187.騎士たちの希望と憂鬱な話
今日はお休みなので細かく修正をしていたら、気が付いたら正午すぎていました。
「なんだ、もう「花押入り」のエールは終わりか」
不満そうに言った後、兵站用のエールをぐびぐびと傾けるブルーノに、オーギュストは苦笑を漏らす。
エンカー地方から運んできたエールが極めて美味であることは間違いないが、だからといってこれまでのエールを忌避せず不味いとも言わないのが、この老騎士のいいところだ。
普段はやることなすこと文句を垂れてきて中々に煙たい御仁ではあるけれど、憎めないと思うのはこういう部分だった。
口うるさいが面倒見もいいため、実際、騎士や兵士たちにも大変に慕われている騎士である。
「それにしても、今回の討伐は画期的でしたね。私は、時代が変わるのを感じました」
「あの燃える水があれば、いずれは南部のように四つ星の魔物と対峙することなく討伐できるようになるかもしれませんね」
「錬金術師を招致して、北部で研究機関を作るのも視野に入れた方がいいかもしれません」
話題はやはり、今年がらりと変わった討伐の内容についてだ。
プルイーナ討伐は、一度の失敗が取り返しのつかない損害につながる。今は生き物の気配が薄く乾いた風が吹くばかりの荒野とこの冬の城があった場所が、元はそれなりに豊かな土地と街だったということからも、それは明らかだ。
そのため討伐に従事する公爵家も、そこに生きる騎士や兵士も、自然と保守的でやり方を変えたがらないようになる。これまでそれで成功していたのだから、多少の犠牲は織り込んでも――たとえ、次の犠牲が自分の番だとしても――変える必要はないと考えるようになるのも、ある意味仕方のないことなのだろう。
アレクシスが公爵位に就いていなければ、この作戦に許可が下り定着するのに、もっとずっと長い時間が必要だったはずだ。
長い時間をかけて根付いたこれでいいのだという考えを、根からひっくり返した。それほど、今回の討伐は画期的なものだった。
「本当に、夢のような話です……。息子が叙任を受ける頃には、誰も欠けずに戻るのが当たり前になってくれれば、どれほどよいでしょう」
しんみりと言ったのは、古参騎士の一人、オットーだった。
代々騎士の家系では、親兄弟がプルイーナ討伐でこの世を去った者は決して少なくない。オーギュストの父親も、命こそ取り留めたものの、サスーリカに食われ軸足の膝から下を失った。
騎士としての命は、失ったも同然だ。
「それにしても、今回の燃える水を作ったというのは、どこの技術者なのでしょう」
「どこぞの家に公爵家から褒賞が出たという話は聞かんので、公爵家主導ではないのか?」
ふむ、とひとりの騎士が顎髭を撫でながら、頷く。
「閣下はここしばらく、足しげく北端に通っていると聞いている。食糧の運搬の関係だとばかり思っていたが、その技術者とやらもエンカー地方で囲っているのではないか?」
「ああ、あそこは陸の孤島ですから、秘密を守るのはうってつけでしょうね。公爵夫人があの辺境にお住まいなのも、そのためかもしれません」
その言葉に、なんとなく、納得したような空気が騎士たちの間で流れてくる。
内政の仕事に従事している文官の間では、メルフィーナの評判はすこぶる良い。北部の飢饉という最悪の展開の被害を最小限に抑え、これまで家畜のエサだと認識されていたトウモロコシの導入も、その安全な食べ方も含めて公爵夫人の名で行われたのは周知の事実だ。
メルフィーナがエンカー地方に向かわず、公爵家や王都のタウンハウスで大人しく暮らしていたとしたら、農民や農奴への飢饉の被害は想像を絶しただろう。
かなり早い段階から文官たちの間で公爵夫人への評価は高かったけれど、それは次第に、騎士たちにも伝わってきている。
細やかな事情は知らぬまでも、今やメルフィーナを表立って悪く言う者は、オルドランド領内にはほとんどいなくなった。
――あとうるさいのは、北部の貴族連中か。
オルドランド家を北部の実質的支配者であると認めてはいても、直臣ではない他家の貴族たちは嫁いでから一年半以上、一度も社交を行わず公爵家に戻ることもない公爵夫人について冷淡な目を向けている。
何が出来るわけでもないと高を括っていれば、つまらないところで足を引っかけられるものだ。
どこかでメルフィーナの威光を示す機会があればいいのだが、当のメルフィーナが見栄や栄誉に興味がないときている。
「北端で公爵夫人が暮らし始めたと聞いた時にはどうなることかと思ったが、さすが南部大領主の長子だけのことはある、敏腕な方なのだろうなぁ!」
ブルーノの言葉に、騎士たちは素直にうなずいている。
「あとは閣下にも跡継ぎが生まれてくれれば、オルドランド家は安泰ですね」
「夫人はまだ成人したばかりでしょうから、閣下もしばらくは新婚を楽しみたいのではないですか?」
「そうは言っても、子は何度も産めるものではありませんからなあ、早くから試みるに越したことはないでしょう」
酒が入っていることもあるのだろう、あっという間に勝手な方向で盛り上がり始めた場に、ごほん、とオーギュストが咳払いをする。
「そのような話がまかり間違って閣下の耳に入れば、ご不快になられると思いますよ。最近はウィリアム様の養育にも、ますます力を入れていますから」
「そういえば、よくウィリアム様とお時間を過ごされているという話も聞きますね」
「オルドランドの公子らしい利発さも出てきたと」
「そうそう、俺達臣下に出来ることは、閣下の判断を過不足なく遂行することです。ああ、新しい樽がきたので、改めて今回の成功を乾杯しましょう」
話の流れが変わって、にこにこと笑いながら次のエールを勧めていく。
――このおっさんたちは、ほんと変わらねえなあ。
フランチェスカ王国は、周辺の国家に比べれば比較的自由な気風を持つ国ではあるけれど、その中でも北部は旧弊的な感覚が強い土地だ。
男の最も重要な役割は土地や家族を守って戦うこと、そして女の役割は家を守って子供を産むことだと、何の悪気もなく信じている。
騎士たちには悪意も悪気も少しもない。そして彼らが厚い情でもってアレクシスに仕えていることも、また、事実なのだ。
それは命を懸けられるほど重たいものだ。
――閣下にはそうではないものが必要だというのに、皮肉な話だな。
周囲の忠誠が厚ければ厚いほど、その中心にいる「オルドランド公爵」は完璧な存在でなければならなくなる。
自然と私情に走らず、私欲を持たず、捧げられる忠誠に応える存在になっていくしかなくなってしまう。
彼らの前で威厳ある公爵として立派に振る舞うことは、アレクシスには容易いことだ。
けれど、固い表情が解け、不意にふわりと笑う顔を見せることは、きっと難しいだろう。
「新婚といえば、ヘルマン卿の嫁はもう北部に慣れたか? 貴兄もそろそろいい年だ。早く後継ぎが必要だろう」
アレクシスの代わりとばかりに水を向けられたヘルマンは、その言葉に苦笑を漏らす。
去年から若手の騎士たちは結婚と出産が集中していて、数年前に妻と離縁したヘルマンも、新たな妻を迎えたばかりだった。
領主の結婚とともに新たに結婚したり、妊娠や出産が続いたりするのは良くある話だ。そうして生まれた子は主君の子の年の近い友人や将来の側近となるべく育てられる。
わざわざ聞いたことはないが、オーギュスト自身、アレクシスの数か月後に生を享けたのは、そういう事情が関係しているのだろう。
「私は、前の妻もああいうことになったので、もう少し妻が北部に慣れるのを待とうと思います」
オルドランド家から叙任を受ける騎士には、いくつか共通点がある。その最も大きなものが、プルイーナ戦に赴くアレクシスに追従できる程度の魔力耐性を持つことだった。
討伐に出て手柄を立てることで叙任の道が開けるのが一般的なので、自然とそうなっている。
そして魔力耐性が高いというのは、当人が強い魔力を持っていることと同義だ。
ヘルマンの前妻……他の土地から嫁いできた娘は初子が流れ、そのまま気を病んで療養の名目で実家に戻り、数年後に離縁の申し出があったと聞く。
通常、教会は一度成された結婚を撤回することを強く忌避しているものの、例外はいくつかある。そのうちのひとつが、片方が神殿や教会に入る……俗世から縁を断つというものだ。
壊れて、もはや戻らないと判断された娘は、静かな修道院に入れられ、そこで余生を過ごすのだろう。
離縁しないままではヘルマンは次の妻を迎えることも出来ない。おそらくは妻の入った神殿に、生涯前妻が生活に困らない程度の寄付がヘルマンの家からあったはずだ。
政略結婚の円満な終わり方の、ひとつの形である。
「まあなあ、出来れば子は、冬の討伐前に生まれてほしいものだ。腹の子を見ずに逝ってしまう騎士や兵士も、少なくはないからな……」
「結婚と言えば、オーギュスト卿はどうなのですか? カーライル家の長子としては遅いほどでしょう」
「閣下もご結婚されたことですし、御父上も気を揉まれているのでは? よろしければ、私の縁戚の娘をご紹介いたしましょう」
「いや、俺は……」
言いかけて、思わせぶりに、憂鬱を滲ませて微笑む。
「まだ、心に決めた方を諦めるには、時間が必要なようです。男として妻に迎える方に心を捧げる覚悟が出来るまでは、不誠実な真似は出来ませんので」
「……そういえば、オーギュスト卿は頻繁にエンカー地方に足を運んでいましたね」
「閣下も、酷なことをなさる」
「騎士として内政に関わる部下としても、当然の役目ですので」
切なげに苦笑していると、ブルーノがドン、とジョッキを置いた音が、やけに大きく響いた。
「フン! ……閣下は部屋に戻られたようだな。カーライルのドラ息子よ、仕事は放っておいていいのか」
「俺をここに呼んだのはブルーノ卿でしょうが。ですが、確かにその通りですね。私は護衛の任務に戻ります。皆さまはこのまま、お楽しみ下さい」
水を向けられたのを幸い、そそくさと騎士たちの輪から離れる。
賑やかな場は嫌いではないが、南部とアレクシスの縁談が持ち上がった頃からお前はまだかとせっつかれるようになって、どうにもこうした場が居心地悪くなってしまった。
――けど、騎士たちの中でメルフィーナ様の評価が予想より随分上がっていたな。
内政に従事している文官には、貴族出身の次男三男も少なくないし、公爵家に仕える使用人もそうだ。
彼らから騎士階級に公爵夫人の良い印象が伝わっていくのは時間の問題だろうとは思っていたが、想像していたよりかなり早い。
「それを知らせるためにあの場に呼んだ……ってことはないか。ブルーノ卿だしなぁ」
アレクシスの私室に向かいながら、ふと思いついて呟いてみる。
豪放磊落で強引で面倒見はいいが説教の多い、少しばかり煙たい老騎士が、そのような細かい気の回し方をするのは似つかわしくない。
たまたま面倒な席に呼ばれて、そんな雰囲気を知ることになったほうがよほど「らしい」というものだ。
――多分。
どちらにせよ、しばらくあのような席は避けるようにしよう。
北部の男は頑固で古臭く、そして強引でもある。呼び出されて赴いたら、いきなり若い者同士で庭園でも見てこいと言われかねない。
「嫁さんねえ、欲しくないわけではないんだが」
かつてマリーに、主と顔の似た女は主従をこじらせていて気持ち悪いと思うような男だと評されたことがあるが、おおむね間違ってはいない。
もしもマリーが縁談を受けていたとしても、主の妹を守るという意識にしかならなかっただろう。
自分の好みの相手など真面目に考えたことはないが、あえて言うならば、刺激的な女がいい。
次に何をしでかすか分からず、物おじせず、思い通りにならない、それでいて期待を裏切らないびっくり箱のような女が。
「……エンカー地方に通っているうちに、俺もだいぶ、理想が高くなったな」
後頭部を掻いて苦笑する。
主の妻に懸想するような真似は、主従をこじらせる以上にありえない。自分はそんな柄の男ではないと思っているし、実際にそうだろう。
今夜は少し、酔ってしまったらしい。
そんなことを考えて、深呼吸をして、気持ちを切り替える。
「閣下はちゃんと食えたかな……厨房に寄っていくか」
こっそりと隠しておいた花押入りの小樽も持って行こう。
そうして、犠牲なく終わった討伐を喜び合おう。
そう思って進み出した足取りは、いつもと変わらない軽快なものだった。
騎士は新たに手柄を立てて公爵家から叙任を受けるほか、騎士家の実家から後援を受けた長男も多く、親世代祖父世代からの付き合いが長かったり、お互いに結婚で結びついていたりと関わり合いが深いです。
オーギュストは年配の騎士から見ればふわふわと浮ついているように見える甥っ子のようなものなので、オーギュストは年々田舎の親戚の集まりの場みたいになっていく宴会の場から逃げたい気持ちもかなり強いです。
次回から舞台はエンカー地方に戻り、四章最後のエピソードになります。
もうしばらくお付き合いいただければ幸いです。