145.木苺のパイと料理人の未来
オーギュストを執務室に通して、すぐにエドがお茶とともにおやつを運んできてくれた。
いつもは、この時間は軽食が多いけれど、今日はあらかじめオーギュストが訪れると先触れがあったので、もてなしにお菓子を焼いてくれたようだ。
「木苺のパイです。メルト村の子が持ってきてくれた木苺を使っています」
断面は真っ赤で、とろりと輝く蜜が滲んでいる。パイの傍には白いクリームが添えてあり、その上に載ったミントがよい彩りになっていた。
「ありがとうエド、夕飯の支度まで休んでいて。あまり顔色が良くないわ」
「いえ、元気です! でもありがとうございます!」
そう言った端からけほり、と軽く咳き込んで、あわてて謝った後、エドは退室していった。
「彼、体調が悪いんですか?」
「本人は大したことはないと言っているけど、ここ数日喉の調子が良くなさそうなの。それに、あの子はあの子でとても忙しくて、ちゃんと休めていないと思うわ」
領主邸の住人の数自体は増えていないものの、屋敷の敷地内に内政の管理のための庁舎と執政官や文官用の寮が完成したため、領主邸を訪れる者が飛躍的に多くなった。
それぞれの寮には村から雇った女性が炊事を担当してくれているけれど、文官たちの労いに領主邸で食事をする機会も多い。
メルフィーナとの会議や打ち合わせが長引けば、軽食を出すこともある。
それらの用意をエドひとりに任せることに限界を感じてはいたものの、料理人を増やすことが果たしてエドのためになるのかと考えているうちに、ずるずると時間が過ぎているのが現状である。
「肉のパイは時々食べることがありますが、果実のパイですか。ものすごく赤いんですね」
「きっとすごく美味しいわ。テオドールとロイドも座って。休憩にしましょう」
まだメルフィーナと同席して食事をすることに慣れていない二人は少しまごついていたけれど、結局オーギュストの座る三人掛けのソファに腰を下ろす。
フォークでパイの先端を切り分け、クリームを付けて口に入れると、たっぷりと砂糖で煮た木苺の酸味と甘さが口の中に広がる。オーブンから出してまだ温かいためだろう、味と風味がひと際引き立っていた。
木苺のフィリングはともすれば酸っぱすぎるくらいだけれど、クリームが優しく中和してまろやかな味わいにまとまっていた。
サクサクとしたパイ生地がよいアクセントになっている。バターの風味が強いのは、焼いた後に上から焦がしバターを塗っているのだろう。
出来たてのパイというだけで美味しいのは約束されているけれど、あらゆる美食が存在していた前世でも、間違いなくお金が取れる味だ。
「メルフィーナ様?」
「……美味しすぎて、言葉を失くしてしまったわ。みんな、どうぞ」
メルフィーナの言葉に全員がほぼ同じタイミングでパイにフォークを入れる。お茶で口の中をさっぱりとさせて、もう一口口に入れようとしたところで、全員が無言になっているのに気が付いた。
「マリー?」
「……天上の味とは、こういうものかと放心していました。これは……いえ、言葉にできません」
「これが砂糖を使ったお菓子ですか。話には聞いていましたが、とんでもないですね」
オーギュストはしみじみと言うと、もう一口、パイを口に入れて、ため息をついた。
「パイの部分も、俺が知っているものとは随分違うようですが」
フランチェスカ王国全域で食べられている「パイ」は、前世とは随分違っている。強力粉をラードで練ったもので具を包み、オーブンで焼き上げるタイプで、カチカチに焼き上がった生地は可食部というよりパイの中身を食べるための器扱いという側面が大きいものだ。
貴人がパイ生地を食べるのは品のないこととされ使用人に下げ渡される部分だけれど、召使すら食べない場合は野良犬や豚の餌になる。
薄力粉が多少手に入るようになったので、それを使った領主邸のごちそうのひとつだ。
「なんというか、すごいですね。この一皿につく価値を考えると、宝石を食べている気分です」
皿を持ち上げ、オーギュストはまじまじとパイを見つめている。マナーとしてはよろしくないものだが、気持ちは分からないでもない。
砂糖はこの世界では、非常な高価な滋養強壮の薬として認識されている。このパイにどれだけの量の砂糖が使われているか知れば、いつも飄々とした態度を崩さないオーギュストも流石に仰天するだろう。
「このパイが美味しいのは、砂糖を使っているのが理由ではないわ。酸味と甘味のバランスを調節してクリームがくどくならないようにしているし、このサクサクしたパイ生地はとても焦げやすいのに、これだけ完璧な黄金色に焼き上げている。レシピがあっても誰にでも作れるものではないわ」
基本的なレシピや注意点はメルフィーナが教えたものだが、お菓子は特に繊細な計量と技術が必要になることもあり、何より経験が必要な分野だ。
最近はほとんどメルフィーナが料理を共にする機会がないにも拘らず、見事な仕上がりとしか言いようがない。
「メルフィーナ様、彼を手放す気がないなら、滅多な来客にはこれを食べさせないほうがいいと思います。公爵夫人のお抱え料理人をどうこうしようという者は滅多にいないでしょうが、王族あたりに「所望」されたら厄介ですよ」
「王族がこんな北の端に来ることなんてまずないと思うし、その場合、料理人も連れて来るのではないかしら」
だが、オーギュストの忠告が理解できないわけではない。
公爵夫人としての身分のあるメルフィーナはともかく、エドは平民であり、元々は農村出身で確固とした後ろ盾がない立場だ。領主邸の中にいるうちはメルフィーナが庇護することができるけれど、あまり目立ちすぎても良いことはないだろう。
「それにしても、エンカー地方は来るたびに発展していってますね。また水車の数が増えたんじゃないですか」
川沿いに建設された製粉用の水車はどんどん数を増やしている。領主邸敷地内にも製粉用と搾油用に二つの水車を設置しているほどだ。
「水車や河港の契約だけならもっと数は多いわ。秋までに出来るだけ造ってもらって、残りは来年以降になるわね」
「発展するのは結構なことですが、少し急ぎすぎではありませんか? 公爵家で止めるようにしているとはいえ、人の口に戸は立てられません。これだけ産業が停滞している時期に手を入れすぎるのは、余計な衆目を集める可能性が高いですよ」
オーギュストの言う事はもっともだ。エンカー地方に移住する人が少しずつ増えているとはいえ、今はほとんどが人足として出入りしている層で、移住者もそのまま永住してくれるかどうかも分からない状態で、あまりインフラに力を入れるのは、得策とは言えないだろう。
だが、去年の段階で職人を募ってもほとんど応じてくれる者はいなかった。北端にあるエンカー地方はそもそも仕事の場として魅力的でない。領都やその周辺に他に仕事があれば、そちらを優先させるのは仕方のないことだ。
現在エンカー地方に職人が集まっているのは、飢饉のため景気が低迷し、他に仕事がないからというのが大きい。
――来年には聖女が降臨し、飢饉は解決するはず。
飢饉から脱却すれば、公爵家主導で砂糖の生産が始まる。そうなればオルドランド領は未曽有の大好景気が始まるだろう。経済は循環し、建物を新しくしたり補修を入れたりする者も増えるはずだ。
職人たちが再び本拠地であるソアラソンヌ内での仕事を優先するようになるのは、メルフィーナにとっては見えている未来だった。
その前に完成できる設備は完成させ、間に合わない分は先に契約をしておく必要がある。
領主邸を中心とした行政区に城壁を築くだけで数年がかりの仕事であり、いずれエンカー村を城塞化すると考えれば、その事業は十数年に及ぶ大工事だ。中途半端なところで契約は終わったのでと石工を始めとする技術者に去られるのは、非常に困ることになる。
周囲からみれば、メルフィーナが急ぎすぎているように見えるのは、仕方のないことだ。
「そうね。確かに少し急ぎすぎかもしれないわ。執政官や文官も余裕がなさそうだし、領主邸内にも負担がかかっているものね」
頬に手を当てて、ほう、と息を吐き、パイに視線を落とす。
「領主邸に来客も増えたし、早めに対策を取らないと、エドが倒れてしまいかねないわ」
下働きのメイドは三人に増えた。先輩になったアンナはきびきびと働いていて、前よりも随分頼もしくなったように感じる。
反面、人の出入りが増えた分、エドの負担は大きくなる一方だ。
「追加で料理人を雇うことも考えたけれど、この間あんな騒ぎがあったばかりでしょう」
追加で料理人を入れるならば、それは貴族に雇われる専門の人間ということになる。ある程度年嵩になるだろうし、これまで領主邸を支えてくれていたエドに、肩身の狭い思いをさせたくはない。
「料理関係の「才能」がないんでしたっけ。これだけのものを作れるなら、「才能」なんてあってもなくても構わない気がしますけどねえ」
「貴族出身だと、どうしてもそういう考え方になるわよね」
貴族にとっては魔力の有無も「才能」も、それほど重要ではない。今では便利に使っているメルフィーナの「鑑定」も、かつてはあまりにつまらない「才能」しか付かなかったと、コンプレックスですらあった。
けれど、「祝福」を受けるのが当たり前ではない平民にとって、「才能」とは一種のステイタスだ。
「祝福」を受けた時点で親や修行先の商家や親方から期待を受けたということであるし、「才能」があれば、半ばその期待に応えたことになるのだろう。
何か「才能」があればその先の進路を決めやすいかもしれないなどという気持ちで場所を設定したことが、考えが浅かったのだ。
「いっそ、16歳ギリギリになるまで他所で修業させるというのも手だと思いますよ。他所というのはこの場合、公爵家かそれに近い北部の貴族の家ということですが。今「才能」が芽生えていなくても、一流の料理人の間で仕事をしていれば可能性はありますし」
「……そうね」
メルフィーナにとって、エドに料理の「才能」があるかどうかなど、どうだっていい。
エドが料理をしたくないと言うなら、ラッドやクリフの仕事の手伝いをしてもらい、厨房には新しく料理人を入れたって構わないのだ。
この土地に来たあの日、傍にいた人たちを、これ以上失いたくないという気持ちの方が、ずっと強い。
――酷いエゴね。
この先エドが「才能」を持たないことに引け目を感じ続けるくらいなら、チャンスをつかむために足掻くのは、決して悪いことではないだろう。
最終的に「才能」が芽生えなかったとしても、メルフィーナの他に腕を比べる者のいない領主邸にいるより、多くの料理人に囲まれて修行をすれば、吹っ切れることもあるかもしれない。
「エドに、それとなく聞いてみるわ」
使用人の行く道を示すのも雇い主の権利ではあるけれど、エドに対してそんなことはしたくない。
幼いとはいえ、立派に領主邸の料理人として働いてくれているのだ。
この先どうしたいのか、本人の意思で決めるべきだろう。
木苺のパイは、本当に美味しかった。
その酸っぱさが少し、胸にしみるほどに。
いつも読んでくださりありがとうございます。
誤字や誤用のご報告は誤字報告機能を使って頂けると幸いです。