175.お小遣いと陽気な音楽と収穫祭の始まり
「賑やかな音楽がここまで聞こえてきますね」
馬車の窓から外を覗いて、セレーネが少しはしゃいだ声を出す。向かいに座っているウィリアムはうずうずとしていて、それに気づいたマリーがそっと背中を撫でた。
「ウィリアム、馬車が止まってもいきなり飛び出してはいけませんよ」
「はい、マリー叔母様!」
「セレーネも走り出したり、はぐれないように気を付けてね」
「姉様、僕はもう小さな子供ではありませんよ。それは、少しは浮かれた気持ちにはなっていますけど」
「セレーネ様も、お祭りは初めてですか?」
少し遠慮を含んだようにウィリアムが尋ねると、セレーネは穏やかにそれに応じる。
「宮廷内で催される祭りに少し参加したことはありますが、こうした市井のお祭りは初めてです。私がエンカー地方に来たのは、去年の冬なので」
「あと少しで、セレーネが来て一年が過ぎるのね。あっという間だったわ」
「僕にはとても濃密な一年でした。エンカー地方に来てからは、驚くことの連続で」
「メルフィーナ伯母様は人を驚かせる名人だと伯父様から聞いています。どのようなことがあったのか、教えていただけませんか」
ウィリアムの問いにセレーネは穏やかに、食事が美味しいとか、初めて厨房に立って作った料理といった当たり障りのないエピソードを聞かせている。
普段は幼い少年のように思えていたセレーネだけれど、五歳年下のウィリアムと向かい合っていると、もう立派にお兄さんのように見えた。
そう遠からず成長期に入り、声も低くなるのだろう。
「メルフィーナ伯母様のお話でセレーネ様の作った本、読んでみたいです」
「では、領主邸に戻ったらいくつか届けさせますね。とはいえ、私の趣味で作ったものなので、大したものではないのですが」
「いいのですか!? 嬉しいです。大事に読みます!」
セレーネが礼儀正しいこととウィリアムの好奇心の強さは相性が良いらしく、あっという間に話はまとまったようだ。マリーと二人で微笑ましく見守っていると、エンカー村に到着し、馬車が減速する。アレクシスのエスコートで馬車を降りると、賑やかな喧騒と音楽が満ちていた。
今年も村の子供たちが作った祭りの飾りや秋の恵みが広場の中央に積み上げられている。メルフィーナを見つけた子供たちが駆け寄ってこようとしたけれど、隣にいるアレクシスに気づくとぎくりと足を止めてしまっていた。
「……特に威圧をしている意図はない」
「何も言っていませんよ」
ややむっつりとした声に僅かに苦笑を漏らす。多少とっつきやすくなったとはいえ、アレクシスの纏う威圧感は見慣れない子供には中々気後れするものなのだろう。
「私はお祭りの開始の挨拶をしてくるので、みんなと楽しんでいてください。マリー」
「セルレイネ様、ウィリアム、これはメルフィーナ様からのお小遣いです。これで足りるだけ、出ているお店の料理や飲み物を買ってみてください」
子供ふたりにそれぞれ用意していた小さな革の財布を手渡す。
銅貨五枚と半銅貨十枚、鉄貨五枚が入れてある。前世で言うなら一万円から少しはみ出す程度の額だけれど、こちらの食品は前世よりかなり安価で、加工品の類は非常に高額になりやすい。
子供なら鉄貨だけでおなかいっぱい飲み食いできるはずなので、残りは記念品やお土産が欲しくなったときのためのものだ。
「……オーギュスト」
名前を呼ばれた側近は、それを見越していたようにぬかりなく革の財布をアレクシスに差し出した。不思議に思ったのが伝わったのだろう、オーギュストは軽やかに笑う。
「閣下はお財布を持つ習慣がなく。というか、基本的にその必要もありませんしね」
「ああ、考えてみればそれはそうよね。アレクシスの分も用意しておくべきだったわ」
公爵位にあるアレクシスが街で買い物をする機会など滅多にあるわけもないし、購買は倉庫単位、圃場の面積単位になり、その支払いも家令が行うのが通常だろう。
「いや、次からは自前の現金を用意する。子供たちにねだられたものも買えない大人では、面目が立たないからな」
「今日一日不自由しない程度の額は入っていますけど、ちゃんと相場は確認するようにしてくださいね。一応後ろで見ていますけど、よっぽどでない限り俺は口を出しませんから」
「……分かっている」
アレクシスとオーギュストのやり取りを、その場にいる大人たちは何だか微笑ましい気持ちで眺めてしまう。子供たちはといえば、渡された財布の中身を覗いて硬貨を取り出しては瞳を輝かせていた。
「セレーネとウィリアム様も、アレクシスや騎士たちとはぐれないように気を付けてくださいね。エンカー地方はそれなりに治安は良いですが、お祭りでお酒が入っている人も多いですから」
「はい、姉様! 僕、ウィリアム様から離れません」
「私も、セレーネ様の傍にいます!」
短い移動の間にすっかり意気投合したらしく、少年たちはいい子の返事をする。
子供は順応が早い。むしろ、この場で一番心配なのは、アレクシスかもしれない。
「開始の挨拶が終わったら私たちも合流するので、楽しんでいてください」
「姉様、また後で!」
「面白いものがあったら、お二人の分も買っておきます!」
少年たちに手を振って、マリーとテオドールを伴って広場の中心に向かう。
浮かれた空気はお祭りの雰囲気をより際立たせて、道行く人々はみな笑顔で、少し足早だ。途中、フリッツと合流して、まずは領主邸の振る舞いのブースに立ち寄ろうとしたけれど、配布が始まる前だというのに、すでにかなりの列になってしまっていた。
「今年は去年の三倍のスペースを取ったのだけれど、それでも随分列になってしまっているのね」
「みな、メルフィーナ様のスープとエールを口にしなければ祭りが始まったという気がしないと言っていました」
「折角のお祭りなのに、並んでいて時間が過ぎてしまうのはもったいないわね」
今年は使用人の人数が増えたことと、何より醸造所が稼働したこともありスープもエールも量はたっぷりと用意されているので、そうそう無くなることはないだろうけれど、これだけ混雑しているのを目の当たりにすると、来年はさらに改善したほうがいいだろうと思う。
「すぐに開始の挨拶をしてしまいましょう」
「ではこちらへ」
用意された壇上に登ると、去年とはまた違った風景が、目の前に広がっていた。
去年の今頃は、エンカー村の広場はようやく形が整ったばかりで、屋台も商機を見越した村の若者が作ったものが二軒、三軒とあるだけだったけれど、今は広場に面した路面店は次々と開業していき、多くの食品や加工品の屋台が立ち並んでいる。
けれど、去年と変わらないものも確かにあった。メルフィーナに向けられた住人たちの、明るく、希望に満ちた表情。誰もが夏の労働に区切りをつけるこの日を喜びをもって迎えている。
「皆さん、今日はエンカー地方の二度目の収穫祭です。みんなのおかげで今年もエンカー地方は無事夏の実りの季節を終え、こうして今日のお祭りを迎えることが出来ました。去年に引き続きエンカー地方を盛り上げてくれた人達も、去年は隣にいなかった仲間と共に、この日を楽しんでください」
人々はさりげなく隣を見て、それからはにかむように笑う。中には若いカップルもいて、きっとよい縁に恵まれたのだろうと思う。
「皆さんと、この日を笑って迎えられたことに喜びと、感謝を込めて! これよりエンカー地方の収穫祭を開始いたします!」
歓声が上がり、弾けるような拍手と同時にメルフィーナが壇上に上がったことで止まっていた音楽が再び流れ出した。並んだ屋台や領主邸の振る舞いも始まって、人の波がうねるように動き始める。
「メルフィーナ様、お疲れ様です」
「あら、トーリ。こんにちは。お祭りに来たの?」
「はい、昨日まで髪を整えたいというご婦人たちの希望が多くずっと働きどおしでしたので、流石に今日一日はお休みをいただきました」
隊商についている理容師として、随分働いたらしい。トーリの腕の良さはメルフィーナも良く知っている。きっと新しい髪形を気に入った女性が華やかな気持ちで村を歩いていることだろう。
「商会の滞在中に、良ければまた私も施術してもらえるかしら」
「勿論です。お祭りの後はお疲れでしょうから、疲労軽減のマッサージなども承れますよ」
それはとても魅力的な提案である。
「音楽は、商会の人たちが鳴らしてくれているのよね? とても明るい雰囲気になって嬉しいわ」
「ロマーナの商人は長い移動が多いので、無聊を慰めるために夜は楽器をかき鳴らし、歌を歌って過ごすことが多いのです。商人は楽器が出来て歌が上手いほうが、異性にモテると言われていますし」
楽器を奏でるのは教養があることにもつながるし、歌が上手いのは、長く無事に商人をしている証しになるのだという。
立場が変われば色々な魅力があるものだ。
「よければロマーナの市も見ていかれませんか? お祭りのために取っておいた商品も色々と並んでいますし」
「後で寄らせてもらうわ。子供達から目を離しているのが、どうも心配で」
「では、後ほど」
トーリと笑顔で別れて、きょろりと周囲を見回す。比較的長身のアレクシスやオーギュストが一緒なのですぐに見つかると思ったけれど、思ったよりも人が多く、中々見つけられなかった。
代わりに、さらに頭一つ分ほど大きい青髪の錬金術師を見つける。少し離れているのでユリウスはメルフィーナに気づいた様子はないけれど、この分だと後で合流できるだろう。
「待ち合わせの場所を決めておけばよかったわね」
「領主邸の振る舞いのブースにいれば、一回りすれば戻ってくると思います」
マリーの言葉に納得したことと、あの混雑で大丈夫か心配だったこともあり、まずはそちらに向かうことにした。
「去年と比べて、随分規模が大きくなってしまったわね。この分だと、来年はもっとすごくなっているのではないかしら」
「輸出入が始まったことで、商人たちにはエンカー地方の豊かさが広まっているでしょうし、きっとそうなると思います」
「振る舞いの規模や、治安維持についても改めて考え直す必要が出て来るでしょうね」
今は大きな犯罪などが起きたという話も聞かず、エンカー村は順調に大きくなっているけれど、今のペースで膨らんでいけば、いずれはそうした問題も起きてくるだろう。
領主として考えなければならないことは決して少なくない。
「メルフィーナ様、それを考えるのは明日以降にしましょう」
隣に並んで歩くマリーが、笑いながら言う。
「今日は夏の仕事を終えたお祭りですから。メルフィーナ様はとても頑張っていましたし、今は楽しむことだけ考えていても、罰は当たらないと思います」
「ふふ、そうね」
微笑みあって笑いながら、冷たくなった秋の風に、ふと感傷的な気持ちになる。
エンカー地方と共に、自分も少しずつ変わっていくのだろう。
去年隣にいなかった人たちが、今年は傍にいる。
そして、去年は共にいた人が、今は隣にいない。
寂しさと喜びが混じり合った複雑な気持ちは、やがて人々の笑顔と喧騒、明るい音楽の中に紛れていった。