189.メルト村の不穏な空気
「馬車を停めろ!」
馬車の窓からメルト村が見えてきた頃、外から騎乗しているテオドールの声が厳しく響く。
一瞬後、がたん、と振動が来て、座面の上でバランスを崩したメルフィーナをマリーが抱き止めたものの、支えきれずにそのまま体勢を崩して馬車のドアにぶつかった。
「マリー、大丈夫!?」
「はい、そう強くぶつけてはいません。――なにがあったのでしょう」
エンカー地方からメルト村への道は整備が済んでいて、こんな風に停止したことは今までなかった。馬車の外からは、半ば怒鳴り合うような声が響いてくる。
普段長閑なエンカー地方では、ほとんど聞くことのない声だった。
マリーの肩を抱いて固唾を呑んで待っていると、ややして、ドアがノックされる。
「メルフィーナ様、ご無事ですか?」
「私たちは大丈夫。なにがあったの?」
「速度を出していた馬車が向かってきたので、緊急と判断して馬車を止めました。今朝、メルト村に大型の熊が現れ、穀物倉庫が破損し、一人が負傷したそうです。馬車はメルフィーナ様の本日の来訪を止めるためにエンカー村に向かっていた途中とのことです」
その言葉に、息を呑む。
エンカー地方に出る熊の恐ろしさは、以前エンカー村の村長、ルッツから聞いたことがある。
大型で狂暴で、獲物に強い執着をするタイプであり、農民や農奴が襲われるケースもあるのだという。
「熊の行動範囲は恐ろしく広いです。今からエンカー村に戻るより、メルト村に避難するほうが良いと思います」
「そうしましょう。負傷者も心配だわ。傷は深いのかしら」
「おそらくは……」
テオドールは言葉を濁したけれど、それが、被害が深刻であることを暗に示してくる。
「少し速度を出します。揺れると思いますが、ご辛抱ください」
「私は大丈夫。ああ、待って、ちょうどいいものがあるわ」
座席の下の物入れを漁り、ガラス瓶に入った木酢液を取り出す。
メルト村の圃場の害虫予防のために何度か改良を加えて、濃度調整を行ったものだ。
「マリー、ハンカチをくれる?」
「どうぞ」
すぐに差し出された布と、自分のハンカチにそれを染み込ませ、ふたつをテオドールに渡す。
ロマーナから輸入された上等な白い布は、真っ黒に汚れ、ツンと鼻を刺す臭いを放っていた。怪訝そうに受け取ったテオドールに、片方を知らせに走ってくれた馬車の御者に、もう片方をテオドールの馬のあぶみに結ぶよう告げる。
「熊は、犬の何倍も嗅覚の優れた動物です。そのため刺激の強い臭いには近づきたがらない習性があります。きっとあなたと馬車を守ってくれるわ」
「――感謝いたします。それでは、走ります!」
再び動き出した馬車はいつもよりずっと速度が出ていて、車体がひどく揺れる。
「……マリー、ハンカチを駄目にしてしまってごめんなさいね。新しい布を買って、刺繍を入れて返すわ」
「でしたら、ナイチンゲールを入れてください。私は薔薇を入れますから」
マリーは笑って、まるで何も問題など起きていないというような軽い口調で告げた。
けれど、まだメルフィーナの体を支えるように回された手は、小さく震えている。
「ナイチンゲールを刺すのは難しいわね。私の独断で、青い鳥を入れるわ」
だからメルフィーナも笑って、はっきりと告げた。
「マリーは、何があっても私を待ってくれているって約束したでしょう?」
去年の冬、団欒室でセレーネに語った物語を、その場にいたマリーも聞いていた。
青い鳥は帰る場所と幸福の象徴だ。
命を懸けた無償の愛など、マリーに求めたことは一度もない。
「それに、どちらかというと姉の方が妹を守るものだしね」
「守られていますよ」
一拍も置かずにきっぱりと言われ、思わず面食らうと、マリーはもう一度、はっきりと言った。
「いつも守ってもらっています」
緊張を解すための軽口のつもりだったのに、思わぬ強い反応が返ってきて、すぐにメルフィーナも頷く。
「私もよ、いつも守られているわ」
一人なら、きっと不安で、悪い想像でいっぱいになって、震えていただろう。
突然の脅威に恐れながらも冷静でいられるのは、メルフィーナを案じて危険な中、馬車を走らせていたメルト村の使いや騎馬で護衛を務めるテオドール、そしてとっさにメルフィーナを庇うことに躊躇のないマリーが傍にいるからだ。
彼らを、姉として、領主として、そして主として守らなければならない。
その強い気持ちが自分を支えてくれているのを、強く感じていた。
※ ※ ※
「メルフィーナ様! すぐに家の中へ!」
「すまない村長、村を出てすぐに、メルフィーナ様の馬車に行き当ってしまった」
使いの男性が馬車から飛び降り、近隣の人々が一気に出てきて、半数は農具を構えたまま周囲を警戒し、もう半数がロバを厩舎に仕舞う。その動きは性急で、警戒と恐怖に満ちたものだ。
メルト村全体が、強い緊張に包まれている空気が、肌に刺さるようだった。
「いや、無事でよかった。お前もうちに入れ」
「ありがたいが、家族のところに戻るよ。女房も子供もいるし、メルフィーナ様がお守りを下さったからな」
黒く汚れたハンカチを掲げられて、ニドは怪訝な顔をしたけれど、頷いて真剣な表情で気を付けて戻れと告げる。
メルフィーナたちがニドの家に入ると、住人は全員居間に揃っていた。窓は全て鎧戸が閉められていて、暗い中、ろうそくの光だけが揺れている。
「レディ、大変な時に来てしまいましたね」
「ユリウス様。状況を教えてください。私は穀物倉庫が襲われたということと、怪我人が出たことしか知らされていないのです」
「聞いたままですよ。メルト村の穀物倉庫がクマに荒らされているところを村人が発見しました。追い払おうと鋤を向けて威嚇した男性が襲われ、背中をざっくりやられたようです」
「なんて無茶なことを」
熊は警戒心が強く、よほどのことがなければ人里まで下りてこないものだ。
逆説的に、人里近くに現れて餌を貪る熊は、人間への恐れが薄いか、まったく無い個体ということになる。
大型の肉食獣である熊と人間の膂力の差など、実験してみるまでもない。勝てる見込みのない絶望的な勝負だ。
「熊は一度餌場と定めた場所を、何度でも襲います。ここが危険な場所であるのだと思わせて追い返さねばなりません……いえ、無茶でしたし、そいつは逃げるべきでした」
ニドは苦々しく、告げた。
「その穀物倉庫は、村の重要な食糧庫のひとつです。今のメルト村ならば、倉庫ひとつを失っても飢えることまではないはずですが……我々が冬に家族を失うのが当たり前だったのは、それほど昔のことではないので」
「……いえ、私の言葉がよくなかったわ。倉庫だけでなく、その人は村を守ろうとしたのね」
人命がなによりも大切だと考えること自体、前世の記憶に今のメルフィーナが強く影響されているからだ。
少ない犠牲で多くを救うのは、この世界では当然の価値観といえる。
メルフィーナも心情的にはともかく、食糧を守るために野生生物に立ち向かった勇敢さを称えることが正解だと、頭では分かっていたはずなのに、失言だった。
「怪我人の様子はどうなのですか」
「止血はいたしましたが……」
言葉を濁すニドに、予断を許さない状況なのが強く伝わってくる。
――神殿のある町までは、どれほど急いでも丸一日以上は掛かってしまう。
「……領主邸に、医者がいます。私が治療を願ってみましょう」
サイモンは王太子付きに任命されるほど優秀な医者だ。この世界における外傷の治療や感染症の予防なども、知識があるだろう。
けれど、サイモンはあくまでセレーネのお付きの医者である。危険を冒してメルト村まで来てもらうことまでは願えない。
患者を領主邸に連れて行き、セレーネを介して治療を願う。それがメルフィーナの立場で出来る、ギリギリのところだ。
「明るいうちに僕が熊狩りに出ると話をしていたんですが、ニドが止めるんですよ。レディからもなんとか言ってください」
今年の春の始まりの頃、やはりメルト村に熊が出た時に居合わせたユリウスが倒して、その熊は鍋になったという話はメルフィーナも聞いていた。
あまりにあっさりとした報告だったけれど、あの時も、メルト村の人々は脅威を恐れて鎧戸を閉め、家族を守ろうとしていたのだろう。
報告を聞いて、人的被害が出なくて良かったと片づけずに、もっと寄り添うべきだったと後悔するのは後だ。
「ユリウス様、あの時はその場にユリウス様がいたからこそで、熊狩りにわざわざ出てもらうなんて危険はお願いできませんよ」
「でも、僕はこの後レディと領主邸に戻るから、どのみちここで足止めされているわけにはいかないしね。それに、怪我人を移動させることに、熊がどう反応するか分からないだろう?」
「……熊は、種類によっては襲った獲物に強く執着します。その怪我人に執着が向けられている場合、熊はどこまでも怪我人を追って来るでしょう。そうなればエンカー村と領主邸が襲われる可能性があります」
怪訝な表情をしているのでメルフィーナがユリウスの言葉を引き継ぐと、ニドはさっと青ざめた。
「この季節だと、熊は冬眠前か、穴持たずの可能性もあります。冬眠前なら食糧庫を襲って腹いっぱいになって、春まで冬眠してくれるかもしれませんが、熊の行動範囲は、雄ならば三十キロ四方に及ぶこともあります。その場合、どのみちエンカー地方に安全な場所はありません。……ですが」
穴持たずとは、なんらかの理由で冬眠に入らない熊を指す言葉だ。通常よりも凶暴で、家畜や畑を荒らす恐るべき存在として、出現すれば近隣の大きな街の代官に願い出て騎士団を招致し、討伐を依頼する規模の脅威である。
明日にでもエンカー地方から出ていくユリウスに、危険な仕事を頼むのも、気が引ける。
この場合正式な手続きとしては、エンカー村に駐在している騎士と兵士たちに巡回と山狩りをしてもらうことだろう。だがそれでは、怪我人はもたない。
「レディ、これでも僕は恩義深い性格をしているのです。ニドたち一家や、レナと親しい子供たちの周囲に危険を残していくことはできません。熊鍋は美味しかったですし、メルト村の今日の夕飯にしてもらいましょう」
そう告げると、ユリウスは返事も待たずに立ち上がる。
「魔物ならば魔力の痕跡を辿っていくことも可能なのですが、野生動物では無理ですね。ひとまず襲われた穀物倉庫辺りを見回ってみます」
「せめて、背後を守れるよう村から志願者を数人つけます」
「要らないよニド。守らなければならない相手がいるほうがやりにくいし、下手したら僕の攻撃に巻き込んでしまう危険もある」
「いきなり眠るような方を一人には出来ません! せめて俺がついていきます!」
「困ったなあ……」
ちらりとこちらを見られても、メルフィーナもユリウスの強い眠気を知っている者としては、一人で行かせるわけにはいかない。
「……私が随行しましょう。代わりに、メルフィーナ様を厳重にお守りしてほしい」
そう言いだしたのは、メルフィーナの護衛騎士のテオドールだった。
「テオドール?」
「お傍を離れることは、本来護衛騎士として選ぶべきではありませんが、この場で自らの身を守りながらユリウス様の後衛が出来るのは、私だけです。緊急事態として、お許しください」
「まあ、素人よりはマシですし、妥協点はそこらへんですね」
「……、分かりました。でもテオドール、あなたはアレクシスから預かっている、大切な騎士でもあります。いざという時はユリウス様を連れて、必ず逃げてください」
「かしこまりました」
テオドールはしっかりと騎士の礼を執り、二人はすぐにニドの家を出て行った。
ドアが閉まる音が、嫌に大きく響く。
「きっと、大丈夫ですよ。ユリウス様は本当にお強いので」
「そうね、きっと、大丈夫ね」
ユリウスもテオドールも、危険と分かっている中に、他人を守るために出て行ったのだ。
誰よりも、領主である自分が、彼らを信じなければならない。
無性に何か大きなものに祈りたくなって、テーブルの上で手をきつく握りしめる。
待つ間、時間は肌にまとわりつくように、ゆっくりと流れているように感じていた。
いつも誤字の報告をありがとうございます。とても感謝しております。
本日からしばらく自宅を留守にしているので、数日反映が遅れます。帰宅したら修正させていただきます。




