら思い出せない。
風が吹き、メルフィーナの心の内を表すように、木々が騒めく。
次にメルフィーナが口にしたのは、その音にかき消されそうなほど、小さな声だったけれど、アレクシスはしっかりと向き合っていたので、それはきちんと届けられた。




