188冬の団欒と不穏の兆し
メルフィーナが団欒室で冊子に纏められた紙をめくっている横で、セレーネとウィリアムは緊張した面持ちだった。
「どうでしょう、姉様。ウィリアム様に聞いた北部の話を、僕なりにまとめてみたのですが」
「とてもよく書けていると思うわ。物語としてまとまっていて分かりやすいし、文字も丁寧だし、言葉遣いも平易で気取りがなくて、これなら貴族だけでなく、読み書きが出来る平民も手に取りやすいんじゃないかしら」
思ったままそう告げると、ぱっ、と二人そろって表情を明るくする。
メルフィーナの言葉に、向かいに座って同じものをめくっていたロドも頷いた。こちらはまだ半ばほどまでめくっている途中だけれど、とても真剣な表情だ。
「俺はまだ読み書きが上手くないですけど、これは面白いです。何度も読みたくなるし、話はどれも聞いたことがあるのに、ずっと分かりやすくなっていると思います。本になるとこうなるんですね。すごく面白いです」
「その冊子はロドにあげるから、何度でも読み返してくれ」
早く読まなければとやや焦っている様子で冊子の文字を追っていたロドが、ぱっと顔を上げる。
「いいんですか? 紙も安いものではないですけど、中身も、セレーネ様が書いたものなんですよね?」
「うん、ロドが読んで、気になることや、ここは直した方がいいと思う所があったら教えて欲しい。僕の感覚とはまた違うだろうから」
「ありがとうございます! 大事に読んで、必ず伝えます!」
嬉しそうに冊子を抱えるロドに、セレーネも少し気恥ずかし気に頷く。
「こちらが、姉様から聞いてメモに纏めていたものを清書したものです。量が多いので冊子にまとめてはいないのですが」
差し出された紙の束は、前世のように薄い紙がまだ存在していないとはいえ、確かに中々の厚さだった。メルフィーナの教えたやり方では、紐が紙の重さに耐えきれないだろう。
「どうせなら、こちらは革張りの製本にしましょうか。ソアラソンヌには製本の職人がいるでしょうし、セレーネの近況の報告と一緒に、妹君への贈り物としてはどう?」
製本の知識自体はあるけれど、この世界の「本」は革のカービングや金属による装飾の技術など、様々な職人技の集合体でもある。エンカー地方で保存するだけならシンプルな装丁でも構わないが、隣国の王家に正式に贈るなら、ある程度の見栄えも必要になるだろう。
セレーネの近況は、サイモンによって定期的にルクセン王国に届けられている。前々から妹に話をしてやりたいと言っていたし、すでに一年以上母国から離れているセレーネの贈り物は喜ばれるはずだ。
けれどそれに、セレーネは首を横に振った。
「いえ、本にしたいのは、それはそうなんですけど……最初の一冊は、姉様に貰っていただきたいです」
「私に?」
「はい、僕は姉様にいただいてばかりなので、僕の方からも感謝を込めてなにか贈りたくて。話の内容は姉様に聞いたものですし、紙もインクも姉様が用意してくれたものなので、贈り物というには足りないかもしれませんが」
恥ずかしがるように、次第に声が小さくなっていくセレーネに、喜びから思わず表情が綻んでしまう。
「とても嬉しいわ、セレーネ」
「あの、私も自分で冊子を書いてみてもいいでしょうか。セレーネ様みたいに上手くはないのですが、私も伯母様たちと、伯父様にも贈りたくて」
「勿論です。先日のロマーナの隊商から紙とインクも新しく購入したばかりですから、思うようにやってみてください」
「ウィリアム様は決して下手ではないですよ。落ち着いて書かれた字はとても丁寧で形も綺麗です。僕もお手伝いしますから、一緒に書きましょう」
「はい!」
二人の無邪気なやり取りの傍で、ロドは再び冊子の文字を追うことに夢中になっている。
物語には中毒性がある。前世ではゲームや小説、漫画や技術書と媒体を選ばず物語を貪っていたメルフィーナには、よく理解できる感覚だ。
「いずれ、北部やルクセン王国では、本を贈り合う習慣が出来るかもしれないわね」
「贈り物に本ですか?」
本は現状、非常に高級なものだ。それでいて読める人間は多くはなく、時間の経過で本自体が劣化していくので保存にもそれなりの手間と費用が必要になってくる。
前世の感覚でいうなら、スポーツカーを何台も所有しているのに近いだろう。到底気軽な贈り物には向かない物だ。
「植物紙は、いずれ北部にも工場を作って安価に提供できるようにしたいと思っているし、一度紙に書いたものを簡易に写していく技術も開発したいわ。これは随分後のことになると思うけれど、多くの知識や技術を、文字として残していく事業を立ち上げたいと思っているの」
識字率の問題もあるので、本を供給していく業態を確立するのには、随分時間が必要になるだろう。
けれど、いつか多くの人が容易く物語に触れて、自分も書いてみようかと気軽に思えるような世の中が、きっと来るはずだ。
その基礎を作るのは、なんともロマンのある仕事である。
「手紙で想いを贈るように、物語に想いを添えて贈るのも素敵だと思うわ。どんな冒険に出かけても、帰る場所はいつも最初の場所にあったヘンゼルとグレーテルや、全ての宝石や金銀を失っても、最も尊いものは人を想う気持ちだと伝える幸福な王子とかね」
「それは、とても素敵ですね。僕も姉様に、物語を贈りたいです」
「セレーネ様は、伯母様にどんなお話を贈りますか?」
ウィリアムの問いかけに、セレーネは少し考えるように黙り込み、やがてぽつりと答えた。
「ナイチンゲールと薔薇、ですかね」
そう呟いた後、セレーネは少し慌てたように続ける。
「とても悲しいお話ですが、愛と献身のお話ですから、領主としてエンカー地方に心を砕いている姉様に贈りたいなと」
「そうね。愛は宝石でも美しい薔薇でもなく、差し出す想いにあり、それは大声で叫ぶようなものではないのだと、読み手に強く伝えるお話だわ」
はい、とセレーネは頷く。
繊細な芸術を愛した作者の著した物語だ。気が優しくて芸術家気質なセレーネにも、よく合っている。
夏の間は仕事に忙殺されて、食事を共にする以外はほとんどセレーネに構うことが出来なかったというのに、それに対してセレーネが不満を漏らしたことは一度もなかった。
子供たちが領主邸に来てからは、楽しそうに笑っている姿を多く見ることが出来るようになって、本当によかったと思う。
「メルフィーナ様、そろそろお時間です」
マリーに声を掛けられて、ふと窓の向こうに視線を向ける。朝食を終えて団欒室でのんびりとしていたけれど、気が付けばもう太陽は大分高い位置に上っていた。
「伯母様、どこかに行かれるのですか?」
「今年最後の視察に、メルト村に行ってきます」
「私もご一緒させていただけませんか? お手伝いさせてください」
そう申し出たウィリアムに、帰りにメルト村にいるユリウスとレナを乗せてくることになっているので、馬車はそれでいっぱいだと告げると、残念そうにしながらも引き下がった。
元々とても元気で活動的な少年なので、ずっと屋敷に籠っているよりは出かける方が楽しく感じられるのだろう。
「冬豆が豊作だというので、明日はスペアリブと豆のスープにしましょう」
「楽しみにしてます!」
冬の畑と水路の凍結の視察を行ったあとは、ユリウスとレナを伴い領主邸に戻り、そして明日にも、ユリウスは王都に戻ることになる。
もういつ雪が降り出してもおかしくない頃合いだ。天気が良いうちに、送り出した方がいいだろう。
雨の日にさよならを告げるより、その方がきっといい。
「今夜はごちそうにしましょう。エドにも頼んであるから、楽しみにしていてね」
「はい、姉様」
「楽しみです!」
子供たちの笑顔に、メルフィーナも微笑む。
彼らがいてくれて良かったと、しみじみと思う。
別れの寂しさも未来への不安も、子供たちを不安にさせてはいけないという気持ちが覆い隠してくれる。
マリーとテオドールを連れて団欒室を出る。
毛皮の上着を羽織っているというのに、外に出ると身震いするほどの寒さだった。
冬が来たのだと、改めて強く思う。
寒く、寂しく、厳しい北部の冬が。