186.祝勝会と神殿の神官
冬の城の広間は、熱気に満ちていた。
「今年は葬儀が無かったので、随分早くから始めることになってしまいましたからね。酒もつまみも足りていなくて、厨房は大忙しですよ」
「エールも食料も、それなりの量を持ち込んだだろう」
飢饉の影響が完全に払拭されたわけではないにせよ、極めて危険な仕事に従事させる騎士や兵士たちを飢えさせるわけにはいかない。多少無理をしても、その点は公爵家が保障しているはずだ。
「通常のエールは残っているんですが「花押入り」がほとんど飲まれてしまいましたね」
ひょい、と肩をすくめて、オーギュストは笑う。
「花押入り」というのは、花の焼き印が押されたエール樽のことだ。飲み終えたら樽は返却して欲しいということで、他の樽と交じらないよう印が入れられていたけれど、その樽のエールは特別製だとあっという間に騎士や兵士たちには知られてしまったようだった。
「メルフィーナ様のエールは美味しいですからねえ。あわせて通常のエールよりかなり酔いやすいから他のエールも飲むようにと通達はしたんですが、誰も聞いちゃいませんよ」
そう言いながら、オーギュストの手にはしっかりとジョッキが握られている。
毎年、始まりの挨拶を終えた後はそっと広間を後にしていたというのに、今年に限って腹心に引き留められてしまった。
「今日の閣下は、一人でいないほうがいいと愚考いたします」
多少不敬なところはあっても主人への忖度は人一倍優れているオーギュストにそこまで言われては、振り切って私室に戻るのもためらわれ、結局二杯、三杯と杯を重ねているうちに、ふわふわとした気分になってくる。
明るい笑い声や談笑の声が、アレクシスの席まで聞こえてくる。
毎年、祝勝会は討伐の成功を祝う反面、失った仲間を悼む場でもあった。
笑っていても、快哉を叫んでいても、それはどこか空元気のように響き、広間のあちこちでは啜り泣きや怒りを押し殺している者がいたものだ。
「……今年は、誰も泣かずにすんだな」
「いえ、あそこでブルーノ卿が泣いていますよ」
呆れたような言葉に視線を向けると、大柄な老騎士は何故か両手にジョッキを握ったまま、呻くような声を漏らしている。
アレクシスにはその押し殺した声がうっすら聞こえてくるだけだが、オーギュストには泣いているのが見えるらしい。
そうこうしているうちに、左手に握ったジョッキを一気に干し、どん、とテーブルに叩きつけるように置き、慟哭する。
「今年は死人どころか、重篤な怪我人も出なかった! 皆無事だった! こんなに素晴らしいことがあるだろうか!」
「おおっ!」
「ワシは三十五年、三十五年だ! プルイーナ討伐に参加してきたが、こんなことは初めてだ! 家族に遺体すら返してやれず、泣き崩れる妻子に報奨金を持っていくことも、後遺症に苦しむ騎士を見舞いに行くこともせずに済む! ワシは、ワシはッ!」
「おおーッ!」
右手に握ったジョッキをぐい、と傾けると、後は声にならなかったらしく、再び呻くような声が聞こえてくるばかりだった。
「あれは完全に出来上がっていますね。閣下を引き止めておいてなんですが、俺はそろそろ」
「おう、カーライルのドラ息子! こっちに来て話に加わらんか!」
「……遅かったようだな」
「閣下、今からでも部屋に行きましょう。お供いたしますから」
「私もたまには宴に出席したほうがいいのだろう。構わないから行って、先輩騎士のありがたい武功の話でも聞いてこい」
いやそれならお傍にと言いかけたところで、広間中に響く声で名前を呼ばれ、オーギュストは観念したように肩を落として、しばしおそばを離れますと告げ、テーブルの一つに向かっていった。
ちょうど同じタイミングで厨房から新たな料理が運ばれてきて、そちらに視線が集中している間に手元のジョッキの中身を飲み干す。
賑やかな場が嫌いだというわけではない。自分の立場としても、率先してこの快挙を喜ばなければならないのだろう。
そうと分かっているのに、喧騒が自分の中に入ってくることはなく、心の表面を滑り落ちていくようだった。
エールを飲んでいても、オーギュストといつも通り会話をしていても、どこか自分の心は別の場所にあるような、奇妙な気分が続いている。
一人でいればなおさら、この空虚は自分の心の最も弱い部分を侵食していくような、そんな気がする。
「閣下、御前、失礼いたします」
声を掛けられ、視線を上げると白い服に身を包んだ神官が目の前に立っていた。いつからそこにいたのか、まるで気が付かなかった自分の腑抜け具合に、やや不快な気分になる。
立っていたのはこの数年、毎年のようにプルイーナ戦の陣に参加している神官だった。
年齢はよく分からない。アレクシスよりは年上に見えるが、かといって親ほど離れているわけでもないだろう。白い法衣に身を包み、抑揚のない声で話す女だ。
後方支援部隊だから、神官だからと魔物は獲物の選別はしない。騎士たちが前線を崩しプルイーナの侵攻を許せば真っ先に犠牲になる危険な場所だ。
「神官殿、今年も大儀だった。あなたの北部への献身に感謝する」
「いえ、今年は軽傷者しか来なかったので、貴重な備蓄を消費するばかりで却って申し訳ありませんでした。閣下もご無事で、お慶び申し上げます。プルイーナ討伐隊に志願するのは数年目ですが、こんなにやることのない討伐は初めてでした」
「結果的にそうなっただけで、神官が従軍している意義と安心感は大きい。――ワインを用意しよう」
「いえ、本日はよろしければ、私にもエールを分けてください」
エールはワインに比べれば、品のない酒という位置付けだが、そう申し出られれば拒む理由もない。忙し気に走り回っている小姓に命じて二杯分のエールを持ってくるように告げる。
「あのう、これで「麗しのエール」はおしまいだそうです」
「随分早いな」
「騎士の皆様がすごい勢いで飲まれていて、これも閣下がご所望だとなんとか分けてもらえました」
「そうか……名はなんという」
「! リューディガと申します!」
「気が利く小姓だ。私が褒めていたと、仕えている騎士に伝えるといい」
「はい! ありがとうございます!」
ぱっと明るく笑うと、少年はぎこちなく騎士の礼を執って気恥ずかし気に走り去っていった。
「閣下はお優しいのですね」
そう言われるのが相応しい人間でないことは、自分が一番よく知っている。つまらない謙遜をする気にもなれず、無言で杯を掲げ、中身を半ばほど干す。
熟しきる前の柑橘を思わせる、強い苦みが真っ先に来るけれど、ごくりと飲み下すと爽やかな香りがやってきて、そして後味は不思議と甘い。
豊かな麦の風味はしっかりとあるのに、重たさは少しも感じず、喉を落ちていく旨味の快感に、つい二口、三口と嚥下する動きが止まらなくなってしまう。
メルフィーナに中距離の陸上輸送実験という名目で委託されたエールだが、なるほど、これではすぐになくなってしまうのも当たり前だ。
いつの間にか「花押入り」から「麗しのエール」という名までつけられてしまったらしい。
まだ宴が始まったばかりだというのに最後の一杯だというのを聞けば、誰も覚えていないのだろう。
「今年の「特別なエール」は、本当に美味ですね。いつものエールならあるそうですが、こちらを飲んだ後では、物足りなく感じてしまいそうです」
神官はうっとりとジョッキを傾け、癒し手らしい慈愛に満ちた笑みを浮かべている。
「今年は色々とやり方を変えたと聞きましたが、随分優秀な策略家を迎えられたようですね。どのような方か、伺ってもよろしいでしょうか」
「私と、象牙の塔の魔法使いと、もう一人、技術開発を行った者がいるが、そちらは身分の非公開が決定している」
「ああ、公爵家で囲われているのですね」
納得したように頷いた神官の言葉は、他意のあるものではないのだろう。
有能な者を囲い込み、技術や能力を独占するのは、貴族には当たり前のことだ。技術者や錬金術師の方も、出資者を求めて自分を売り込んでくる。
だが、北端に住む彼女に囲われているという言葉は似合わない。
アレクシスには、彼女は誰よりも自由な存在のように思える。
「本当に、美味しいエールですね。ソアラソンヌからここまで運んで、さらに冬の城で一週間保管したエールとは思えない豊かな香りで、おまけに酸味はほとんど出ていません」
神官はうっとりと言い、微笑む。
「もしやこのエールを造ったのも「技術者」の方ではありませんか?」
「なぜそんなことを? エールと作戦立案では、全く畑が違うだろう」
「そうですね。……失礼しました。たった一杯だというのに、もう酔ってしまったようです」
「張りつめていた気持ちが緩んだのだろう。私も少し疲れを感じるので、そろそろ失礼しよう。今回の魔石は後ほど、神殿に届けさせる。今日は楽しんでくれ」
「恐れ入ります、閣下」
広間を抜け出し、私室に向かう通路を進みながら、先ほどのやり取りに、妙に心がささくれ立っていた。
神官の表情にも口調にも、他意があるような感じはしなかった。気のせいだと思う方が、よほど自然だろう。
何年も危険な討伐に志願している、神官の中でも信頼できる――信頼しなければならない相手だ。
だが、公爵として貴族社会を生き、時には権謀術数に身を投じることもあるアレクシスの勘が、あれはよくないものだったと警告を出している。
トラバサミとくくり罠の取り外せる部分は少数の信頼できる騎士に設置させ、回収も同じ者たちにやらせた。
その後は麻袋に入れ、一足早く公爵家へと運び出されている。
――構造自体はとても簡単なものです。鍛冶や冶金の知識がある人ならば、模倣品を作るのは容易いでしょう。
――ですが、これは捕らえた獲物に非常に強い苦痛を与える道具です。どうか、魔物との戦いで人的な被害を出さないための用途以外には、使わないでほしいのです。
まだメルフィーナがアレクシスを公爵様と呼んでいた頃、丁寧に、願うように、そう説明されたものだ。
製糖の情報すら、いずれ漏れると確信していたメルフィーナのことだ、一度表に出た技術を隠しきるのは難しいと分かった上での願いだろう。
アレクシスはそれに対し、出来る限り努力をすると約束した。
プルイーナの討伐は北部の宿命だ。ここにいる者全員が、北部のために命を懸ける覚悟で集まっている。
それでも、徴募の兵士や神殿の関係者が出入りしているこの城から、一足早く運び出して正解だったと、理屈ではない部分が告げている。
――この感覚は、オーギュストにも共有しておく必要があるな。
自分よりもよほど世情に精通している騎士だ。明確ではない感情でも、そこに何かがあるという感覚は理解するだろう。
息を吐くと、それは白く凝る。
石造りの城よりも、天幕のほうが暖かだったというのも、おかしな話だ。
その冷たさと、形にならない不穏な気配に、プルイーナの断末魔から以降、目の前に立ち込めていた霧がようやく晴れてきたのを感じていた。