135.手押しポンプの考案と稲妻
「メルフィーナ様、よろしければお茶を召し上がりませんか」
そう声を掛けられて子供部屋を出ると、マリーやセドリックに続いてユリウスとレナも部屋から出てきた。
ニドの家は寄り合いにもよく使われているので、平民の家には珍しくテーブルと複数の椅子がある。レナは椅子に半ばよじ登るようにして座り、ユリウスはお茶を淹れているエリからトレイを受け取って、当たり前のように運んできた。
「ユリウス様、すっかりこの家の一員のようになっていますね」
「元々僕は、料理やお茶を淹れるのは得意なんですよレディ。正確に分量を量り、決まった時間だけ火を通し、個別に分ける工程はほとんど薬の調合と同じですから」
なるほど、言われてみればその通りだ。
もしも前世の世界にユリウスが生まれていれば、研究室でビーカーにコーヒーを淹れて飲むタイプの科学者になっていたかもしれない。
出されたのは、温かい麦茶だった。そろそろ気温も上がり始めているけれど、天気の悪い日が続いているので、温かいお茶を飲むとなんだかほっとする。
「そういえば、レナがレディに提案があるそうですよ」
「レナが? まあ、何かしら」
レナに視線を向けると、その話題が始まるとは思わなかったらしく、もう! とユリウスに拗ねるように言ったあと、日に焼けた頬を赤くして、もじもじとテーブルの上で指をすり合わせている。
「あのね、メル様がこの間作った噴霧器の、もっと大きなものが作れないかなって思って」
「あまり大きくすると持ち運びが大変だから、そこから先は風の魔法を使える人に来てもらっているけれど」
「違うの、動かすんじゃなくて、井戸につけてみたらなって。霧みたいに細かくするんじゃなくて、水のまま出てきたら、今より水汲みが楽になると思って」
レナはよじよじと椅子から下りると、子供部屋に走っていき、すぐに植物紙を胸に抱くようにして戻って来た。
「これ、ユーリお兄ちゃんがメル様の噴霧器を描いてくれたの。この入れ物のところを井戸にして、水を通すところを大きくして、押すところを上から下にしてみれば、お水が出るんじゃないかなって」
ユリウスが描いたと思しき噴霧器の設計図の横に、井戸の断面図と水面まで届く管、そこから水を吸い上げる機構が記されている。
ほぼ完璧な手押しポンプの設計に、マリーとセドリックも興味深そうにテーブルの上に広げた紙を見つめている。
確かに噴霧器――いわゆる霧吹きと、手押しポンプの構造は、ねじや弁など細かい仕組みは多少違っているけれど、ハンドルを押して空気圧を掛け、ポンプの中を真空状態にして水を引き上げるという意味では、ほとんど同じものだ。
「すごいアイディアね。これは、ユリウス様が設計したのですか?」
「それが、この図面を描いたのはレナなのです。僕は清書がてら、少し手直しをしただけで」
「まあ……」
レバーを押すときにはレバー内の弁が開き、引き上げる時には水を吸い上げる管に設置した弁が開く仕組みは、おそらくユリウスが追加したものだろう。それでも幼いレナがこの仕組みにたどりついたのは、素晴らしい着眼点だ。
貴族社会しか知らないユリウスだけでは、井戸の水汲みを楽にするという発想は出なかっただろう。二人は本当に、良いコンビだ。
「あの、ええと、もし作っても本当にお水が出るか、わからないけど……」
設計図をじっと見つめていると、レナが焦るように言う。はにかみやなところは年相応の女の子で、指をもじもじとさせていた。
「レナ、ユリウス様と、設計図を基に鍛冶工房に発注して、これを作ってみる? 私が領主として後援するわ」
レナはぱっと顔を上げると、明るい表情を見せてくれた。
「いいの!?」
「ええ、これは画期的なものになると思うわ」
現在井戸の水汲みは、設置されている滑車を使って行われている。川で水を取るのは手間がかかるので、多くの世帯は生活用水を井戸の水に頼っているのが現状だ。
そして水は重たく、それなりに負荷の高い労働でもある。手押しポンプが普及すれば、格段に生活が楽になるだろう。
「水汲みが楽になれば、みんなきっとレナに感謝するわね。これの名前はもう決めたの?」
「えっ、大きな霧吹き……でも霧じゃないから水吹き? あ、でもそれだとお掃除しているみたいかな」
お水出し、お水引っ張り……と幼いなりに言葉を尽くして考えているレナに、テーブルに着いている一同が自然と笑みを浮かべてしまう。
大人でも思いつかないようなアイディアを出す半面、レナはやはり、まだ子供なのだ。
「そうね……揚水機というのはどうかしら。水を汲み上げる装置という意味で」
「それ、いいと思う!」
レナは好奇心に目を輝かせて、ポンプの設計図を見つめていた。
その隣でユリウスも、宝物でも見るような目をレナに向けている。
――もしかしたら、この先、二人が大きくエンカー地方を変えてくれるかもしれない。
技術の発案がメルフィーナに集中している状態では、全てを同時に行うことは難しい。領主としての仕事に追われて開発を後回しにしているものも多い状態である。
こうして新たな開発者が現れていくのは、素晴らしいことだ。
それが去年、舌ったらずにメル様と呼んでくれた少女だったことが不思議でもあれば、嬉しいことでもあった。
* * *
話が一段落したところで、ユリウスがふわぁ、とあくびを噛み殺し、目を擦る。
「眠いです……僕はそろそろ、失礼しますね」
つい先ほどまで普通に話していたのに急激な眠気に襲われているらしく、口調までふにゃふにゃになっていた。
「ユーリお兄ちゃん、お部屋行く?」
「うん、今日はもう、限界みたいだ」
ユリウスは緩慢な動きで椅子から下りると、のろのろと奥の部屋に向かっていく。レナはとことことその前を歩き、部屋のドアを開けてあげていた。
ちょうど同じタイミングで、ドアを開け放していた子供部屋から、サラの泣き声が響いてくる。
「少し失礼いたします、メルフィーナ様」
「気にしないで。こちらこそ長居をしてしまってごめんなさいね。私たちもそろそろお暇しましょうか」
ユリウスの様子を見るのとサラを見せてもらうために足を運んだけれど、思わぬ長話をしてしまった。執務室には片付けなければならない決算書や指示待ちの書類が積み上がっているのを思い出す。
「では、馬車を呼んできますね」
マリーがそう言ってドアに向かおうとした時だった。
ゴロゴロ……と空が唸る音が響いたかと思うと、ドンッ、と大きな音が轟く。それに思わずびくりと体を震わせて、すぐにほう、と息を吐く。
「驚いた。大きな雷だったわね。近くに落ちたのかしら」
つい大きな反応をしてしまったのが気恥ずかしくなってそう言って、ふと視線をやった先に、腕に抱いたサラを体で覆い隠すようにうずくまっているエリに気が付く。
「エリ、どうしたの!」
驚いて立ち上がったところで、その場にいた全員がひどく青ざめていることにようやく気が付いた。
セドリックだけは辛うじて真顔だけれど、それでも強張っている様子だ。
「みんな、どうしたの?」
「いえ、雷が近くに落ちて、しまったので」
傍にいたマリーががくがくと震えているのに、思わずその肩に腕を回して抱き寄せる。華奢な肩はひどく震えていて、いつも冷静なマリーらしからぬ、強い動揺が伝わってきた。
「大丈夫よ、雷は滅多なことでは人には落ちないから、そんなに怖がらないで」
「メルフィーナ様は、雷が恐ろしくないのですか」
落ち着かせようと言葉を掛けると、マリーは青ざめた表情のまま、押し殺した声で尋ねてくる。
大きい音に驚きはしても、雷はそうそう恐れるものではない。直撃する確率が低いこともあるけれど、エンカー地方は背の高い木が生えている森がすぐ近くにあるので、人や民家に落ちることはまずないだろう。
森に直撃すれば森林火災の心配はあるけれど、今は雨季であり、木も土も常に湿っている状態だ。その心配はほとんどない。
そう思ったけれど、全員の目がメルフィーナを見ていることに気が付いて、声が出なくなる。
これまでメルフィーナがどんな突飛なことを言い出しても、驚きこそすれそんな目を向けられたことはなかった。
まるで自分たちとは違う、何か異質なものを見るような、そんな視線だ。
ここで雷を恐れていないのが、自分だけなのは明らかだ。それは雷に対しての知識ゆえのものではあるけれど、逆に、皆がこれほどまでに雷を恐れているのは知識が無いからだけではないことが、そこに満ちる異様な恐怖と空気から伝わってきた。
ごくり、と知らず、喉が鳴ってしまう。
ここで雷は恐ろしいものではないと口にすれば、何かが決定的に変わってしまう、そんな気がした。
「私も、勿論怖いわよ。でも、皆が怯えている方が心配なの」
そう言うと、誰のものともしれない、安堵の息が聞こえてくる。
「……やっぱり、もう少し、ここにいさせてもらいましょうか。雷が遠ざかるまで」
エリの震える手からサラを受け取り、彼女を立たせて椅子に座らせ、不安に満ちた目をするエリに、しっかりとサラを抱かせる。まだ動揺が強いらしく、おくるみに包まったサラを抱く腕は、震えたままだ。
「大丈夫よ、大丈夫」
エリの背中を撫でて宥めながら、中々、顔を上げることが出来ない。
これまで誰よりも近くにいたマリーやセドリックさえ、自分とは明らかに異質なものに思えてしまうことが、ひどく恐ろしく感じられた。