168.大魔法使いの婚約者
ユリウスの正式な立場は、メルフィーナに雇われてエンカー地方に滞在している錬金術師である。
少なくとも契約上はそうなっているし、雇われた錬金術師として十分な……むしろ過分なほど、メルフィーナの発案を形にしたり、様々なものを開発したりして、エンカー地方に貢献してくれている。
メルフィーナの前世の知識があるとはいえ、しくみが複雑な物や大掛かりな機構を必要とする物に関しては、それを専門とする分野の人間が必要になる。
本来技術の開発など、ひとつの技術を数年から十数年、試行錯誤を繰り返してようやく形にしていくものだ。多少型破りなところはあるにせよ、メルフィーナの知識と大工や鍛冶師といった技術者の潤滑剤の役割を、ユリウスは十分以上に果たしてくれていた。
雇い主として雇用した錬金術師のプライベートにまで踏み込むべきではない。メルフィーナだって人に隠しておきたい過去や私的な感情はあるのだから。
けれど、いつの間にかユリウスのことは、手の焼ける友人のように思うようになっていた。
困った人だと思うこともあるし、もう少し人の機微に敏感になって欲しいとも思う。
けれど、憎めない、楽しそうに笑っているのを見ればこちらも嬉しい気持ちになってしまう。そんな人だ。
そんな彼が、なぜ婚約者に対して冷淡な振る舞いをするのだろう。
「そんな顔をする必要はないですよ、レディ」
珍しく困ったような様子で言って、ユリウスはうん、と伸びをする。
「長く屈んでいたので背中が疲れてしまいました。レナと遊んでいる時は気にならないのですが、楽しい時間が過ぎると、ああ、僕とレナとでは、見ている目線が違うのだなあと思います。レナは、僕の方が空に近いから自分も早く大きくなりたいと言うのですけれどね。ふふ、どれだけ大きくなっても、人の腕では空に浮かぶ月を捕まえることなんてできないのに」
「ユリウス様……」
「手紙の差し出し主は、王都にいる僕の婚約者です。中身も大体想像はつきますよ。ふらふらしてないでとっとと王都に戻って自分と結婚して子供を作れと書かれているはずです」
到底淑女が婚約者に向けて書く内容ではない。よほど懐疑的な顔をしてしまっていたのだろう、ユリウスは改めて手紙を取り出し、封を切るとそのままメルフィーナに差し出した。
「いけません、婚約者から宛てられた私的な手紙を読むなんて」
「レディは本当に上品な方ですよね。エンカー地方にいると、自分がこれまで見てきた女性のほうがおかしかったのだろうかと不思議な心地になります」
ユリウスはそう言って封蝋を剥がすと、中を一瞥し、すぐに折りたたんで再びポケットに仕舞った。
「レディ、僕の魔力量は、おそらく現時点でこの大陸で一番強いんです。そんな僕に婚約者としてあてがわれた女性がどういう立場か、レディなら分かるのではないですか?」
「それは……」
「僕の子供を産むなんて、そんな真似は消極的な自殺と変わりません」
強い魔力を持つ女性は魔力に耐性がある。というより、男性も女性も、耐性がなければ大人になるまで生きることができない。
そして、魔力の強い者同士では子供を成すことが難しい。
ユリウスの婚約者として選ばれたのならば、キャロラインは魔力が少ないのだろう。
けれど、魔力に耐性の無い女性が強い魔力を持つ子を身ごもれば、耐性の無い母体は出産まで耐えられないと、かつてマリーが教えてくれた言葉だ。
アレクシスの母、メリージェーンも、繰り返し子供を産もうとして、最後は心が壊れてしまったと聞く。
「婚約者様は、それをご存じなのですか」
「知っていますよ。僕の口から説明しました。僕を身ごもった母親がどうなったのかも合わせて。それでも構わないそうです」
「………」
そう、ユリウスがここにいるということは、彼を産んだ母親だって当たり前にいたはずだ。
大陸一の魔力量を持つユリウスを産んだ彼の母親がどうなったのか。
彼の口ぶりから察するに、きっと、無事ではなかったのだろう。
「僕の婚約者殿は、可哀想な女性ですよ。れっきとした貴族の娘だというのに僕なんかにあてがわれて、それだけなら同情もしたでしょう。僕と結婚して子を産んで無事生き残れば、僕の個人資産とサヴィーニ家の家督は彼女と彼女の産んだ子供のものです。そんな、ほとんど可能性のない希望に命まで懸けている」
ユリウスの口調はいつもと変わらずなめらかだった。けれど、その中に明らかに、冷笑の色が含まれている。
その様子は、シニカルに微笑みながらヒロインを思わせぶりに翻弄していた、ゲームの中のユリウスのスチルに重なる。
「僕はきっと、彼女が嫌いなんです。彼女が目の前にいると、息が詰まります。閉塞して、行き止まりしか待っていない道を歩いているのを見せられて、それどころかそんな生き方に加担することを求められることにうんざりします」
「ユリウス様……」
エンカー地方に来てからこちら、初めてユリウスが口にする鬱屈した言葉だった。なんと声を掛ければいいかと迷っていると、彼はすぐに、ぱっと表情を明るくする。
「レディにご迷惑をかけるつもりはありません! 大丈夫、手紙にはきちんと返事を書きますよ」
「……踏み込んだことを聞いてしまって、すみませんでした」
「僕が勝手に話したことですよ。レディは何も悪くありません。それにどうせ――」
子供たちのじゃれあうような声が建物の表から響いてきて、ユリウスは言いかけた言葉を呑み込んだ。
「もーっお兄ちゃん! 私の紙、使ったでしょ!」
「ちょっと借りただけだろ! 書き取りの紙が足りなくなったんだよ!」
「ちゃんと最初に分けたんだから、勝手に使わないで!」
「次に商人が来たらその分返すよ!」
どうやら、レナの手持ちの紙をロドが使ってしまったらしい。兄弟で取り合いをされているらしい植物紙の人気に、苦笑が漏れる。
書き取り用の紙は領主邸で格安支給されているので行商を待つ必要はないのだけれど、ロドは懸命に勉強に取り組んでいると聞いている。
きっと、取りに来るのが待ちきれなかったのだろう。
小さな子供たちの足音と響いてくる声に、ユリウスは眩しいものを見るように、目を細める。
先ほどまでキャロラインのことを口にしていた時とはまるで違う、柔らかい表情だった。
「どうせ、もう、そう長い時間でもありませんから」
それなのに、口から出た言葉は、どこか自分自身を突き放すようなもので。
それはどういう意味だと聞こうとして、メルフィーナは口をつぐむ。
セドリックは、遠からず象牙の塔からユリウスを連れ戻す動きが出るだろうと言っていた。
そしてそれを、妨害するとも。
けれどメルフィーナは知っている。どれほど遅くとも、セドリックがそうであったように、来年の夏までにユリウスもこの地を去るはずだ。
きっとそれは、メルフィーナにもユリウスにも、どうしようもない形で訪れるのだろう。
「もーメル様! お兄ちゃんが紙使い切っててありませんでした!」
「レナ……植物紙なら少し手持ちがあるから、これを使って」
「いいの? ありがとうございます!」
「魔石風車には、できれば他の魔石道具と同じように、スイッチでオンオフを切り替えられるようにしたいですね。天候によって低速と高速の機能も付けたいですし、そうなると全体の強度の問題も出て来るので、そのあたりはしっかり計算して――」
「動きの多い所は金属で補強したほうがいいよね。いっそ全部金属にできたらいいんだけど、それだと重さが出ちゃうからなあ」
「それは、よほど小さな機械でもない限りは難しいだろうね。あと、石臼や杵を動かす速度が一定になるよう調節したいし」
レナがさらさらと歯車の形を描いていき、ユリウスはその横から文字で補足を入れていく。二人の息はぴったりのようで、新しいおもちゃに夢中になっている子供のようだ。
ユリウスからは、もう一瞬前の空気は、すっかり払拭されている。
幸せそうに、少年のように笑うユリウスのポケットに入った「現実」など、忘れてしまっているかのようだった。




