165.水運ギルドと三種の料理
応接室には、三人の男が腰を下ろしていた。
そう広い業界でもないので、全員が親しくはなくとも顔見知りである。
貴族と見まごうほど上質な布をたっぷりと使った仕立ての服に身を包んだ身なりのいい男は、港都エルバンに大商会を持つ会頭、ライナー。
小男で厳つい表情で、いかにも頑固そうにむっつりとしている男はソアラソンヌ河川水運ギルドのギルド長で、ラクレー運河に水利権を持つハインツ。
頭にターバンを巻き、たっぷりとした髭をたくわえた、ロマーナの商人であり、エルバンに大型の外航船をいくつも所有しているレナートである。
それぞれが水運に関して一角の知識と経験、人脈を持つ立場だ。
今回はエンカー地方の水運ギルドの創設について会談を持ちたいという話だが、自分を含めて全員、あまり乗り気ではないだろうというのがレナートの想像だった。
物流に於いて最も経済的なのは宝飾品であり、その次が美術品、そして鉱物やその土地でしか採取できない素材から加工された実用品であり、田舎の穀倉地帯で穫れた食料品は、さして利益の高い商品とはいえない。
それでもこれだけの顔ぶれが集まったのは、今は平時ではないということが大きい。
去年の夏から始まったジャガイモの枯死病によって食料品の価格は高騰の一途をたどっている。今は夏の盛りだからまだ多少の余裕はあるけれど、現在に至ってもまともに芋は育っておらず、今年の冬は去年より更に暗澹たることになりかねないと、社会全体が暗い雰囲気に包まれていた。
こうなると全体の景気も低迷し、宝飾品や美術品といった贅沢品の買い渋りが起きる。商品を右から左に付加価値を付けて流すのが商人の血であるならば、今は全身の血が滞り腐りかけている状態だ。
どんな仕事でも欲しいというのは正直な気持ちではあるけれど、それが土地の領主と契約を結び、水運ギルドを立ち上げるとなると話は別である。
一旦公共事業に手を出せば、景気が回復したから手を引くというわけにはいかなくなる。
貴族というのは面子を大変に重視するもので、平民が貴族の面子を潰すなどという行いは、貴族社会全体が許さないものだ。
下手に貴族の事業に深入りして、いつの間にか商会を下っ端の臣下のように扱われてはたまらない。
貴族と深く関わりすぎず、商会やギルドとして付かず離れずの距離を保つのが、商人として成功するコツと言えるだろう。
今回の召集で言えば、力が足りずに水運ギルドの立ち上げには参加できないが、飢饉が落ち着くまで商品の取引はさせてもらうと言うのが順当なところだ。
――どこぞの商会の馬鹿が、エンカー地方の領主と揉めたという話も聞く。妙に足元を見られても困りますからねぇ。
街道から城郭までの道すがら、この地方が非常に景気がいいことは伝わってきた。道行く人々の顔色は良く、表情も余裕がある。麦の収穫はすでに終わっていて、一面は緑の作物で埋め尽くされていた。
食料は、今最も求められるものだ。平時の何倍も高値で売れる。
うまく立ち回らねばという意気込みで領主邸の応接室に通された三人だったが、中に入ってまず全員が、窓に見入ることになった。
向こう側が透けて見えていたので、最初は鎧戸が開け放たれているのだろうとしか思っていなかったけれど、ライナーがうん? と訝し気な声を上げたことで、そうではないことに気づく。
窓にはガラスがはめ込まれていた。しかし、それはよく見る丸く吹いたガラスを鉛でつないだものではなく、のっぺりとした大きな一枚のガラスだった。
――あんなものは、見たことが無い。
近くでしっかりと観察し、出来れば触れてみたかったけれど、貴族の屋敷を値踏みするような真似が出来るはずもなく、ソファに腰を下ろすことになった。
そうして待つこと十分ほどして、紺色のワンピースに身を包んだ若い女性が現れる。
エンカー地方の領主はオルドランド家の新妻であると聞いていたのでこれがメルフィーナ・フォン・オルドランドかと腰を浮かしかけたものの、それは手のひらで制された。
「領主筆頭秘書のマリーと申します。領主様のお出ましまでもうしばらくかかりそうなので、軽食をつまんでいてほしいとのことです」
権威付けのため、貴族に招かれて待たされるのは、よくあることだ。待つことも商人の仕事のうちだとレナートは心得ているし、ライナーも内心はどうか知らないがにこやかな表情を浮かべている。
ソアラソンヌの水運ギルド長、ハインツだけが、相変わらずむっつりとした表情を隠さない。
秘書と名乗る娘が退室すると、すぐにまだ少年と呼べるような男性が入室してきて、その後ろからメイド二人がワゴンを押して入ってきた。
最初のワゴンには料理の皿が、後ろのワゴンにはエールの小樽とジョッキがそれぞれ載せられている。
「領主様の料理長のエドと申します。地味な田舎料理ですが、軽食をご用意したのでお楽しみいただければ幸いです」
メイドの一人が三人分のエールを注いで、それぞれの前に置く。エドと名乗った少年がワゴンに載った大皿のひとつを、テーブルの真ん中に置いた。
「とてもエールに合うものなので、是非ご賞味くださいと領主様の言付けです。あ、そのまま手でつまんでお試しください」
明るい口調で言われ、皿に載ったものを三人がまじまじと見つめる。
見た目は、楕円形の薄い何かだ。それがこんもりと盛られている。
初めて見る形の食べ物だ。一体どんな味がするのか想像もつかない。
口にする前にこれはどんな食べ物かと料理人に聞くのは、マナーが悪い行いである。さすがに毒は出すまいと手を伸ばしかけたところ、一足先にハインツが手を伸ばし、口に入れた。
バリバリと音が立ったことに驚いていると、口にした当のハインツも驚愕したようだ。慌ててエールを口に入れて、更にカッ! と目を見開いた。
「ハインツ殿、いかがですか?」
「ふん……」
気難しい顔の男は鼻を鳴らすと、もう一掴み……先ほどより量を多く掴み、口に入れる。バリバリと音を立てて咀嚼し、さらにエールを流し込んだ。
「……あんた、すまんがエールのお代わりを」
「はい!」
放っておくと一人で一皿食べきってしまいそうな勢いに、ライナーとレナートが手を伸ばす。
触った感じは、硬く、薄いので力を入れたら簡単に砕けてしまいそうだ。口元に近づけて匂いを嗅ぐと、香ばしさと、油の匂いがした。
裕福な商人としてそれなりの美食を楽しんできたレナートだが、まるで未知のものである。えい! と口に放り込んで咀嚼すると、なるほどバリバリと口の中で容易く砕けた。
軽い食感と塩気が口の中で砕けていくのが面白いが、口の中の水分を持っていかれてしまう。ハインツに倣ってエールを傾けて、目を見開いた様子は、先ほどハインツがしたのとそっくりの表情だっただろう。
まず真っ先に来たのは、鮮烈な苦みだった。だが決して不愉快な味ではなく、驚愕のすぐ後に、爽やかな果実のような後味がやってくる。
雑味や不快な酸味、カビの臭いは一切しない。透き通った清水のようですらある。
「このエールはなんだね!?」
「先日領主様の醸造所が完成したので、出来上がったばかりのエールなんですよ! 美味しいですよね!」
「領主様の、醸造所……? このエールが買えるということか?」
「エンカー地方では普通に飲まれているので、勿論ご購入できますよ」
笑顔を絶やさず質問に答える少年と会話をしているうちに、気づけば皿の上はライナーとハインツによって空になっていた。抜け目ない二人はレナートと少年の会話をきっちり聞きながら、見慣れぬ料理と鮮烈なエールを楽しんでいたらしい。
舌打ちのひとつもしたい気分だったけれど、エドという少年は素早く皿を下げ、次に三人の前に並べられたのは小さなスプーンを添えた小鉢だった。
「こちらもエールと合うので、お試しください」
「ほう……」
これも、見たことのない料理だ。夏野菜のキュウリと卵が入っているのは見て取れるけれど、全体が混沌としたペースト状で、上に黒い粉のようなものが掛かっている。
一口掬って食べてみると、黒いものが胡椒であるのはすぐに分かった。強いスパイスの味の後に、ねっとりとした塩と酸味がきいた食感が襲ってくる。
無性にエールが飲みたくなってジョッキに手を伸ばしたものの、中身はすでに空だった。
「すまないが、私にももう一杯もらえるかね」
「はい! 領主様から、よければ色んな種類を飲んでもらってほしいと言われていますので、どんどんどうぞ!」
「待ってくれ……エールに種類があるのか?」
「はい、この樽は一番オーソドックスなもので、領主様が造った他のエールも色々とありますよ。樽が空いたら、次の樽をお持ちしますね」
ごくり、とレナートは喉を鳴らす。
――一体、この領はどうなっているんだ?
この飢饉が覆い尽くす暗い雰囲気がない土地で、見たことのない透明度の高い平面のガラスがはめ込まれた窓、そして一角の商人である自分が初めて口にする料理と、エール。
エールとは平民の飲み物だ。街の職人の女房が台所で作るありふれたもので、名の知れた醸造所や神殿が販売しているエールを除けば、大して美味いものでもない。
色んな種類を飲んで欲しいという言葉を信じるなら、少なくともこのレベルのエールが三種類以上はあることになる。
――このペースト状の食べ物も、何かは分からないが、美味い。
塩気と酸味のバランスが良く、一口食べてはエールが一杯消えてしまう。胡椒は鮮度の落ちた肉の臭いを誤魔化すためのものだと思っていたけれど、こんな使い方があったのか。
この発見だけで、今日エンカー地方に来た甲斐があるというものだ。
三人で小樽を飲み切り、次の樽と共に、エドが三皿目を用意してくると言って退室していった。
「……このエールも、非常に美味ですねぇ」
「まことに」
思わず口にしたレナートに、ライナーが頷く。
「二つの料理も、華美ではないがとても美味でした。あれは何で作られたものか、分かりましたか?」
「一皿目はおそらく油で調理されたものということと、二皿目に卵と塩で揉んだきゅうりが使われていることくらいしか分かりませんでしたな。肉ではないのは明らかなので、この辺りで採れる野菜が原料でしょう。ソアラソンヌに住居を構えているハインツ殿ならお分かりになりませんか?」
「なんだね、あんたらはあれが何か分からなかったのか」
むっつりとした男は、はん、と小馬鹿にするように鼻を鳴らす。
「あんたらも間違いなく食ったことのあるものだ。あんなものを出されては、ワシはこの土地の領主様に逆らう気には到底なれんね。今回のギルド設立には、一番に声を上げさせてもらおう。どうせあんたら二人は乗り気ではないのだろう?」
「ほう……しかしそこまで言われては、私も簡単には引き下がれなくなるわけですが」
「つまりハインツ殿は、あの二つの料理にそれほどの価値があると思われたわけですな。料理もそうですが、このエールだけでも、なんとか流通させたいものですなあ」
有名なエールを造る神殿の近くに別荘を持つのが貴族のステイタスになっているくらい、美味なエールは非常に商品価値が高い。
だがエールというのは全般的に、日持ちしないものだ。そしてエンカー地方はフランチェスカ王国の北の端であり、隣国とは街道のない深い森で阻まれている。
「水路が通ったとして、エルバンまでならなんとかなっても、その先は中々難しいでしょうねぇ」
「惜しいですなあ。ですが、エルバンまでならなんとかなるなら、ハインツ殿に運んでいただければいいわけですね」
「確かに」
ははは、と笑い合ったのは、少し酩酊しているせいかもしれない。ハインツは相変わらずその輪に入らず、ぐびぐびとエールを傾けている。
「あんたら、そうやってすっかりギルド入札から外れたつもりのようだが、次の皿が来たら手のひらを返すと思うぞ」
「どういうことですか?」
「なぜわざわざ三皿に分けて、こんな元の素材が分からない料理法で出したと思う? 簡単な話だ。わしらを試しているのだよ。そこのメイドがこの会話を聞いていることを、忘れんことだな」
そこの、と言われ、ワゴンの傍にメイドが一人残っているのを指される。
富豪や貴族に取って、使用人は空気のような存在だ。ハインツに言われるまでメイドがいることは認識していても、気に留めてはいなかった。
「物の価値を見る目があるか、商売に乗る気概があるか、信用できる人品かどうか、その娘っ子はすべて領主に伝えるだろう。入札なんて方法だから俺たちが選ぶ側だと思っているようだが、商売相手を選ぶ権利は俺達だけではなく、領主側にもあるって忘れないこった」
「………」
ライナーと互いに視線を向け合ったものの、ハインツが言うほど、この領と水運ギルドの立ち上げという大仕事で関わる利が、それほど大きいものとは思えなかった。
ただ、レナートの大船主として商会を切り盛りする商人の勘が、このまま入札を降りることは得策ではないのではないかと告げて来る。
――飢饉はいずれ収まる。貴族にしっかりと紐付けされた仕事を手掛けるには、農作物や日持ちのしないエールの流通は、リスクが高い。
そのはずなのだ。
「お待たせしました。三皿目をどうぞ。こちらは熱いのでフォークをご利用ください。この赤いソースと白のソース、どちらも合うので、お好みで付けて召し上がってくださいね」
自然と黙り込んだ三人の前に、再び大皿が置かれた。
それを前に、ライナーとレナートが絶句する。二人を他所に、ハインツは悠々とフォークでそれを差し、真っ赤なソースに付けてぱくりと口にした。
「ほふっ! 熱い!」
声を上げ、エールをぐいぐいと飲み干し、盛大に息をついた。
「このご時世にジャガイモを贅沢に使った料理が食えるとは思わなかった! どんな高級な料理より、領主のもてなしの心に満ちているではないか!」
「ありがとうございます!」
そのやり取りに、メイドの娘もにっこりと笑っている。
皿の上に盛られたのはこれまでとは違い、その素材がなにか一目で分かる形だった。
それは、皮が付いたままのジャガイモを調理した料理だった。