156.先触れと騎士のお願い
その日、夕方近くになって領主邸に到着したオーギュストを、メルフィーナは驚きながら出迎えることになった。
夏の盛りを迎え、エンカー地方の日照時間が長くなっているとはいえ、あと半刻もすれば完全に太陽が落ちてしまうような時間だ。馬を走らせるのもギリギリだっただろう。
ひとまず応接室に通したものの、本来なら夕食が始まる時間である。
「こんな時間に到着なんて、予定は明日だったわよね?」
麦の刈り入れが始まり、新たな道具が完成したので公爵家とも共有を、という手紙を出したのは半月ほど前のことだった。
日程の返事に記されていたのは明日の朝で、今日はエンカー地方の近くの町に逗留し、明日の早朝に出発して領主邸に到着するのだとばかり思っていた。
これまで情報共有のためにオーギュストが単独でエンカー地方を訪れることは多かったけれど、驚いたことに、今回はアレクシスも同行するのだという。
公爵領も何かと忙しい時期のはずだ。また文官たちが自宅に帰れないと泣いているかもしれない。
「先触れとして、先に参りました。というより、実はメルフィーナ様にお願いがありまして」
オーギュストの「お願い」は今回に始まったことではないので、いつも飄々としている彼もやや気まずそうな様子だ。それに苦笑して、いいわよ、と請け負う。
オーギュストは非常にバランスのいい感覚の持ち主なので、その結果がこじれたことはあっても、「お願い」自体はそう無理なものでもない。
「とりあえず内容を聞くわ」
「その、明日の視察に、ウィリアム様……閣下の甥御様を伴う許可をいただければと」
だがその「お願い」は、唐突かつ予想もつかないものだった。
「ウィリアム様ですか……」
「以前からウィリアム様はメルフィーナ様にお会いしたいと何度も閣下に頼んでいたのですが、閣下はお許しになりませんでした。今回の視察も随分同行を食い下がっていて、閣下に強めに言い含められていまして……。一度は諦めたかと思ったのですが、本日、小姓に紛れて隊列に同道していたことが発覚いたしました」
小姓というのは、騎士の見習いの中でも一番下の身分のことだ。十歳前後で生家から他家の騎士団に預けられ、騎士たちの身の回りの世話を行いながら礼儀作法を学ぶ。
「春の終わりに新たに小姓が入って、まだお互いに名前や顔を把握しきっていないところに紛れ込まれました。小さな子供はあまり注目されないとはいえ、こちらの手落ちです」
大の大人になればそれなりの警戒はするだろうけれど、子供、特に背が伸び切っていない年頃の少年少女に関しては、大人もあまり気を払わないのはよくあることだ。ウィリアムも荷に紛れ込むのではなく子供の間に入り込んだということは、それが分かっていたのだろう。
「すごい行動力ですね。公爵家は騒ぎになっていないの?」
「ウィリアム様が部屋を抜け出すのは毎度のことなのですが、流石に丸二日姿を見かけないのは異常だと、大騒ぎになっています。早馬が公爵様の元に届いたことでもしやと小姓の天幕を改めたところ、発覚した次第で」
ソアラソンヌからエンカー地方まで、荷馬車を引いて三日程度かかる。それで手前の町で、今日発覚し、オーギュストがエンカー地方に使いに来たということだろう。
「閣下は騎士をつけて町に置いていくか、ソアラソンヌに戻すと言っていましたが、メルフィーナ様の意向も確認したほうがいいと、先行して来た次第です」
オーギュストには珍しく、ほとほと困ったという様子だ。
アレクシスがオルドランド家の後継に甥のウィリアムを指名していることは、結婚式の直後に聞いていたし、それきりほとんど話題に上がることも無かった。
これまでウィリアムがメルフィーナとの面会を希望していたというのも、初耳だ。
「なぜウィリアム様は、そんなに私に会いたいのかしら」
メルフィーナにその気はないとは言え、アレクシスの妻であるメルフィーナと、彼の弟の遺児であり現オルドランド家の後継者に指名されているウィリアムは、潜在的に政敵の関係にある。
メルフィーナがアレクシスの子供を産むことがあれば彼の立場は足元から揺らぐことになるし、現在ウィリアムの周囲にいる彼の後援者たちも、決してメルフィーナの存在を良いものとは思わないはずだ。
いざ離婚となったとき下手に既成事実と思われることが無いよう、これまでオーギュストに冬の間は公爵家に戻るよう言われても、公爵夫人としての予算を受け取るように言われても断り、メルフィーナも出来る限り公爵家とは距離を置いてきた。
実際、出奔してから一度も公爵家に戻ったことはなく、アレクシスと会うのは常にあちらがエンカー地方に足を運んだときだけだ。
「おそらく、気になるのでしょうね、敬愛する閣下が妻に迎えられた方のことが」
「それだけで、小姓に交じってついてくるようなことをしたの?」
「行動力の化身なのです。そういうところは、クリストフ様によく似たのですね」
メルフィーナは頬に手を当てて、少し首を傾げる。
これまで揉め事にならないよう、公爵夫人としての義務も権利も放棄してきたのだ。いきなりオルドランド家の後継者に会うという状況に、困惑もしているし、面倒なことになったとも感じる。
「メルフィーナ様、勿論、断って頂いても構いません。これは俺の「お願い」ですし、答えを頂けば明日の日の出とともに馬を走らせて隊列に合流し、ウィリアム様をソアラソンヌに戻しますので」
オーギュストはそう言うけれど、それならわざわざ彼がお願いに来るまでもなく、気づいた時点で領都に送り返せばいい。
他に何かあるのだろうかと考えていると、それまでソファの隣に座り黙っていたマリーが、軽く手を上げて言う。
「メルフィーナ様、よろしいでしょうか」
「なあに、マリー」
「今回送り返した場合、ウィリアム様は、おそらくソアラソンヌとエンカー地方を行き来している人足の馬車に紛れ込んだり、隊商の中に紛れ込んだりして、いずれやってくると思います」
警備が厳重についているだろう公爵家の隊列ならともかく、隊商や人足の馬車は安全とは言い切れない。生粋の公爵家の後継ぎが、そんなことをするだろうかとぽかんとする。
「勿論それは、公爵様もオーギュスト卿もご存じでしょう。ですので、今回ソアラソンヌに送り返された後、ウィリアム様はどこか遠く……おそらく王都に留学という形で送られることになると思います」
「……まだ八歳の子供よね? いくらなんでも、そこまでは」
言いかけて、オーギュストを見ると、彼らしくもない苦虫でも噛み潰したような表情を浮かべていた。
領主の子弟が幼いうちから王都のタウンハウスに預けられるのは、さして珍しいことではない。王都には多くの貴族が集中して暮らしているので将来的に顔をつないでおくとか、教育や社交の機会が多いと言うのが名目だ。
だがそれは、長男……跡取り以外という注釈が付く。
この世界は貴族家の、とりわけ当主が非常に強い権限を持っていて、長子相続が徹底されている。そのため、後継者の立場を巡って骨肉の争いが起きやすい下地がある。
そのため、継承権の低い者を成人になる年……結婚や出家まで王都に隔離しておくのはそれなりに普通のやり方だ。
実際メルフィーナがそうであるし、マリーの弟もまだ幼いが、王都に置かれていると聞いている。
北部の後継者という立場で王都に置かれるというのは、決して良い待遇とは言い難い。
「実際、そうするしかあの方を止められないでしょうね。やると言ったことは本当にやる方なので」
「北部の男性はクールな人が多いと聞くけど、随分、その、情熱的な方なんですね」
「オルドランド家の男子らしく、優秀で強い方ではありますが、まあ、周囲は結構、手に余ることも多いですね」
主家の後継者に向かって中々の言い様だけれど、おそらくアレクシス自身が手を焼くことも多いのだろう。
大の大人の男性である騎士たちの敬愛と畏れを一身に受けているアレクシスに、強めに言い含められてなお行動に移すというのは、彼らが口にする通り、相当な行動力の持ち主なはずだ。
「……念のために確認するけれど、その、私に対しての悪意のようなものは、ないのかしら?」
「それは無いと思います。メルフィーナ様に対してもそうですが、おそらくマリー様にも会いたいという気持ちがあるのではないかと」
「……困ったお方ですね」
マリーはほう、とため息を吐くと、重たそうに口を開く。
「一体誰から聞いたのか、ウィリアム様は、幼いながらに私の「立場」を慮って下さっているのです。何度言っても私を叔母と呼ぶので、メルフィーナ様がいらっしゃる前の二年ほどは、勤める屋敷を本邸から別邸に変えていたくらいで」
子供らしい、融通の利かなさと言ってしまえばそれまでなのだろう。
だが、マリーに悪心がないと聞いて、メルフィーナの気持ちも決まった。
「いいわ、お会いするから、連れて来て」
断るのは簡単だが、まだ幼い子供がそれで生まれた土地から遠い場所にやられるのは、流石に後味が悪い。
ウィリアムの後援者である北部の貴族の恨みも買うだろう。
「ただし、オーギュストがしっかり監督するのが条件です。私は面識がないので、ウィリアム様をどう評価していいかは分かりませんが、私やマリー、領主邸の使用人たちを傷つけることがないようにしてください」
「メルフィーナ様、御温情に感謝いたします」
オーギュストはソファから立ち上がり、正式な騎士の礼を執った。
「もし俺に何か出来ることがあるなら、なんなりと申し付けてください。必ずお力になるとお約束します」
「今は思いつかないから、貸しにしておくわ」
「いつでも取り立ててください。美しい方にこき使われるのは俺の喜びなので」
おどけて言うと、オーギュストもようやくいつもの、人を食ったような笑みを浮かべる。
「あいつにスネを蹴られないのを寂しく感じる日が来るとは、我ながら思いもしませんでした」
「そうね。本当にそうだわ」
笑って、少ししんみりする。
そうしたことで、突然のウィリアムとの邂逅への緊張感も少し和らいでくれた。