19.美しい光景
国の北端に位置するモルトル湖を更に北に進むとモルトルの森が広がっており、その森の向こうは隣国であるルクセン王国に続いている。
大森林は両国どちらの領土でもなく、かつ、二つの国を分け隔てる国境線としても機能している。森の深くには魔物が出ることもあり、幾度となく隣国に続く街道を造ろうとした両国の努力もむなしく、深い森を切り開く計画は何度も頓挫を繰り返し、現在フランチェスカ王国とルクセン王国の国交はおおむね海路に頼ることで落ち着いていた。
エンカー村は、エンカー地方の開拓村では最も規模の大きな村で、エンカー村を中心に数十人単位の農奴の集落が新たな畑を耕すべく日々開墾を行っている。
開拓というのは、過酷な作業だ。未開の土地で自分たちの日々の糧を得ながら定住できるよう開発していかねばならないのは並大抵の労苦ではなく、だからこそ開拓民は自らが開拓した土地に依存に近い執着を抱くようになる。
たとえ大規模な飢饉が来たとしても、彼らが土地を捨てることは難しいだろう。だからこそ、被害は深刻なものになる予想を立てるのは容易かったし、腹心であるオーギュストに豊作の報告を受けてなお、目の前に広がる青々とした広大な畑を自分の目で見るまでは明るい展望を抱くことは難しかった。
「……凄まじいな」
「でしょう」
オーギュストがなぜか自慢げに言い、もう一人付き人として連れてきた騎士も、ほう、と感嘆のため息をついた。
領都とエンカー村の間には、いくつも町や村がある。ここにたどり着くまでいくつも経由したそれらの中には規模の大きい街もあるけれど、そのすべてに飢餓の暗い影が落ちていた。
道行く者は誰も彼も青ざめた顔をしており、身なりが粗末な人間になるほどまともに食べることが出来ていないのだろう、痩せて手足が枯れ枝のようになっている者も少なくない。
市場からは芋が消えた不安感によるものだろう、他の農作物も需要が上がり、市場は完売していて物自体が少なく、その価格も高騰の一途をたどっていた。
食料不足による飢餓と、煽られ続ける不安感をもとにした過剰購買。供給が減れば不安はさらに煽られ、どれだけ高値を付けられても貯えを費やして購入し、貧しい者はさらに食べ物が手に入らなくなるという負のループだ。
だが、最後の村を抜けエンカー地方に入った辺りから、その暗い影は綺麗に一掃されていた。街道を進み森が開ければ、そこからエンカー村に続くまで一面、広がっているのは背の高いトウモロコシの畑だ。
――美しいな。
暗く行き詰った空気を抜けた後だからこそ、率直にそう感じたのだろう。柔らかく緑の葉を揺らす風の心地よさ。広大な畑では今も収穫がされているらしく、農奴らしい者たちが働いている。
農奴とは最も立場の弱い労働者であり、ここに来るまでその惨状を見てきただけに、いきいきと額に汗しながら働いている様子にさらに驚かされた。
「おおーい、誰か、奥様がどちらにいるか知らないか」
随伴していたオーギュストが声を上げると、農作業をしていた者の中から逞しい男が一人、近づいてくる。身なりは粗末だが、剥き出しの腕にはこぶのついた筋肉が備わっていて、生気に満ちた男だった。
「あれ、オーギュスト様、またいらしたんですか」
「またって言い方はないだろう。もっと歓迎してくれよニド」
「あはは、失礼しました」
ニドと呼ばれた男は気さくにオーギュストと話し、アレクシスともう一人の騎士に頭を下げる。騎士服を身に着けてきたので、オーギュストの同僚とでも思ったのだろう。
「メルフィーナ様なら、今日は領主邸にいらっしゃると思いますよ。マリーさんが新しい料理を研究中なので、期待していてくれと言っていました」
「おっ、それはいい時に来たな。仕事の手を止めさせて悪かった」
「いえいえ、メルフィーナ様によろしくお伝えください」
必要以上に会話をすることなく、男は再び農作業に戻っていった。働くことが楽しいのだと、聞かなくとも伝わってくる。
アレクシスはあんな風に表情の明るい農奴を――いや、平民を見たのは初めてだった。
「だそうです。メルフィーナ様は畑の視察で移動されていることも多いので、今日は楽に話が出来そうでよかったですね」
「……農奴が夫人を名前で呼んでいたようだが」
「ああ、メルフィーナ様が夫人や奥様と呼ばれるのがお好きではないので、人と会うたびに名前で呼ぶように伝えているそうですよ。俺もそう言われました」
「随分型破りな人なんだな、私の夫人は」
「公爵家を飛び出してたった四ヶ月でこれだけのことを成す方です。中々常識で計れるものではないでしょうね。んじゃ、行きましょうか」
たった一度、それも数日の滞在だっただろうに、オーギュスト自身がすでにメルフィーナを強く認め、親しみを抱いているようだった。
――本当に、私はどんな女性を妻にしたんだ?
元々私生活にパートナーは必要ないと、アレクシスは思っていた。今でもその気持ちに変化はない。
南部と北部の契約のために南部から送られてきた娘でなく、メルフィーナという人間に対して、少し興味が出た瞬間だった。
* * *
メルフィーナはしみじみと思った。忙しい時に限って呼んでもいない客が来るものだ。
「オーギュスト、あなた、五日前に出て行ったばかりじゃなかったかしら?」
「それ、ニドにも言われました。ひどいなあ。俺はエンカー村で食べた料理を一日も忘れたことはなかったのに」
「五日間毎日思い出してくれたのね。それで、昼食時に来たというわけ?」
「いやあ、朝から馬を走らせっぱなしで、もうすっかりはらぺこです」
オーギュストの態度に背後からセドリックの怒りとも殺気ともつかないものが伝わってくるけれど、これは相手にしたら負けなやつだわとメルフィーナは早々に諦めた。
「……ちょうど私たちもお昼にするところだから、食べていく?」
「いいんですか! ありがとうございます! あっ、三人分お願いしてもいいですか? エンカー村って食堂ありませんし、皆腹を減らしているので!」
「……お金を取ろうかしら」
「まあまあ! これは一種のプレゼンだと思って、大目に見てくださいよ!」
相変わらずお調子者の公爵家の騎士に額を押さえる。セドリックの頭の固さにも時々頭痛を覚えることがあったけれど、この二人は足して二で割ればちょうど良いのかもしれない。
「分かったわ。マリー、エリに昼食の量を増やすよう頼んでくれる?」
「かしこまりました。あの、メルフィーナ様」
「どうかしたかしら?」
「その、そちらの方は……」
マリーを困らせるつもりはないので、オーギュストの後ろにいる二人の男性に目を向ける。
オーギュストもそれなりに体格が良いけれど、その二人も背が高く、騎士らしい屈強な体格をしている。一人は頬に深い傷のある壮年の男性で、初めて見る顔だ。もう一人は氷で作った彫像のように整った顔立ちをしていて、銀髪だった。
「公爵家の騎士三人で来たのね。全く、暇というわけでもないのでしょう?」
「あれっ、メルフィーナ様、あの、もしかして、顔をお忘れとか、そういうのだったりします?」
「とにかく、まだ午前中の仕事が終わっていないの。お昼休憩まで視察でもなんでも、好きにしていてちょうだい」
「メルフィーナ」
マリーを伴って屋敷に戻ろうとしたところで、声を掛けられる。肩越しに振り返り、目を細めた。それから頬に手を添えて、軽く首を傾げる。
「あら、いつから公爵家の騎士は私を呼び捨てにするようになったのかしら」
「あなたの夫ならその資格はあるだろう」
「夫? ……誰の事かしら」
とぼけて見せたのは、もちろん当てこすりだ。
前世でハードモードで全ルートをコンプリートした「私」が、アレクシス・フォン・オルドランドを見間違えるわけもない。
「ああ、そういえば四カ月ほど前に結婚した気がしますね。すっかり忘れていました」
「……君は、中々言う人なんだな」
「そうですね、私、意地が悪いんです。そんなことも知らないのに結婚するなんて、おかしな話ですよね」
皮肉を投げかけてもアレクシスは眉ひとつ動かさなかった。
メルフィーナとしてはアレクシスに対して思うことは多いけれど、彼がそういうキャラクターであることを「私」は知っている。
ここに姿を現したのは意外だったけれど、考えてみればオーギュストに豊作の畑を見られた時点で遅かれ早かれこうなったのだろう。
――むしろ、都合がよかったかもしれないわ。
オーギュストの言う「プレゼン」が何を意味しているのかは明らかだ。
どうせやり取りをするなら執政官や代官を相手にするより、最も高い身分の相手のほうが色々と話も早いだろう。
ともあれ、これが約四ヵ月ぶりの書面上の夫、アレクシスとの再会だった。
次回、メルフィーナのターンです