153.理容師とマッサージ
夕食を済ませ、サウナで体を温めて自室に入ったところで、理容師を部屋に呼ぶ。
「奥様、本日施術をさせていただきますトーリと申します。精一杯務めさせていただきます」
しっかりと礼をしたのは、褐色の肌に黒い髪の理容師だった。二十代の前半くらいだろう、理容師を名乗るだけあって整えた髪はつやつやとしていて肌の手入れも行き届いており、大きな瞳は美しいブルーの、エキゾチックな雰囲気の女性だ。
「よろしくねトーリ。私はメルフィーナ、こちらは秘書のマリーよ」
「よろしくお願いいたします。本日は御髪のカットと、美髪の施術、それから首と肩のマッサージをさせていただきます」
そう告げて、床に麻の布を敷き、椅子をその上に置く。椅子に座ると身につけたシュミーズの上からつややかな絹で出来た、前世で言うケープをするりと羽織らされた。
「長さは、どのくらいにいたしましょうか」
「一年半近く切っていないから、十五センチくらい短くしてもらえる? サイドは編みこんでしまうから、胸のあたりで揃えてちょうだい」
成人した貴婦人や既婚女性は公式の場では髪をアップにするものだし、かつらもそれなりに普及しているので、貴族で長く美しい髪を垂らしているのは未婚の若い女性くらいのものだ。
メルフィーナは成人してすぐに輿入れが決まり、王都でデビュタントを行っていない。かつ、結婚自体が実質無効な状態というのを言い訳に、軽く編み込みを入れる程度で髪を垂らしていることが多かった。
一方マリーは、日中はほとんど髪をアップにしているので、美しい淡い金髪を下ろしている姿はメルフィーナでも中々新鮮に感じるものだ。
まず髪を後ろに流し、丁寧にブラシを入れられる。長く伸ばしているとどうしてもほつれや絡まりが出やすいものだけれど、トーリの手つきは丁寧で、優しく髪を梳いてくれた。
「こちらは、豚の鬣から作ったブラシです。髪がまとまりやすく、丁寧に梳くほどに艶が出ます」
伸びた髪をすっかり梳かされ、はさみが入る。よく研がれているらしく、シャキ、シャキと音が鳴るたびに髪が床に敷いた布の上に落ちる音がする。
「トーリは、綺麗な黒髪をしているのね。フランチェスカでは黒髪は珍しいのだけれど、ロマーナには多いのかしら?」
エンカー地方や領主邸で過ごしていると忘れがちだが、使用人や平民が貴族に向かって話しかけることは滅多にない。口をつぐんだまま施術に集中しているトーリに尋ねると、ほんの一瞬、迷うような間があった。
「ここには女性しかいないし、たまにはお喋りを楽しみたいの。無礼だなんて言わないから、気軽に話をしてちょうだい」
「はい……私の髪は、染色しています」
「そうなのね。ロマーナの髪染めは随分進んでいるのね。全然分からなかったわ」
「特別な植物を使った染め方をしていますので、少し珍しいかもしれません」
これだけ綺麗に黒く染まっているということは、おそらくヘナや木藍などを組み合わせた染料なのだろう。
この時代にも染髪を楽しめる手法があるのが、何となく楽しい。
木藍……インディゴといえば、前世ではジーンズが定番だったけれど、あの色に染めたドレスや小物などは、今世でも人気が出るかもしれない。
「元の髪は、どんな色だったの?」
「くすんだ金色です。ロマーナでは、金髪はとても珍しい、高貴な色だとされています。平民の女が金の髪を持っていると、あまり良くない縁が出来ることが多いので、兄の勧めもあってこの色にしています」
「そうなのね……」
ロマーナは共和制の国であるけれど、メルフィーナが生まれる少し前まで周辺の国と同じく王を冠した国だった。圧政を敷く王家と元老院の対立は元老院側が勝利し、王は退位を強いられ、以後は共和制としての道を進んでいる。
神殿と教会によって戦争が忌避されているこの世界で、実質、最新の戦争はその政変だろう。
王族から幾度も降嫁があったクロフォード家からメルフィーナが生まれたように、金の髪とは、王家の色だ。周辺国の王家が政略結婚を繰り返した結果、多くの王族がこの髪の色を持つようになった。
貴族や豪商に金の髪を持つ者がいれば、それは遠く王族の血を引いているように思われる。
権威や威厳というのは、案外曖昧なものだ。すでに失われた王家だというのに、遠くその血を引いていることに郷愁や尊さを覚える者もいれば、自らの一族にその色をと思うものもまた、いるのだろう。
「トーリはすごいわね。自分の腕で稼いでいるし、旅までしているのだもの」
貴族や富豪に囲われるのを拒むのは、この世界では珍しい選択のはずだ。
むしろ親や兄弟といった後見人が、その髪をアピールしてより高い地位の男性にあてがうということも、よくある事だろう。
「兄には、私は我が強すぎるとよく叱られます」
言葉とは裏腹に、トーリの声が柔らかくなる。
「この世界のどこかに、私だけの人がいて、その誰かを見つけたいなんて、夢物語だと」
「素敵な夢じゃない。トーリも素敵な人だし、きっと見つかるわよ」
「奥様は、お優しいですね」
カットが済むとケープを外し、腕で髪を襟足から持ち上げ空気を含ませるように何度か梳かれる。それからトーリは小瓶を取り出した。
「こちらは、カメリアの油です。髪に艶を出し、美しく整えるためのものです」
椿の油は、前世でも髪のケアによく使われていたものだ。オリーブオイルよりさらに酸化しにくい、長持ちする油でもある。
毛先からオイルを塗られ、ブラシではなくコームで丁寧に梳る。
「こちらもカメリアの木から作った櫛で、これで髪を梳くと、やはり艶が出てまとまりの良い髪になります。ロマーナでは貴婦人が代々、母から娘へ、娘から孫娘へと特注のカメリアの櫛を贈るのが習わしです」
「素敵な習慣ね」
すっかり髪を梳かれると、魔石のランプの下でも明るい金の髪がさらに輝きを増したのが分かる。
頭皮のマッサージはしみじみと気持ちよく、途中で何度か船を漕ぎかけたほどだ。
「頭皮を柔らかく保つことは、美しい髪の元になりますので、是非機会がありましたら定期的に施術を受けてください。それでは、首から肩のマッサージをさせていただきます」
トーリの少し低い、落ち着いた声がリラックスした体にじんわりと響く。
「マッサージにはこちらのクリームを使います。ロマーナのオリーブで作ったもので、摩擦を避けて肌を傷つけず、また、美肌の効果を高めるものです」
手のひらにクリームを取り、首から肩にかけて丁寧に塗り込まれる。それから、首から肩を撫でるようにたどられて、ゆっくりとさすられた。
「ところどころ、血の巡りが良くないようですので、温めながらゆっくりほぐさせていただきます」
「ええ……」
ただ肩をさすられているだけなのに、心地が良い。皮膚の下にある血管が刺激されて、じわじわと温かくなっていくのが分かる。
毎日サウナに入っているし、体を冷やすことは滅多にないはずなのに、トーリの手は温かく、クリームが馴染んだ肌が温まる感じに自然と力が抜けた。
肩を手で包み込むようにして、親指でぐっ、ぐっと指圧が始まる。力は強いものではないのに、優しく筋肉をほぐされるのが気持ちいい。
「ん、あ……っ」
「痛みはありませんか?」
「いえ、気持ちいいわ……」
「肩が少し固くなっているので、ほぐしてまいりますね」
肩がぽかぽかとしてうっすらと汗ばんでくる。首を撫でられ、うなじを円を描くようにほぐされると思わずうっとりとしたため息が漏れた。
かかっている力は決して強いものではないのに、心地よく、眠りを誘われる。
終わりました、と声を掛けられたときには、半ばうとうととしていたほどだった。
「奥様は、少しお疲れが溜まっているようです。今夜は暖かくして、よくお休みください」
「ええ、ありがとう、トーリ」
血がよく巡って頬が赤くなっているのが自分でも分かる。
「マリー、私の髪、どうかしら」
「とても美しいです。その、いつもお綺麗ですが、よりさらさらとして、輝いています」
どうやらマリーの審美眼的にもよい仕上がりのようだ。
「豚の鬣のブラシと、カメリアのオイルと櫛と、こちらのクリームは、販売しているの?」
「はい、もちろんでございます」
「私とマリーの分を一式、購入させていただくわ」
「ありがとうございます」
輝くような笑顔を見せたトーリにメルフィーナも微笑んで、椅子から立ち上がる。
「次はマリーね。マリーも私に付き合って仕事をしているから、疲れが溜まっていると思うわ。よくほぐしてあげてちょうだい」
「かしこまりました」
丁寧にマッサージをしてもらったおかげで、肩が随分軽くなった。髪を切ったおかげで、軽やかな気分だ。
――たまには、こういうのもいいわね。
指を髪に通すと、さらさらとこぼれていく感触がする。
侯爵家にいた頃も時々こうして理容師に髪を整えてもらうことはあったけれど、ここまで満足感を得られたのは初めてだ。
――前世でいうなら、カリスマ理容師というところかしら。
マリーの髪をカットする音を聞きながら、そんなことを考えて唇に笑みを浮かべるメルフィーナだった。
書いていて、ヘッドスパに行きたくなりました。