164.再会の約束と新しい呼び方
契約書の内容を確認し、メルフィーナとアレクシスがそれぞれに署名を入れる。これで今回の技術移転に関する取り決めと報酬が決定した。
「今回も良い取引をありがとうございました」
「こちらこそ、素晴らしい取引だった。惜しみない技術の提供に感謝する」
軽く握手をして、アレクシスの契約書はオーギュストが、メルフィーナの契約書はマリーが、それぞれ軽く巻いて、リボンで結ぶ。
「三日なんてあっという間でしたね。正直もうちょっとエンカー地方でゆっくりしたいです」
「休暇がもらえたら遊びにきたらいいわ」
「いえ、バリバリ働いて公爵家の使いとしてちょくちょく来れるよう頑張ります」
「……そういえば、他の騎士から、オーギュストばかり使いに出されることに不満の声が出ていたな。使いは顔見知りの方が滞りが少ないと思っていたが」
「閣下! 俺以上に信頼の出来る腹心なんてルーファス様くらいでは!?」
「さて、どうだったか」
付き合いが長い分、アレクシスもオーギュストに対して気安い態度になるらしい。くすくすと肩を揺らしながら応接室を出て階下に下りる。
内郭にはソアラソンヌから来た馬車がずらりと並び、帰り支度も終わりかけていた。
エンカー地方とソアラソンヌは決して近い距離ではない。街道の整備は進みつつあり、途中に崖のような難所も無いけれど、馬車ならば三日程度の距離だ。
多忙な人間が気軽に来るのは、中々難しいだろう。
「メルフィーナ様、技術者の一部から、技術移転が落ち着いたらしばらくエンカー地方で学ばせて欲しいという申し出があるのですが」
「それなら、エンカー地方で職人として働きながら学んでもらうというのはどうかしら。作っているうちに新しい技術が考案されるかもしれないし、それをエンカー地方にも共有してもらえれば、お互いにメリットがあると思うのだけれど」
「メルフィーナ様は、本当に無欲な方ですよね。そこは、技術者の受け入れ一人当たりにつき謝礼はどれくらい、という話になると思うのですが」
先ほど署名した契約書の対価の欄に書かれた桁の数は、オーギュストには見えなかったらしい。
今回の技術移転と、今年のトウモロコシの取引でメルフィーナが公爵家から手にする金貨の量を知っていれば、到底無欲などという言葉は出てこないだろう。
「技術開発して、お金を稼いで、そのお金を使って経済を回していくのがさらなる技術の発展のコツよ。それにエンカー地方は、一年前は職人に仕事に来てもらうのも断られていたのに、学びたいと言ってもらえて嬉しいわ」
人の行き来が活発になり物流が増えれば、それだけ輸送のコストは下がり、エンカー地方も今より安価に物資を手に入れることも可能になるだろう。
人間の交流と流入があるというのは、決して軽んずることのできない効果があるものだ。
「君は本当に、立派な領主だな」
「公爵様にそう言ってもらえるなんて、光栄ですね」
会話をしているうちに、そろそろ荷も積み終わったらしい。後はアレクシスとウィリアムが馬車に乗れば、一団は動き出すだろう。
「あの、メルフィーナ伯母様。今回は急な来訪で、申し訳ありませんでした。あの、また、私がここに来てもいいでしょうか」
それまで緊張した面持ちでアレクシスの傍に控えていたウィリアムが、ぎゅっと拳を握りながら告げる。
アレクシスやマリーと同じように色白の肌をしているので、頬が真っ赤に染まっているのが目立っていた。
「勿論です、ウィリアム様。今回はあまりお話しできませんでしたが、今年は秋の収穫祭も少し規模を大きくしようかと計画中なので、よければその頃、またいらしてください」
「! はい!」
「よければ公爵様とオーギュストも。本格的な冬の前ですし、ご都合がよければ」
ウィリアムがばっ、とアレクシスを仰ぎ見るのに、アレクシスは相変わらず感情の読めない表情のまま、ウィリアムの頭を優しい手つきで撫でる。
「そうだな、冬の仕事の前に、英気を養わせてもらおう」
その言葉にウィリアムは嬉しそうに表情を明るくして、それからストレートに感情を表に出したことを恥ずかしがるように、笑みの形になった唇をモゴモゴとさせていた。
マリーから、三人の関係が少し変化したという話は夕べのうちに聞いていたけれど、どうやらいい方向に向かいつつあるようだ。
「オーギュスト、ウィリアムを先に馬車へ」
「はい。では参りましょう、ウィリアム様」
促すと、ウィリアムは少し不思議そうな様子ではあったけれど、素直にオーギュストについて馬車に乗った。ドアを閉めたものの、オーギュストは馬車の傍にとどまり、戻って来る様子はない。
「メルフィーナ」
「はい?」
「改めて、君に感謝と、謝罪をしたい」
「技術移転の対価はきちんと頂きましたよ?」
首をかしげると、アレクシスはほんの僅か、苦そうに笑ってみせた。
「そうではない。……私は、随分鈍感で、気の回らない男だった。ただ北部を守り、自分の周りに人を寄せ付けまいと、そればかりを考えて身近な家族に忍耐を強いていたし、嫁いできた君に対しても、無礼なことをした。取り返しがつくことではないが、すまなかったと思っている」
その話は、冬の終わりに解決したものだ。合理主義者であるアレクシスが、今更それを蒸し返したことに少し驚いた。
「あのことはもう怒っていないし、気にしていませんわ」
「君の寛大さに、改めて礼を言う。その上で、一つ、願わせてもらえないだろうか」
アレクシスは静かな声で言った。ふわり、と風が吹いて、下ろしたままのメルフィーナの金の髪が煽られる。
「私を、名前で呼んでほしい」
その言葉は全く予想しなかったもので、すぐには声が出なかった。
「無理にとは言わない。君に個人的に頼みができる立場でもないからな」
「急にどうして、と伺ってもよろしいですか?」
アレクシスがメルフィーナを取引相手としてある程度認めてくれていることは分かっているつもりだったし、和解後はそれなりに親しくしてきた。
友人とまでは言えずとも、よい仕事相手くらいの距離感だったはずだ。
「ウィリアムが、マリーを叔母と呼べるのは自分だけだと言ったんだ。今は限られた場所だけではあるが、ウィリアムはマリーを叔母と呼べるようになったし、マリーも私を……兄と呼んでくれた」
「お、お兄様」
咎めるように声をあげたマリーと目が合うと、気恥ずかしそうにそっと視線を外されてしまう。
「父も母も亡い今、私を名前だけで呼ぶことが出来るのは、この世で君だけだ。そう思ったら、私も自分だけの呼び名で呼ばれてみたくなった」
妻が夫に従うのが美徳とされていても、夫婦の立場はこの世界でも対等とされている。
婚約者の時は敬称を付けていても、結婚証明書にサインをいれれば呼び捨てにしあう夫婦は多い。
けれどまさか、私的なことに踏み込まれることをあれほど忌避していたアレクシスがそんなことを言うとは思わなかった。
――アレクシスも、変わったのかしら。
堅物でやや神経質な騎士だったセドリックが、騎士の座を退こうと決めたように。
病弱で儚げなセレーネが、笑いながらフェリーチェと走ることが出来ているように。
退廃的で色気たっぷりな言動でヒロインを惑わす魔法使いだったユリウスが、平民の服に身を包んで毎日笑いながら農具を開発し、小さな少女と冒険の日々を過ごしているように。
アレクシスにだって、変化があっても、きっとおかしくないのだろう。
――そしてそれは、私も。
攻略対象が次々と現れるのを最初は疎ましく思っていたし、アレクシスのことは嫌な男だと腹を立てていた。
けれど、今は違う。キャラクターではない彼らに触れて、重い物も苦い気持ちも抱いている一面に接して、どうか幸せになって欲しいと願うようになった。
――私も、変わってもいいのだわ。
「急なことで、気恥ずかしいですね。……エンカー地方でなら、そう呼ばせてもらうわ、アレクシス」
「……ありがとう、メルフィーナ」
騎士の礼を執り、アレクシスは馬車に乗り込んでいった。
「マリー、また秋に」
「はい、お兄様」
「マリー叔母様! また!」
「ウィリアム。次に会えるのを楽しみにしているわ」
短い家族の会話を交わし合い、オーギュストが改めて馬車の窓を閉める。
いつも気さくで笑顔を絶やさない騎士だけれど、今はじんわりと、優し気に口元をほころばせていた。
「俺はもう少し早くまたお会いできると思います! それでは、また」
「道中気を付けて」
馬に乗り、大きく手を振ってオーギュストが先導し始めると、馬車はゆっくりと動き出し、やがてすべての馬車が城郭を後にした。
「……たった三日だったのに、なんだか、濃密だったわね」
「はい、メルフィーナ様。ありがとうございます」
「お礼を言われることなんて、私は何もしてないわ。それより、公爵様……アレクシスをお兄様と呼ぶなら、マリーは私をお姉様って呼ぶのもいいのではないかしら」
「魅力的な提案ですが、私はメルフィーナ様を名前で呼びたいです。ああ、でも」
マリーはうっすらと笑い、いたずらっ子のように目を細める。
「メルフィーナお姉様、と呼ぶのは、いいかもしれませんね」
「……駄目、呼ばれるたびに照れくさくて、仕事の手が止まってしまうわ」
自分で言い出しておいて、実際にマリーほどの綺麗な少女に「お姉様」と呼ばれると、破壊力が強すぎる。
「残念です」
「……時々にしましょう。それがいいわ」
「では、それで」
マリーが笑い、それにつられてメルフィーナも肩から力が抜けて、くすくすと笑った。
「オーギュストは私には敵わないって言うのだけれど、私はマリーに敵う気がしないから、きっとマリーが最強ね」
「それは良いことを聞きました」
囁くように言葉を交わし合いながら、領主邸に入り、執務室に戻る。
片付けなければならない仕事は相変わらず山積みだけれど、その足取りは見えない鎖から解放されたように軽いものだった。