190.暴走と恐ろしい時間
今回から数日、しんどい展開が続きます。
苦手な方はお気をつけください。
まだ赤ん坊のサラは、尋常でない雰囲気にひっきりなしにぐずり、それをあやすエリとは対照的にレナは思いつめたような表情でメルフィーナの傍を離れようとしなかった。
「レナ、膝に来る?」
「……いいの? メル様」
「ええ、いらっしゃい」
椅子に座ったままレナを抱き上げて膝に乗せると、小さな腕でぎゅっとしがみ付いてくる。
大人顔負けの働きを見せるけれど、レナだってまだ小さな子供だ。本当ならばエリに抱きしめてほしいだろうに、一言も我儘を言わないのが、却って痛々しく感じられる。
「申し訳ありません、メルフィーナ様」
「気にしないで。私には年の離れた弟もいるし、王都にいた頃はよく孤児院の慰問に行って、子供とも遊んだりしたものよ」
それに、子供の重みと温かさを感じることはメルフィーナにとっても安堵出来るものだった。しがみついているレナの髪を優しく撫でる。
「メル様、大丈夫だよ。ユーリお兄ちゃんが出来ると言ったら、絶対に出来るから」
「レナ?」
「行商人さんが、ロマーナの海はすごく青くて、北部の海とは全然違うんだって。海は、湖よりも大きくて、ロマーナまで行っても端っこは見えないんだって。太陽もすごく眩しくて、男の人は裸で働いてる人も多いんだって」
「南の方では、そうかもしれないわね」
とりとめのないことでも、話をしているほうが気がまぎれるだろう。レナの言葉に答えると、ぎゅっ、と頭を胸に押し付けられる。
「ユーリお兄ちゃんは、森にも、湖にも、その向こうにある島にも、連れて行ってくれるの。でも、青い海も、海の向こうの端っこも、ロマーナの街にも、一緒に行けないっていうの。それは、レナが大きくなって、冒険者になったら、その時大事な人と行きなさいって言うの」
「レナ……」
「叶わない約束は出来ないって。行かないで、ずっとメルト村にいてって言っても、それは出来ないって。だから」
震えるレナの頬を撫でて、顔をあげさせる。涙は出ていなかったけれど、小さな子供が歯を食いしばって大きな悲しみに耐えていることが、胸が痛む。
他人に対する配慮に欠けていて衝動的な一面がある反面、小さな子供が相手だからと、ユリウスは言葉を誤魔化すようなことはしない。
いつか海に行こう、国の端っこのその向こうにある国に行こう、海の向こう側にも、どこにでも、冒険に出かけようと、未来の約束をしないのは、ユリウスなりの誠実さなのだろう。
小さな子供だから、いつか忘れてしまうだろうと、彼は考えたりはしないのだ。
「そうね、ユリウス様は、嘘はつかない人だわ」
「うん……」
それきりレナは口を閉じてしまう。
重苦しい時間は、二時間ほど続き、荒々しくドアを叩く音にはっと顔を上げた時には、ニドがドアに向かって走り寄っていた。
「村長! ユリウス様が熊をやった!」
「ユリウス様と騎士様は無事か!?」
「ああ、どちらも無傷だ。騎士様はもう戻って……ああ、来たよ」
知らせに来てくれた村の男性は喜色を浮かべ、道を譲る。ドアの向こうからテオドールが、出た時と変わらない様子で戻って来た。
「テオドール! 怪我は」
「大丈夫です。というか、私は本当にユリウス様に付き従っただけでした。熊が姿を現した途端、放たれた風魔法で首が飛んでいきました。抜刀する暇もないほどで――」
やや熱っぽい口調でそう告げて、貴族の娘であるメルフィーナに、あまり血なまぐさい話をするべきではないと思ったのだろう、すぐにはっとしたように、失礼いたしましたと礼を執られる。
「いえ、大丈夫よ。あなたも怪我がなく戻ってくれて、本当によかったわ」
「恐れ入ります。ユリウス様は熊を解体したあと戻るそうです」
ニドの元に知らせに来た男性が、各家を巡ってもう大丈夫だと告げて回るのだという。
メルト村は農村だ。晴れた日に一日、農作業が出来ないというのは後の収穫や畑の管理にも支障が出る。
こんなことが起きた後も、熊の駆除が確認されれば遅れを取り戻すように働き始めるという。
「すぐに怪我人を馬車に乗せて、領主邸に戻りましょう。ニド、今日の視察は、また後日、近いうちに日程を決め直します」
怪我人の傷は深刻なはずだ。脅威が去った以上、ゆっくりとはしていられない。
「血を失っているなら強い貧血状態にあるはずです。完全に寝かせず、上半身は起こした状態で、毛布と火鉢を用意して保温を心がけてください」
てきぱきと指示を出して、あとは馬車に乗り込むだけになった折、ユリウスもニドの家に戻って来た。すでに瞼は半分ほど閉じかけていて、眠そうな様子だ。
「ユリウス様、お疲れなら、出発は明日以降にしてもよいのではないですか」
「いえ、準備は済んでいますし、領主邸に移動します。王都への馬車の中ではずっと眠っていても構いませんし、大丈夫ですよ」
そう告げるユリウスの元にレナが走り寄って、自然とその手を握る。
「ユーリお兄ちゃん、頑張って」
「うん、魔力を使って大分眠いけど、まだ大丈夫だよ、レナ」
「メル様、行こう」
「ええ、そうね。急ぎましょう」
レナのいつにない強い言葉に頷いて、馬車にメルフィーナとマリー、ユリウスとレナが乗り、もう一台、村の馬車に怪我人と家族の付き添いが乗り込む。
来た時と同じようにいつもより速度を出して、緊迫した空気ではあるけれど、大きな脅威が取り除かれたことで、安堵する気持ちもあった。
向かいに座るユリウスはずっと瞼を半ばほど閉じてゆらゆらとしているけれど、レナに話しかけられて、眠そうにしながらも応じている。
口元は穏やかに笑みの形になっていて、どこか安堵しているようにも見えた。
二人の時間を邪魔したくなくて、自然とメルフィーナとマリーは言葉が少なくなり、エンカー村への道を半ばほど進んだ頃だった。
ドンッ、と突然の大きな衝撃の後、馬車が大きく揺れる。座っていた全員が体勢を崩し、激しく揺れ続ける馬車に体を起こすことも出来ない。
ガラガラと激しく車輪が回る、耳障りな音と馬車全体がギシギシと軋む音がする。
「何、どうしたの!?」
吹き飛ばされそうになったレナを抱き止めたユリウスは、レナをメルフィーナに預けると、ひょいと窓から長身を半ば乗り出した。
「馬車の暴走ですね。レディ、レナをしっかりと抱いて、秘書殿とどこかに掴まっていてください!」
「暴走!? なぜ!?」
「喋っていると、舌を噛みますよ!」
そう言っている間も馬車は上下左右に激しく揺れた。そのまま横転するか、脱輪して馬車ごと放り出されてしまうかもしれないという恐怖の中、レナをしっかりと抱いたメルフィーナを、マリーが覆いかぶさるように抱きしめてくる。
「マリー! あなたもどこかに掴まって!」
半ば悲鳴のように上げた声に、返事はない。
車体ごと体が激しく揺れて、上下もよく分からなくなる。マリーに抱きしめられていてもあちこちに体がぶつかって、衝撃を感じるのにそれを痛いと思う余裕すらない。
ぎゅっと目を閉じて、レナを抱きしめることしか出来なかった。
――怖い。
恐怖に硬直する時間は、長かったのか、それとも一瞬で終わったのだろうか。肩を掴まれて軽く揺さぶられていることに、しばらく気づけなかった。
「レディ、レディ。大丈夫ですか?」
「……、ユリウス様?」
「暴走は止めました。僕は外の様子を確認してきますから、僕が出たらすぐに扉を閉めて内鍵を掛けてください。出来ますね?」
「は、はい」
頷くと、ユリウスは扉を開いて緩慢な動きで外に出ていく。言われた通り、閉じられた扉の鍵を掛けようとするのに、両手がぶるぶると震えて上手く行かない。
一体外で、何が起きたのだろう。御者は、後続の馬車は、そしてテオドールはどうなったのか。
「しっかりしなさい、落ち着いて」
自分に言い聞かせながら、中々鍵を掛けられずにいると、小さな手が伸びてきて、内鍵をスライドさせる。
「あ……」
「メル様、大丈夫、大丈夫だから」
「レナ……あなたは、怪我は」
「それも大丈夫。でも、マリー様が」
「! マリー!」
振り返ると、淡い金の髪はほどけ、倒れたまま動かないマリーに、覆いかぶさるように顔を覗き込む。
出血はない。頭を揺らさないように手で探ると、後頭部に大きなこぶが出来ていた。
座席か馬車の壁に頭をぶつけて、脳震盪を起こしているのだろう。呼吸はしっかりとしているし、痙攣も起こしていないことを確認して、震える息を吐いた。
おそらく気を失っているだけだ。ここでは出来るだけ動かさず、意識が戻るまで様子を見ることしかできないだろう。
悄然としていると、服を軽く引っ張られる。情けないことに、メルフィーナよりレナのほうが、よほど冷静だ。
「メル様、助けてくれてありがとう」
「いいえ、レナ、無事でよかった。……助けてくれたのは、マリーだわ」
マリーだって貴族家の中で育てられた、荒事に慣れているはずもない女性だ。突発的なトラブルで恐慌状態になってもおかしくはなかった。
それなのに、メルフィーナに覆いかぶさり、守ってくれた。
マリーがそうしなければ、きっと昏倒していたのは自分の方だっただろう。
上着を脱いで、横たわったままのマリーに掛ける。放り出された白い手を握って、どうか何ごともなく目を覚ましてくれることを祈った。
どれくらい時間が過ぎただろう。外からは音が少しも聞こえてこない。
ユリウスはどうしたのか。きっと、馬車を止めるのに、魔法を使ったのだろう。ユリウスの睡眠は大きすぎる魔力を肉体が受け止めきれずに起きるものだと説明を受けている。今日はすでに、熊を風魔法で倒している彼にとっては、大きな負担だったのではないだろうか。
外を窺ってみようか。けれど馬車の中には、意識を失ったマリーと幼いレナがいる。安易な判断をするわけにはいかない。
「レナ、おいで」
不安に心臓が嫌な感じに打ち付けている。マリーの傍に座ったまま、レナの肩を抱いて寄り添い、じっと時を待っていると、不意に、空気が変わった。
ねばついた汗が噴き出して、体が重たくなる。胃がぎゅっと竦み、吐き気がこみ上げてきた。
血の気が引いて、どんどん、体が冷たくなっていくのが分かる。
――これは。
この感覚には、覚えがある。
ちょうど去年の今頃だ。ユリウスに「分離」の技術を教えてもらったその夜、「分離」が出来るなら逆のアプローチで「合成」も出来るのではないかと思いついたまま試み、昏倒し、そのまま三日三晩寝込む羽目になった。その間のことはよく覚えていないけれど、不快で、苦しかった感覚だけは忘れられない。
――魔力中毒。
メルフィーナは、魔力をほとんど持っていない。そして魔力を持っていないということは、肉体が魔力耐性を持っていないことと同義だ。
「才能」である「鑑定」は問題なく使えていたから意識したことすらなかったけれど、肉体の越えられる範囲の魔力を使っただけで、容易く限界を迎えてしまう。
強い魔物は魔力を発しているので、耐性の低い人間は魔物の近くにいるだけで魔力中毒と同じ症状が出るのだと、アレクシスから聞いたことがある。
耐性の低い兵士たちでは近づくことも出来ず昏倒や錯乱を引き起こし、そのため、プルイーナを討伐できる人間は限られているのだとも。
――外に、魔物がいるの?
馬車の暴走もそのせいなのだろうか。
魔物は人を襲う。馬車の中にいるから安全とも限らない。
御者は、メルト村の怪我人とその家族は、そしてユリウスは、どうなったのか。
呼吸が浅くなる。胸を悪くする空気の中でぐるぐるとそんなことを考えていたせいで、レナが腕から抜け出したことに、気が付くのが遅れた。
かちり、と鍵が外れ、開いたドアから、小さな体のレナが飛び出していく。
「レナ! だめ!」
手を伸ばした時には、もう遅かった。
渦巻く空気の悪さとは裏腹に、やけに青い冬の空と、駆け出していくレナの背中が、メルフィーナの目に焼き付いた。