146. 街道と馬と望むこと
「閣下からは、正式な街道の整備はオルドランドで請け負うとのことです。エンカー地方側は、領地に入ってからの用地の制定を整えて欲しいと」
「今ある道は自然発生的に出来たものだものね。領地の正式な境界線については、どうなっているのかしら」
「一番近い村との間もほとんど荒野か森という感じですから、とりあえず近くの村との間に細い川が流れているので、それを区切りにすればいいかと」
打てば響くように答えたオーギュストは、しかし、と付け加えるように言った。
「領地の境なんて必要ですかね。しばらくお互いに関税は掛けないことになったと聞きましたけど」
同じ領地内なら商業ギルドが発行している割符で免除を受けることが出来るけれど、商人や職人が違う領地の村や街に出入りするときは入市税と呼ばれる手持ちの売り物や財産に関税が掛かるのが一般的だ。
長距離を移動する商人が珍しく、かつ運ぶ物が高価な品のみというのも、これが理由である。
宝石や美麗な毛織物、品質のいい蜂蜜や絹織物といったものは、こうした入市税の支払いを重ねることでより希少に、高額になっていく。
隣接する領地に関税が掛からないとなれば、商人が行き来を増やさない理由はない。
現在エンカー地方では生産した作物を運び出すために非常に流通が活発で、どうせなら空の荷馬車でエンカー地方まで来るよりは、何かしら商品や必要な物資を積んで販売し、空いた馬車に食べ物を積んで戻りたいというニーズが非常に高い。
しっかりとした街道の整備は急務であり、流通を円滑に行うため、当面の関税の撤廃は妥当な措置と言えた。
「それは勿論、必要よ。しばらく関税なしで自由貿易を営むとしても、別の領なんだし、開発を進めて行けばいずれどこかの地点で境界がぶつかることになるわ。どこからどこまでが自領か曖昧にしたままでいざその時が来たら、下手をしたら戦争よ」
メルフィーナとアレクシスの代なら話し合いで済む可能性もあるけれど、こういった問題は往々にして子孫に要らない禍根を残す可能性が高い。
エンカー地方を手中に収め、開発すると決めたメルフィーナが領地がどこからどこまでと明確にしておくのは、ほとんど義務というものだ。
「では、ひとまずこの川を領地の境として、細かい取り決めはまた後日、閣下となさっていただくとして」
「用地は、今ある道をそのまま使ってもらえればいいと思うわ。麦畑を一部埋め立てることになるかもしれないけれど、そちらは代替地を用意して徴発に応じてもらうようにするとして」
「途中にある村を経由するように街道を敷いて、できれば宿場町のようなものも欲しいところですね」
「そちらは川沿いに造るのはどうかしら。陸路も重要だけれど、水路での運搬もこの先活発になっていくでしょうし」
オーギュストと話しながら、隣でマリーがメモを取ってくれる。あとはアレクシスの承認が必要なところまで話を詰めたときには、すでに日が傾きかけていた。
「メルフィーナ様、そろそろ」
マリーの言葉に頷き、ふう、と息を吐く。アレクシスの名代として来ているオーギュストとの会議はどれも重要な話で、随分白熱してしまったものだ。
「エドがパイを作ってくれて助かったわね。甘いものは、考える力になるから」
「今日はやけに集中力が高くなっているなと我ながら思っていましたが、砂糖にそんな効果があるんですか?」
「ええ、書類仕事の前にもいいわよ。摂りすぎると肥ってしまうから気を付けた方がいいけれど」
「ああ、それは困りますね……特に騎士階級で肥満だと、まともに鍛錬をしていない者として扱われますから」
「騎士や労働者はほとんど気にしなくていいと思うわ。むしろ私のように、下手をしたら一日中座って仕事をしているような女性が問題なのよ」
たとえ領主の仕事がなくとも、メルフィーナの一日の運動量など本当にたかが知れている。視察をするにしても移動のほとんどは馬車であるし、せいぜいたまに休みを取ったら愛犬のフェリーチェとフリスビーで遊ぶ程度だ。
「ああ、そういえば今回リゲルを連れてきたので、折角ですし、乗馬をしてみるのはいかがですか? 馬も乗らないと人を乗せる勘が鈍るものですし」
「連れて来てくれたのね。公爵様には、よくお礼を伝えてくれる?」
リゲルというのは、セドリックの愛馬だった馬だ。オルドランドの騎士の地位を返上するとともに、公爵家に戻されたのを買い取れないかと手紙を送ったのを受けて、今回オーギュストが連れて来てくれたらしい。
「リゲルはもう七歳で、新人の騎士に与えるには少し年がいっているので、エンカー地方で飼われるならその方がいいだろうとのことです」
頷いて、ほっとする。
現在領主邸には荷馬車を牽くロバと馬がいるけれど、リゲルにはいずれ一人前になったロイドが乗ってくれればいいと思う。
――本当は、セドリックが戻って来てくれれば、それが一番だけれど。
馬は二十年ほどは生きるはずだが、現役の期間はもっとずっと短いだろう。
リゲルが第一線で活躍できる間に、その日が来るのか……そもそも、そんな日が来るのかすら分からない。
それでも、待っていると約束した以上、ひとつくらい、セドリックの物を領主邸に残しておきたかった。
「あいつも、騎士として本望だと思いますよ。主にそれだけ大事にされてたんですから」
「主にはなり損ねてしまったけれどね」
オーギュストは苦笑して、小さく息を吐いた。
誓いを立てずとも、セドリックはすでにメルフィーナの騎士だ。
そう言いたげな様子だった。
* * *
夕食を終えて、ラッドとクリフには先に使用人宿舎に戻ってもらい、厨房にはメルフィーナとマリー、オーギュストと、テオドールが残っていた。
いつにないメンバーなので、エドも緊張している様子を隠せていない。
「ごめんなさいね、帰る前に呼び止めてしまって」
「いえ、大丈夫です」
ゴホ、と小さく咳き込み、喉を押さえるエドを思わし気に見詰め、メルフィーナは慎重に口を開く。
「あのね、ここ最近、厨房でのエドの負担が大きいでしょう? 来客は来るときはひっきりなしの時もあるし、そのたびにエドにはお茶や軽食や、日によっては晩餐まで用意してもらっているし」
「僕は、それほど大変ではないです。掃除や雑用は、今はアンナと他の子たちが受け持ってくれていますし、ラッドやクリフみたいに、外を回ることもないですし」
「でも、食材の管理や買い付けはエドがしてくれて、前より休む時間は減っているわよね。ずっとその状況を何とかしなきゃと思っていたのだけれど、中々いい方法が思いつかなくて、負担をかけっぱなしで、ごめんなさいね」
エドは困ったように眉を落として、首を横に振った。
「本当に、僕、無理はしていないんですよ。大変ではないわけではないですけど、メルフィーナ様の役に立ててるなら嬉しいです」
「これから、エンカー地方はますます大きくなるし、領主邸に出入りする人も今よりずっと増えていくと思うわ。それでね、エド、領主邸に、料理人を増やそうと思っているのだけれど」
「はい」
「もう一つ厨房を作るから、そちらの司厨長になってもらえないかしら」
「メルフィーナ様?」
驚いたように目を見開いたエドに、メルフィーナは一度唇を引き締めて、ゆっくりと告げる。
「これから領主邸は、エンカー地方の行政が集中する公的な場になっていくわ。これまでのように、皆と家族のように過ごす時間は、どうしても減ってしまうと思うの。それは仕方の無いことなのだけれど、……私は、それがとても寂しいの」
去年の春の初めに来た頃、領主邸は、今よりずっと小さな建物だった。
広間も客間もなく、セドリックは一階の物置きに、ラッド、クリフ、エドは屋根裏の使用人室で暮らしていて、そこにメルフィーナとマリーが加わり、こぢんまりとまとまって、とても近い距離で暮らしていた。
メルフィーナには領主としての責任と仕事がある。いつまでも小さくも幸福な箱庭だったあの頃のままでいられないことも分かっている。
それでも、あの頃の全てが変わってしまうのは、とても寂しい。
「エドには、私の料理人でいて欲しいと思ってる。これからも色々な料理を開発していきたいし、エドにはそれを手伝ってもらいたいわ。……秘匿技術を持った料理人が自分の専門の厨房を持つのは、貴族の料理人には珍しくないの。エドには私と領主邸のみんなの食事の他は、エンカー地方の名物になる料理の開発や改良をお願いさせてほしいと思ってるのだけれど」
日々の食事の管理だけでなく、新しい料理の開発や改良も料理人の立派な仕事のひとつである。
けれどメルフィーナの願いが、エドの将来の選択肢を狭めるものであってはならないとも思う。
「エドが望むなら、公爵家の厨房に修行に出るという道も選べるわ。でも、私がエドを手放したくないの。もし修行に出たいなら、勿論紹介状は書くけれど、出来ればずっと領主邸にいて欲しくて」
「あっ、あのう、メルフィーナ様」
段々言葉が乱れてきたメルフィーナに、エドがはい、と軽く手を挙げる。
「僕、メルフィーナ様に食べてほしいから、料理をしているんです。その、いつの間にか領主邸の料理人みたくなっていますけど、ええと、それも別に嫌ではないんですけど、メルフィーナ様のお手伝いが出来るのが一番大事で」
「エド?」
「僕はラッドみたいに馬の扱いは出来ないし、クリフみたいに色んなことを器用にこなすことも出来ません。掃除だってアンナのほうが上手いし、他の人より上手く出来るのが料理だったから、それでメルフィーナ様の役に立ちたかったんです」
ええと、だから、と焦ったように言葉を継ぐエドに、メルフィーナがひとつ頷くと、それでほんの少し、彼も落ち着いたようだった。
「だから、修行に行く気はないというか……。料理人になるのが嫌とかではないんですけど、メルフィーナ様のお手伝いが出来ないのでは、僕には意味がないというか」
しどろもどろながら、今だって料理人のつもりではなく、ただメルフィーナの役に立ちたいから料理をしているのだと告げるエドに、肩から力が抜ける。
「才能」がないことをあれほど嘆いていたから、知らず知らず、エドは一流の料理人になりたがっているのだとばかり決めつけていたけれど、思えばエドは一度もそんなことを言っていなかった。
いつも笑っていて、メルフィーナが料理の腕を褒めれば嬉しそうに笑って、メルフィーナが困っている時はいつでもさりげなく助けてくれて。
エドが「才能」の無さを嘆いたのも、料理が最もメルフィーナの役に立てるものだと思っていたから、ただそれだけだったのだとしたら。
エドのあまりに強い自分への献身に身が引き締まるような思いがするのとともに、なんだか、久しぶりにちゃんとエドと話をしている気がした。
「そうね。最初から、そうだったものね」
「祝福」の日から、何を言ってもエドを傷つけてしまう気がして、気が付けば腫れ物に触るように接してしまっていた。
何とかしなければと焦る中で、セドリックが去り、仕事に追われているうちに、どんどんどうしていいのか分からなくなってしまって。
エドが料理をするようになったのは、元々メルフィーナの手伝いをしてくれていたからだ。
やり方を教えればそれをどんどん吸収して、そのうち一人でもメルフィーナと同じものを作れるようになって、本格的に領主の仕事に忙殺されるようになったメルフィーナに代わり、領主邸の食事を一手に引き受けてくれるようになった。
元々料理人を志していたわけではなく、自分に出来ることを精いっぱいしてくれた結果が今なのだ。
そういう優しい少年だと知っていたのに、気を回し過ぎて、どう振る舞っていいのか迷ってしまっていた。
「エドに、ずっと助けられてきたわ。だから、これからも助けてほしいの」
「勿論です、僕も、ずっとそうしたいって……ゴホッ! ……すみません、最近ずっと、喉が痛くて」
「やっぱり体調がよくないんじゃないかしら。しばらく休んだ方が……」
「気分は悪くないんですけど、最近あちこち痛かったり、喉が掠れたりしていて」
困った様子のエドに、オーギュストがふと、気づいたように言った。
「あの、もしかして、声変わりじゃないですか?」
「えっ」
「いや、そろそろ成長期ですよね。俺もそれくらいの年頃に一気に背が伸びて体中痛かったですし、ちょうど声変わりもそれくらいだったので」
「ああ、私もそうですね。夏の間に十センチも伸びて、特に夜中は痛くて眠れなくて難儀をしました」
オーギュストの言葉に納得したようにテオドールが頷く。
「……声変わり」
エドと顔を見合わせて、ほっとしたのと同時に、脱力してしまう。
そういえば、エドは去年から随分大きくなった。背もメルフィーナの胸元ほどしかなかったのに、気が付けば、ほとんど目線が変わらなくなっている。
おそらくほどなく、抜かれてしまうだろう。
「私ったら、エドはいつまでも小さな子供みたいな気持ちでいたわ。そう、声変わりするくらい、もう大きいのね」
しみじみと言って、それから、微笑む。
「なんだか、気が抜けちゃった。私ったら、色々考えすぎて、空回りしていたみたい」
安心したら、なんだかどっと力が抜けてしまった。
「明日も、エドの美味しいご飯が食べられるのを、楽しみにしているわ。エドのご飯があると思ったら、仕事もうんと頑張れるの」
「! はい、まかせてください!」
おやつも美味しいものをつくります。そう言って、輝くように笑うエドに、メルフィーナも自然と表情を綻ばせ。
――お休みの日には、出来るだけフェリーチェとたくさん遊ぶことにしよう。
そうして心の片隅で、そんなことを考えるのだった。