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162.特権とオルドランド家の雪解け

 もったりと重たくなった鍋の中身を覗き込み、年若い料理長は「頃合いですね」と満面の笑みを浮かべる。


「いい感じに色がついたら、この型に入れます。冷えるとすぐに固くなるので、ここからは大急ぎです!」


 用意された浅い金属製の型に鍋の中身をアレクシスが流し込み、内側にへばりついたものをウィリアムが木べらでこそぎ落とす。型の中でとろとろと広がった茶色の液体を、エドが型を揺らしながら均一の厚さにし、ふう、と満足げに息をついた。


「このまま少し置いたら固くなってくるので、包丁で一口サイズに切ったら完成です」

「凍らせるのではなく、冷やせばいいのか?」

「はい、冬なら室温でも固まるそうですが、今の季節だと冷蔵庫にしばらく入れればいいようです」


 それならと、アレクシスは型の上に手のひらをかざす。時間としてはほんの数秒というところだ。意識を向けた対象から熱の反応が薄まったところで、手を退ける。


「――これで冷えたはずだ」


 エドは驚いた様子だったけれど、型に触れてしっかりと冷えていることを確認し、しみじみとため息をついた。


「魔法ってすごいですね。こんなに簡単に冷たくなるなんて」

「本当にすごいです。私はまだ、きちんと魔法が使えないので」


 踏み台がなければ作業台にようやく頭が飛び出す程度の身長しかないウィリアムが、青み掛かった灰色の瞳をきらきらとさせながら見上げてくる。


 アレクシスにとっては使いどころがなく、特に価値を感じていない魔法だったけれど、少年たちには随分輝かしいものに見えるらしい。


「お前も魔力量は十分にある。体が大きくなったら自然と使えるようになるだろう」


 そうして、嬉しそうに笑うウィリアムに、この短時間で随分明るい表情を見せるようになったものだと驚く。


 メルフィーナが共に過ごす時間が必要だと言った意味も、しみじみと理解できた。

 これまで、こんな時間すら取ってやれなかったのが、苦く感じるほどだ。


「こうしてフォークで端をめくると、全体が簡単に剥がれるので、包丁で一口サイズに切っていきます。あ、ウィリアム様、この端っこのところ、食べてみてください」

「いいのか? これは夫人の、おやつ? なのだろう?」

「端っこを食べるのは、料理した者の特権なんです。形は綺麗ではないんですけど、不思議と端っこって、すごく美味しいんですよ」


 公爵様もどうぞと言われ、自然とウィリアムと視線を交わしたあと、端の部分を指でつまむ。

 最初はさらさらとしていた真っ白な液体がどろりと茶色に変わり、今は磨いた石のようにつるりとして、固くなっていた。


 口に入れると見た目ほどの固さはなく、噛めばぬったりと歯が沈み込んでいき、猛烈な甘さが口の中に広がった。


「甘い! ミルクとは全然違う味になるんだな!」

「……なるほど、目が覚めるような甘さだ」


 ウィリアムの言うように、元がミルクであるとは信じられない、僅かにほろ苦く、深みのある甘さだった。

 口に含みながら深く息を吸うと、バターの風味が鼻に残り、それがじんわりと後を引く。


「しかし、鍋に結構残ってしまったな」

「砂糖を沢山使っていますし、これだけ美味しいと、惜しい気がしますね」


 ウィリアムがかなり頑張ってこそいでいたけれど、粘性の高い液体はどうしても落としきれず、銅製の鍋にかなりこびりついてしまっている。


 公爵とその後継ぎとして、食べ残しを惜しいと思う教育は受けていないけれど、手ずから作ったことと、あの甘さを味わった後では、そんな気持ちも湧いてくるというものだ。


「大丈夫です。むしろここからが、料理人の特権ですよ」


 エドはそう言うと、鍋にミルクを足して火を付ける。ミルクを温めながら丁寧に木べらで混ぜると、ミルクにうっすらと茶色みがかかってきた。

 そうして十分に温まったミルクをカップに注ぎ、差し出される。


「キャラメルミルクです。寒い夜に飲むのも最高だし、夏は冷やしても美味しいとメルフィーナ様が言っていました」

「ほう……」


 勧められるまま一口、口を付けると先ほどの脳天まで突き抜けるような強烈な甘さではなく、優しい甘さと温かさが口の中に広がった。


 温かいミルクの湯気で、香りが立ち、ほっと気が抜けるような優しい味だ。鍋にこびりついた残滓がこんな風になるとは、新鮮な驚きだった。


「……なるほど、これは確かに「特権」だな」

「はい! メルフィーナ様とテオドールさんにもお出ししてきますね。お鍋の残りは、お二人で楽しんでください」

「ああ、待て。これは冷たくても美味いのだと、夫人は言っていたんだな?」

「はい、特に夏は美味しいと」


 それならと、盆に乗せた二杯分のミルクに手をかざす。

 凍らない程度に、けれどしっかりと冷えるように。


「――これでいいだろう。持っていくといい」

「はい! ありがとうございます!」


 エドは明るく笑って厨房を出て行った。


「この特権を味わうには、自分の手で作るしかないようだ」


 カップに少し残ったミルクを大事そうに飲んでいるウィリアムに、静かな声で告げながら、まるで自分らしくないと思う。

 公爵位を継いでから、なぜああも父が常に不機嫌そうな様子だったのか理解できると思っていた。


 けれど、目の前の小さな甥が成長した後、同じようにただ厳格で僅かな甘さも見せない自分の姿だけを覚えていてほしいとは、思えない。


「頻繁には難しいが、またこうして作ってみようか、ウィリアム」

「……ほ、本当ですか、伯父様」

「ああ。私たちが厨房を使うことにルーファスと家政婦長はあまりいい顔をしないだろうが、こんな「特権」を知ってしまうと、知らなかった頃には戻れないからな」

「はい!」


 明るく言った甥の頭を自然と撫でる。

 ウィリアムはぽかんとした表情のあと、くしゃりと顔を歪めて、唐突に青灰色の瞳から大粒の涙をあふれさせた。


「ご、ごめんなさい、すぐに止めます! 申し訳ありません、伯父様」

「……いい、ここにいるのは、私達だけだ」


 感情を表に出さず、常に冷静に物事を判断する。

 貴族ならば、大人になればどうしてもそう振る舞わなくてはならなくなる。


「お前はまだ子供だ。泣いたり笑ったりすることを、耐えなくていい」

「……はい、伯父様」


 泣き顔と笑顔が混じったくしゃくしゃな顔をするウィリアムに、普段はほとんど動かない胸に、温かいものが満ちていくのを感じていた。




    * * *


 しばらくウィリアムの涙が止まるのを待っていると、足音と話し声が近づいてくる。開けっ放しになっていたドアから、ひょいと顔を出したのは、飽きるほどに見慣れた側近だった。


「ものすごく甘い匂いがすると思ったら、珍しい場所と組み合わせですね。お二人だけですか?」

「ああ、料理長はメルフィーナのところに行っている」

「あの子の作ったものは何でも美味しいですけど、今日はまた、随分ガツンとくる匂いがしますね」


 抜け目のない側近は、作業台の上にある茶色の「おやつ」に視線を向ける。


「作ったのは、私とウィリアムだ。これは夫人の「おやつ」というものらしい」

「閣下とウィリアム様がですか? ……それはまた、メルフィーナ様も、大胆というか、いえ、メルフィーナ様らしいというべきですかね」

「そちらはメルフィーナ伯母様のものだけど、鍋の中の飲み物なら好きにしていいと言われたぞ。ああ、でも、そんなにたくさんは残っていないかもしれない」

「あ、俺は視察の報告をメルフィーナ様に上げてきますので、マリー様の分だけ分けて差し上げてください」

「いえ、私もご報告に」

「大きな問題もありませんでしたし、報告は一人いれば十分です。マリー様はいつでもメルフィーナ様とご一緒ですから、追加の報告はその時にして頂ければいいでしょう。では、行ってきます」

「オーギュスト卿」


 強引にマリーを置いて行ってしまったオーギュストに、咎めるような声を上げたものの、無理に後を追うことはしなかった。


「マリー、ちょうど残り三人分で終わりそうだ。片付けを手伝ってくれ」

「……分かりました。私がお入れします」

「いい、座っていろ。今日は珍しい体験が出来たから、最後までやるのも悪くない」


 マリーは困惑した様子ではあるものの、空いた席のひとつに腰を下ろす。

 鍋から三つのカップにミルクを注ぎ、傍に立っていたウィリアムにひとつを渡すと、丁寧な所作でマリーの前に置いた。そうしてマリーの反応を待つように、その場でじっとしているウィリアムに僅かに苦笑して、カップに口を付ける。


「……美味しいですね。甘くて、ほろ苦くて」


 マリーがふわりと微笑むと、ウィリアムはぱっと表情を明るくした。


「公爵様とウィリアム様の作られたものを口にする日が来るとは、思いませんでした。不思議なものですね」

「私も、マリーお……マリー様と、一緒に食事が出来るのは、嬉しいです」


 言い直したウィリアムに、マリーは切なさと、僅かに諦めの混じった笑みを向ける。


「……ウィリアム様。オルドランド家で私を叔母と呼ばれるのは困りますが、エンカー地方にいる間は、そう呼んでいただいても構いません」

「えっ」

「今朝、メルフィーナ様に許可も頂きました。元々、領主邸の中は身分が緩やかなところはありますし、私の好きにして構わないと」

「でも、あの、いいのですか?」

「元々、そう呼ばれるのが嫌だったわけではないのです」


 マリーは言葉を探すように、ゆっくりと話す。ウィリアムは唇をぎゅっと引き締めて、マリーの次の言葉を待っていた。


「……まだ幼いあなた様に告げることではないと思っていましたが、私と、公爵様がどのような関係であるかは、御存じですね?」

「ご兄妹です。その、お母様が違う」

「はい。そして、お父様と私のお母様は、正式な婚姻関係にはありませんでした」


 その言葉に、静かにアレクシスは驚いた。

 マリーが父である前公爵、アウグストを父と呼ぶのを聞くのは、これが初めてだった。


「でもそれは、そんなのは、私のお父様とお母様だって……!」


 声を上げかけたウィリアムの、ぎゅっと握られた手に、マリーがそっと手を重ねる。

 その途端びくりと体を跳ねさせたウィリアムに、マリーは切なげに眉を落として、微笑んだ。


「人に、触れられるのが怖いですよね。まるで触れたものを汚してしまうように、思えてしまって」

「……あ、あの」

「私も、ウィリアム様くらいの年頃はそうでした」


 その言葉に息を呑む。

 いつも凛として振る舞っているマリーに、そんな片鱗を感じたことは無かった。


 ――いや、二人とも知られないように振る舞って、そして私が、気づけなかっただけだ。


「公爵家にいると、色々な話が自然と耳に入ってきます。主家の者を表立って悪く言うことはありませんが、どなたがご立派で、どなたがお可哀想でという話を聞くたびに、ではその原因は誰なのかと、自然と考えてしまう日もありました」

「マリー叔母様……」

「あなた様が人前で私を慕っている素振りを見せれば、きっとあなた様が心を痛める流言が起きるだろうと思っていました。表立ったことが出来ない私の身分で出来ることはあなた様と距離を取ることだけだと、あなた様の立場が少しでも揺るがぬようにと思ってきましたが……気持ちは、言葉にしなければ伝わらないのだと、私も最近まで気が付かなかったのです」


 震えるウィリアムの手をしっかりと握り、マリーはアレクシスに視線を向ける。


「お父様も、公爵様も、私を気遣ってくださっていることは、伝わってきていました。それを受け入れれば、またつまらない言葉で傷つけられるのだろうと思ってきました」


 ふう、とささやかにため息を吐き、マリーはやや疲れたような様子を見せた。


「メルフィーナ様とエンカー地方に来ることが出来て、その隣で良い方向に人々を導いていくのを見て、これまでこだわっていたものが、本当は、私にとって全然大切なものではなかったのだとやっと気づくことが出来ました。領主邸の中だけでも、ウィリアム様のことを甥として大切にしたいと思います」


 マリーは一度言葉を切り、ウィリアムの手をしっかりと握ったまま目線を上げて、まっすぐにアレクシスを見た。


「……難しいかもしれませんが、たまに、こうして身内だけの時は、お呼びしてもよろしいでしょうか――お、お兄様と」

「……いつでもそう呼べばいい。誰にも文句は言わせない」

「それはさすがに無理です。慣れていないので、私もとても緊張しますし、恥ずかしいのです」


 安堵したように笑ったマリーの頬も耳も真っ赤に染まっていた。

 それを見て、自分の頬も熱くなっていることに気が付いて、ぐっと奥歯を噛みしめる。


 感極まったようにマリーに抱き着いたウィリアムを、マリーは慈愛を込めて抱きしめた。


「マリー叔母様、私、ごめんなさい、ずっと、マリー叔母様に、嫌われているのかもしれないと思っても、私は、好きになってほしくて」

「私の方こそ、伝えることが出来ずに申し訳……ごめんなさいね、ウィリアム」


 妹と呼んではいけないと思っていた妹が、甥を抱きしめて、切なそうにそう告げている姿に、胸がひどく痛む。


 自分がもっと上手く立ち回ることが出来ていれば、二人ともこんなに長く、自分の中に感情を押し込めずに済んだのではないだろうか。


 自分の感情を押し殺し続けて、ただ冷静に、北部を動かす歯車たらんと思ううちに、他人の感情までないがしろにしていたことを痛感する。


 個人的な幸福など自分には必要ないと、ずっと思っていた。


 それを求めた先には、悲劇しか待っていないのだと。


 けれど、愛情を自分とは無関係の場所に捨ててしまうことはなかったのかもしれない。


 小さな甥と、妹と、まだ少年の料理長。


 そして誰よりも、書類上の妻に、それを教えられた日だった。


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― 新着の感想 ―
歳をとると涙もろくなっていけねーや
[良い点] 愛情がほのか映るかのような景色。目じりに染みるエピソードでした。
[良い点] こんなの最高じゃないか。 涙を堪えられない。
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