180.ピクニックと名前の呼び方
早朝は霜が降りるようになった。
エンカー地方の冬の訪れは早いけれど、今日はよく晴れていて太陽の光が暖かく、空気は心地よく乾いている。
領主邸の前に作った前庭にはメルフィーナとマリー、護衛騎士のテオドールの他、セレーネと冬の滞在許可が下りたウィリアム、ロドとレナの兄妹に、ユリウスという今日のメンバーが揃っていた。
子供たちはいつも可愛いけれど、もこもこに着ぶくれていると、一層愛らしさが増すようだった。
「メルフィーナ伯母様、これ、私にですか?」
手袋とマフラーをまじまじと見ながら、ウィリアムは少し興奮した声で言う。
「はい、冬の前に親しい人に贈っているものです」
「去年、僕も頂いたんですよ。大事に使っています」
「私のこれも、メルフィーナ様から頂いたものです」
マリーとセレーネが互いに手袋とマフラーを見せ合って、ウィリアムはじわじわと驚きが喜びに変換されていくようで、やがて満面の笑みになった。
「ありがとうございますメルフィーナ伯母様! 私、大事にします!」
「メル様! ありがとー!」
ロドとレナも気に入ってくれた様子で、ユリウスはマフラー自体が着け慣れないのか巻いたり結んだりを繰り返したあと、前世でいうところのクロス巻きにして、結び目を後ろに回してようやく満足したらしかった。
「これは温かいですね」
「では、行きましょうか。みんな体が冷えるのには気を付けて、周囲は拓けているけれど、湖も森も近いので子供だけで行動せず、兵士たちの指示には従ってくださいね」
「はい!」
「はーい!」
今日は一年ぶりの、モルトル湖近くの広場でのピクニックである。
ロドとレナには領主邸内に部屋を用意したものの、現在は週に一度か二度、泊っていく形にして基本的には実家から領主邸に通ってもらっている。
特にレナは、特異な才能を見せているとはいえ、働き始めるにしてもまだ幼すぎる。この年頃で親元から離すのは、成長に良い影響を与えないだろうというメルフィーナの判断だった。
幸い、子供たちは元々の身分差をものともせず、すぐに馴染んでくれた。特に活動的なウィリアムと村の子供たちのリーダーだったロドは相性が良いようで、ロドの空き時間はフェリーチェも交えて庭を駆けまわっている。
一方、少年としてはおっとりしているセレーネとメルフィーナの専属料理人であるエド、好奇心が強くじっとひとつのことに集中できるレナも気が合うようで、最近はこの二手に分かれて交流していることが多い。
去年と同じように草原に着くと、先行した兵士たちによって天幕が用意されていた。子供たちは一気に駆け出して、歓声を上げている。
セレーネがウィリアムとロドにフリスビーの投げ方を教えているようだ。よい兄と弟のような光景で、自然と表情が綻んだ。
「レナ、湖のほうに行こう!」
「うん!」
一方、ユリウスとレナは湖の探索に行くらしい。二人は以前から舟まで用意して湖周辺で調べ物をしていたらしいし、今日もその続きなのだろう。
「ユリウス様、慣れていても冬の水辺は危険です。十分に注意してくださいね」
「勿論ですレディ、レナを危ない目には遭わせませんよ」
「ユリウス様自身も気を付けてくださいということですよ」
ユリウスはきょとんとしたあと、はにかむような様子で笑った。
「はい、気を付けます、レディ」
「二時間くらいしたら昼食なので、それまでに戻って下さいね」
湖の方向に向かった二人を見送って、メルフィーナはマリーとともに用意されたベンチに腰を下ろし、紅茶を傾けることにする。
風は冷たいけれど厚着をしているので寒さは感じなかった。ぴちち、と小鳥が鳴く声が聞こえるのが、なんとも穏やかで心地いい。
「こんなにのんびりしていると、夏の忙しさが嘘みたいね」
「今年は特に大変でしたものね。お止めくださいと言っても、こっそり書類を寝室に持ち込まれていましたし」
マリーには内緒にしていたけれど、どうやらバレていたらしい。
「ほんの少しよ。睡眠時間を削るような真似はしていないわ。農地の整備も随分進んだし、それに、今年はエールもチーズも事業化が済んで私の手からは離れたから、来年は少しは楽になるんじゃないかしら」
けれどそれは、趣味でやっていた開発を手放したということにもなる。料理もすっかりエドのほうが得意になってしまった。
「ふふ、これで一日中だらだらする有閑貴族に一歩近づいたわね」
「そうだといいのですが。以前はメルフィーナ様にだらだらするのは似合わないと思っていましたが、最近はそうやって暮らしていて欲しいと願うようになってきました」
「その時は二人でうんとのんびりしましょう。夏のテラスで甘いお菓子とお茶を楽しんだり、視察でもないのに馬車でのんびりエンカー地方をぐるっと回ったり、森にベリーを摘みに行ったりするの」
ベリー摘みは何度か村の子供たちに誘われていたものの、メルフィーナの時間の都合がとれずに断ってばかりだった。
「クルミを拾ったり、釣りをしたりもいいわね。それで、その日の釣果で夕飯のメニューを決めるの」
憧れのスローライフを想像するだけで楽しい。将来的には仕事は最小限で、のんびりだらだらと暮らしていくのが揺るぎない夢だ。
「メルフィーナ様は、社交界には興味はないのですか?」
「そうねえ、あんまりないわ。そろそろお嫁入りの時に持ってきたドレスも流行と年齢が合わなくなるから、処分してしまおうかと思っているし」
ほんの数年のことだが、高貴な女性の十代の中頃と後半では、求められる装いが明確に違ってしまう。
エンカー地方に来てからすっかり流行から遠のいてしまって、今はどんなスタイルのドレスが流行っているのか皆目分からない。
ドレスラインが違えばその着こなしも変わってくるのが常だ。きらびやかな社交界での過ごし方というのは、それなりの社交術や振る舞いに対する見識というのが必要になる。
「一度くらい夜会に出てみたかった気もするし、ダンスもしてみたかったけれど、今はそれより、こうして気心の知れた相手と日向ぼっこしながらお茶を飲む方が贅沢な過ごし方に思えるわ」
母のレティーナなどは積極的に社交界に出入りしていて顔も広かったけれど、メルフィーナは王都でデビュタントを行う前に北部に嫁いでしまったので、王都で親しい相手が出来ることもないままだった。
やってみたかったことはあっても、今更未練は覚えない。
――お母様も、もしかしたら寂しかったのかしら。
レティーナの王都での振る舞いは、ゲームの中のメルフィーナによく似ていたように思う。
派手好きで金遣いが荒く、ドレスも宝石も思うままに購入しては見せびらかすように出歩いていた。
今、大人になった視点で振り返れば、それも弟のルドルフが生まれてからは少し落ち着いて、父である侯爵との関係も改善した気がする。
自覚は無かったけれど、あれほど嫁ぎ先で子供が欲しいと願い、それが叶わないなら相手の気を引くように奔放に振る舞うというのは、レティーナを模倣していた行いのようにも感じられる。
「メルフィーナ伯母様! マリー叔母様! 見てください」
ウィリアムの声で物思いから引き戻される。その後ろから、セレーネとロドが焦ったようにこちらに走って来るのが見えた。
「草むらで飛んでいたのを捕まえました! お二人に差し上げます!」
差し出された手に思わず手のひらを出す。載せられたのは立派なバッタで、すんでのところで悲鳴を押し殺した。
「すごいんです、すごく高く飛ぶので、捕まえるのが大変で!」
「ウィリアム様! 女性に虫はダメです! とても苦手なひとが多くて!」
「えっ!?」
ようやく追いついたセレーネとロドと目が合うと、ひどく焦った顔をしている。マリーは虫が本当に駄目なので、まだ比較的マシなメルフィーナが受け取ってよかったのだろう。
「私は大丈夫です。でも、冬の前でもうそろそろ寿命が来る頃ですわ、可哀想だから、逃がしてあげましょうね」
手のひらを草むらに向けると、バッタは慌てたようにメルフィーナの手から飛んでいく。こちら側に向かって飛ばれなくてよかったと、内心でしみじみと思う。
「セレーネとロドも、ウィリアム様とたくさん遊んでくれてありがとう。セレーネは、体調は悪くない?」
「大丈夫です。僕、去年よりも随分強くなったんですよ」
「二人とも木に登ったり川に飛び込んだりしないから、全然大丈夫です!」
セレーネの頬は紅潮していても息が荒れている様子もないし、確かに去年の今頃より随分丈夫になったようだ。それでも、子供は突然電池が切れるから、少し休憩を入れた方がいいだろう。
「三人とも少し座って、私達とお茶を飲んでちょうだい。セレーネとロドは私の隣に、ウィリアム様はマリーの横でいい?」
「はい、姉様!」
さっとセレーネが座ると、その向こうにロドも腰を下ろす。ウィリアムも少しもじもじした様子でマリーの隣に座った。
マリーがごく自然にウィリアムの頭を撫でると、嬉しそうに、恥ずかしそうに唇を笑みの形にしていた。
兵士の一人がお湯を用意してくれて、紅茶を新しく淹れなおす。その間、子供たちは何をして遊んだのか報告してくれた。
この世界にも鬼ごっことほとんど同じ遊びはあるので、それをしたり、フェリーチェとフリスビーをしたりと元気に走り回っていたらしい。
「ロドもセレーネもウィリアム様も、本当に元気ですね。でも転んだり怪我をしたりしないよう、十分気を付けてね」
温かいお茶をそれぞれがゆっくりと飲みながら、そろそろ昼食の準備を始めた方がいいだろうかと思っていると、あのう、とウィリアムが声を上げる。
「メルフィーナ伯母様、もし、よろしければ、私のこともロドやセレーネ様のように、ウィリアムと呼んでいただけないでしょうか」
「さっきも話していたんですよ。メルフィーナ様はウィリアム様にだけ丁寧だから、少し寂しいって」
「ロド!」
「それで、姉様に頼んでみたらいいって、お話ししていたんです」
「セレーネ様! 何で言うんですか!」
セレーネとロドはほぼ同い年だけれど、ウィリアムはそれより五歳ほども年下なので、二人にとっては可愛い弟分が中々言い出せずにいるのにやきもきしていたのだろう。
「勿論、構いませんよ。私があまり近い位置になるのは、もしかしたらウィリアム様がお嫌かもしれないと思っていたのです」
「そんなわけないです! 僕、メルフィーナ伯母様ともっともっと仲良くなりたいです!」
「嬉しいわ、ウィリアム」
笑って答えると、ウィリアムははっと息を呑んで、それから嬉しそうに笑った。
メルフィーナの隣で、セレーネとロドが軽く拳をぶつけ合っている。
「私、もう少し遊んできます!」
恥じらいと緊張感に耐えきれなくなったように、カップを置くと弾けるように走り出したウィリアムの後を、慌ててお茶を飲みほしたセレーネとロドが追っていく。訳も分からないけれど走るのが嬉しいらしいフェリーチェも、その後に続いた。
「……男の子って本当に可愛くて愛しいわね、マリー」
「そうですね」
頷いたあと、マリーは頬に手を当てて、ほう、と息をついた。
「虫のプレゼントは、少し遠慮したいところですが」
その言葉はとてもしみじみと響いて、メルフィーナはくすくすと笑いが止まらなくなってしまうのだった。