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172.エール販売所とロマーナの市

 秋の空が高く澄んでいるのは、前世もこの世界も変わらない。青く晴れ渡った空を眺めながらエンカー村の広場まで馬車で移動すると、いつも以上に活気づいている様子だった。


「今日はひときわ人が多く感じるわね」


 馬車から降り、ざわめきと賑わいに驚く。

 トウモロコシの収穫を終えてエンカー地方に出入りする人足の数は減ったとはいえ、いまだあちこちで用水路の工事や建築の作業は継続されていて、労働者の数は多い。彼らの食事や宿を提供する店も安定して増えた結果、様々な分業も確立していった。


 エンカー村の広場で行われている市場は、その最たるものだ。

 去年はどの家庭も自給自足が当たり前だったけれど、分業が進んだ結果、野菜や肉、卵などを家族単位で作るのではなく市場で購入することで、余った時間を専門の労働に回す人も増えてきた。職人や人足だけでなく、エンカー地方に根を張って暮らしている人々の暮らしにも変化が出てきたことになる。


「メルフィーナ様!」

「こんにちはフリッツ。今日は随分賑わっているようだけれど、何かあったのかしら?」

「はい! ロマーナという国から隊商が訪れて、珍しい品物を扱っているということで、活気づいています。私も先ほど思い切って布を買ったのですが、これが暖かそうで」


 そう言って、手に抱えていた布を見せてくれたので、そっと触れてみる。同時に「鑑定」を発動させると、木綿の布と出る。フリッツの言うように触り心地は中々よく、目もしっかりと詰まっていた。


 布は、この世界では非常に高価なものだ。フリッツの手にしている布は貴族が使うにはやや粗いが、平民がおいそれと手を出しにくい品質というところだった。


「私も冬に服を仕立てたいと思っているから、見てみるわね」

「ええ、是非。村でも裁縫をする者が増えているので、私も久しぶりに新しいシャツを仕立てようと思います」


 新しい布を購入したのが嬉しいのだろう、普段から愛想のいい人ではあるけれど、今日は特別、ほくほくとした表情だった。

 フリッツと別れ、今日の目的地である広場に面した建物に向かう。


 先日、エンカー村に移住した大工の親方、リカルドに改めて壁やドアをくり抜き型に作ってもらい、一枚ガラスをはめ込んでもらった店だ。まだ大型の一枚ガラスを製作するのは難しいけれど、道行く人々が中を覗き込むのは問題ない造りになっている。店の前にはエールの樽が積まれていて、道行く人が立ち止まって購入していた。


「メルフィーナ様! ようこそいらっしゃいました」

「こんにちは、中に寄らせてもらうわね」


 エールを売っている男性に声を掛けて店の中に入る。中もエールの樽が几帳面に保管されていて、カウンターがあり、その向こうからメルフィーナの来訪に気づいた男性が少し慌てたように出てきた。


「メルフィーナ様、いらっしゃいませ」

「こんにちはドミトリー。調子はどう?」

「毎日かなり盛況です。販売に出したエールは昼過ぎには終わりますし、樽での購入も少なくありません」


 目を輝かせて告げるドミトリーに、メルフィーナも微笑んで頷く。


 彼は表でエールを販売しているマルセルと共に、エンカー地方で最も早く食べ物の屋台を始めた青年の一人だった。商売の機に敏く、また、商売が好きであるのが伝わってくる。


 領主直轄の店を開く折、働いてみないかと声を掛けたところ、二人そろって即決してくれたという経緯があった。


「それはよかったわ。初めての形態のお店だし、何か苦情を言われることはないかしら?」

「小樽を買いに来たおかみさんに、旦那さんがすっかりうちで造るエールを呑まなくなったと愚痴を言われたりする程度ですね。ただ、おかみさんも「領主邸のエール」が好きなので仕方ないと笑っていますが。エール用の余った大麦は粥にして食べているそうです」


 それほど深刻な問題は起きていないようで頷いて聞いていると、ふと、ドミトリーは少し困ったような表情を浮かべる。


「今日にでもご報告に行くつもりだったのですが、ロマーナのお客さんが、大樽をあるだけ欲しいと言われたので、そちらはメルフィーナ様に確認してからということにしてもらいました」

「大樽って、今どれくらいあるのかしら?」

「週に三回24樽を領主邸から運んでもらっていて、今は地下に12樽というところでしょうか」

「それなら、樽での購入は領主邸の醸造所からじかにしてもらったほうがいいわね。樽を返してもらえるかどうかで預かり金の値段も変わって来るし」


 樽は決して安価なものではなく、現在、エンカー村で販売しているエールの樽は預かり金の金額を上乗せして、樽が汚損なく返却されれば差額を支払ういわゆるデポジット方式をとっている。


 返却が前提のシステムなので、樽ごと購入の場合は価格を上乗せする必要があった。


「これからロマーナの屋台に行くから、そちらは私の方でお話しておくわね」


 よろしくお願いします、と告げて頭を下げるドミトリーに仕事に戻るよう告げて、メルフィーナも店を出る。


「店内の掃除も隅々までしてくれていたし、売り上げも順調みたいだし、あの二人に任せてよかったわ」

「メルフィーナ様の造ったエールがいつでも飲めるのですから、順調なのは当たり前ですよ」

「今はもう私が造った、とは言い難いけれどね」


 「領主邸のエール」は酵母の選定を終え、すでに醸造所に一任していて、メルフィーナは領主邸の中の一部の者だけで呑むエールを細々と作っている程度だ。


 この世界でエールは子供でも飲むことのできるありふれた飲み物である。路面店で販売しているエールもその域を超えることがないよう、アルコール度数は低めに抑え、のど越しが柔らかでカビ臭などを発生させない麦の豊かな風味が出るように調整した製法で造っている。


 賑わっている場所に向かって歩いていると、香ばしい食べ物の匂いが漂ってくる。屋台の数も随分増えて、最近は平焼きパンのサンドイッチのほか、スープや肉を焼いた惣菜類なども少しずつ増えてきたようだ。


 こうして市場を歩いていると、選択肢が増え、市場が複雑に、そして豊かになっていくのを肌で感じることが出来る。

 やがて市の半ばまでくると、見慣れたエンカー村の屋台とは一風変わった雰囲気になっていった。


 屋台に並ぶ品物から農作物が減っていき、加工品が軒を並べるようになっていく。干し肉や干した果物、軒から吊るされたハーブ類に、壺に入れて売られている塩などもある。


「ワインも売っているのね、いい匂いがするわ」


 匂いにつられて視線を向けると、鍋に入ったワインを販売している屋台を見つける。ちょうど列が途切れたところだったので、販売しているカップを購入し、一杯ずつ注いでもらった。


「このカップはロマーナの屋台のどこでも使えるからね! お嬢ちゃんたち、沢山飲んで食べていっておくれ!」


 恰幅のいい女性に愛想よく言われ、マリーとともに笑いながらカップを傾ける。少し温い程度の温度でやや酸味が強いものの、飲みやすいワインだった。


「少し酸っぱいけど、美味しいわね。でもワイン酢とはちょっと違うようだし、何かを混ぜているのかしら」

「ぶどうの風味が豊かですね。おそらくワインに水とヴェルジュを混ぜてあるのだと思います」


 ヴェルジュというのは、完熟する前のぶどうを絞ったジュースのことで、完熟したぶどうジュースとは違って酸っぱく、酸味料のような役割にも使われるものだ。


 なるほど、言われてみると赤ワインとレモンで作るアメリカンレモネードに近い味がする。


「手が込んでいるし、ちょっと贅沢なものなのね」


 カップの代金も入っているとはいえ、平焼きパンのサンドイッチならば三つは買えてしまうほどの値段である。それでも滅多にない外国の市ということもあり、住民の財布の紐も少し緩くなっているようだった。


 メルフィーナもサイモンが栽培している中には見かけない月桂樹やハーブ類をいくつか買い込み、やがて最もにぎわっている大きな屋台の前にたどり着く。


「これはこれは、領主様! ようこそいらっしゃいました」

「こんにちは、確かレイモンドが城館に来た時、一緒にいた方ね?」

「はい、ミケーレと申します。こちらは列が長くなっているので、よろしければ天幕の中へどうぞ。ちょうどボス……レイモンドもおりますので」


 屋台のスペースとして貸している区画のうち、二つ分を天幕として利用しているらしい。ちらりとテオドールを見ると、少し難しそうな表情をしていたけれど、周囲を慎重に見まわした後、小さく頷いた。


「では、お邪魔させてもらうわ」


 ミケーレに先導されて天幕に入ると、中は思ったより物が少なく、織物の絨毯が敷かれた上に組み立て式のソファとテーブルが置かれていて、寛げるスペースになっていた。


 おそらく、市を開きながら大口の客と別途で商談などをするためのものなのだろう。


「領主様、いらっしゃいませ。市は楽しんでいただけましたか?」

「ええ、盛況だし、色々なものがあってとても面白いわ。来る途中で布を買ったフリッツと会ったけれど、ロマーナの色遣いは、フランチェスカとまた違って鮮やかで素敵ね」

「染物の技術も日々進歩していて、今年より来年、来年より再来年と、ますます鮮やかになっていくと思います」


 ソファに座ると、すぐに温かいお茶が出て来る。その給仕をしてくれた女性には見覚えがあった。


「まあ、トーリ。久しぶりね」

「お久しぶりでございます、メルフィーナ様。以前はご利用をありがとうございました」

「こちらこそ、あれから髪もすごく調子がいいの。今回は、レイモンドと一緒に来たのね」

「はい、ですが今回は理容師の仕事は控えるようにと言われていまして……」


 ちらり、とトーリが恨みがましくレイモンドに視線を向ける。


「私に何かあったら、大獅子商会を率いることが出来るのはお前だけだ。商売の流れを覚えてもらわないと困るだろう」

「私が兄さんの跡を継ぐなんて、無理に決まっているわよ。大体、女が商会を継いだってろくなことにはならないわ」

「女でもお前には才能がある。度胸もあるし、物怖じもしない。嫌がらずにちゃんと覚えなさい」

「そういうの、身内の欲目というのよ」


 以前会った時は無口で大人しい印象だったトーリだけれど、レイモンドの前では妹らしい振る舞いをするらしい。


「そういえば、オイルやブラシを売ってくれた時のトーリに、商売が上手いと思ったわね」

「ええ、会話がお上手で、つい欲しい気持ちになってしまいました」


 施術の腕もさることながら、実演とともに丁寧な口調と流れるような商品の紹介は、実に購買欲をそそるものだった。


 それみろと言わんばかりに、満足そうに妹を見たレイモンドに、今度はトーリが渋い表情をする番だった。


「二人は本当に仲がいいのね」


 二人とも、個々で会っているときは有能な商人のように思えたけれど、その会話は微笑ましいものだ。


「私もお兄様が欲しくなってしまうかも」


 アレクシスを兄と呼ぶようになったマリーが、からかわれたと思ったのか、少し拗ねたような顔をするけれど、すぐにふっと笑われてしまう。


「妹だけでは足りませんか? お姉様」

「……そうね。十分足りているかもしれないわ」


 トーリの淹れてくれたお茶は、こちらにも香辛料が入っているらしくスパイシーで、肌寒い中を移動してきた体に、しみじみと温まる味だった。


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