133.農業用水池と用水路
四日目、予定通り滞在を終え帰路につく教会の馬車を見送り、メルフィーナもすぐに所有する屋根付きの馬車に乗った。
考えるべきことはいくらでもあるけれど、かといって仕事が減るわけでもない。むしろ心も体も忙しくしていたほうが、答えの出ない思考をいったん棚上げにすることが出来て、気が楽なくらいだ。
その日も夜半からしとしとと降っていた雨は、明け方には止んでいた。地面がぬかるんでいる分馬車の進みは重く遅いけれど、雲の切れ目から日が差し込んでいることで、重苦しい気持ちが少しだけ和らぐ。
こうも毎日雨続きでは気持ちが滅入ってしまうけれど、今年は農業用水池と用水路を新しく導入したため、むしろ雨は歓迎するべきものだ。
元々水の豊かなエンカー地方であるけれど、湖や川、地下水も含めて有限の資源であるのに変わりはない。
いつもよりやや時間が掛かったものの、無事メルト村から少し離れた場所に完成した用水池にたどり着く。メルフィーナが馬車を降りると、ニドと数人のメルト村の責任者たちは先に到着していた。
「待たせてしまったかしら」
「いえ、時間より早く来て、近くを見て回っていたところです。連日の雨で思ったより早く満水になってしまったので、不具合が出ていないか心配で」
「初めての試みだし、用水には事故の危険性もあるから、慎重に扱ってくれて嬉しいわ」
満水になっても周辺の圃場に水が流れ出さないよう、決まった水位になれば近くの川に放水する堰を作っておいたけれど、そちらも正常に機能していると聞いてほっとする。
メルフィーナもそろそろと近づいてみたけれど、連日の雨のせいだろう、用水池の水は濁っていて底が見えない。澄んだ水の吸い込まれるような雰囲気とはまた違い、間違って落ちてしまったらそのまま底に沈んで這い上がれないのではないかと不安になるような色をしている。
メルト村周辺の圃場を支える用水池である。それなりの面積と深さがあり、泳げない者が落ちればひとたまりもないだろう。
――前世では普通に泳げたけれど、今は自信がないわね。
王都育ちのメルフィーナは、そもそも入浴以外で水に浸かった経験が一度もない。水泳や自転車に乗るといった、前世で体が覚えている行為を今でも出来るかは分からない。
「用水池は人の背丈よりずっと深いので、落ちないように柵を作ったほうがいいかもしれませんね」
「子供達には近づかないように言っていますが、珍しい仕組みですので大人でも興味のある者は多そうですし、その方がいいかもしれません」
畑が途切れて明らかに人工物のため池が現れれば、一体何ごとかと覗き込みたくなる者も出てくるだろう。
ある程度存在が馴染むまでは、周囲は決められた管理者以外は立ち入り禁止にしておいたほうがよさそうだと話し合う。
「用水路の方は順調ですか?」
「すでにほぼ予定の部分は掘り終えています。ただ、この雨で一部崩れてしまったところもあるので、雨季が終わったら水を流す前にもう一度掘り起こす部分が出るかもしれません」
「やっぱりコンクリートでU字溝を敷設したいですね。今年は手が回らないにしても、来年以降手を付けていければいいのだけれど」
手掘りのまま土が剥き出しの状態でいると、水を流していない時の雑草の処理や雨天が続いた時の崩壊の心配が付きまとう。コンクリートでU字型のブロックを敷設するほうが、手間はかかっても長い目で見れば安全な運用が出来るはずだ。
今年の冬、農閑期に入ってから空いた乾燥小屋で製作して順次取り付けていく形にするのが一番効率がいいだろうか。そんなことを考えていると、ニドは水が満ちた用水池に視線を向けながら、しみじみとした口調で言った。
「去年は水に恵まれましたが、過去には長い干ばつで畑が干上がってしまった年もありました。こうして水を引くことで、またあの年のような天候が巡って来ても、枯れていく畑を見ずに済みそうです」
「そうね。雨が降らない年は用水池の水量も減ると思うけれど、最悪のことにならない備えはしておきたいわね」
いざという時の備えをしたり、最低限民を飢えさせないようにしたりするのも領主の大事な仕事のひとつだ。頭のメモに、備蓄庫についても追記しておくことにする。
周辺を見回り、特に大きな問題は起きていないことを確認していると、ぽつ、ぽつとまばらに滴が落ちて来る。
雲は切れているので本降りになることはなさそうだけれど、この季節の北部の空はとても気まぐれだ。
「メルフィーナ様、あちらに乾燥小屋があるので、雨宿りしていきませんか」
「そうですね、ついでにお昼にしましょうか。沢山持ってきたので、皆も良ければ一緒に食べましょう」
「それでは、先行して様子を見てきます。ロイド、メルフィーナ様と共に来るように」
「はい!」
ロイドの返事を確認して、セドリックは馬を乾燥小屋の方へ走らせた。地面の状態は決して良くないのに、馬は軽やかに駆けていく。
「時々、宿を取るのを惜しんだ人足や雇われの職人が乾燥小屋に入り込んで寝起きしていることがあるのです。それを心配されたのでしょうな」
「それは、困るわね。テント用の場所も用意したのだからそちらを利用してもらえないのかしら」
「雨風をしのげる場所があればテントを張るより手間がかかりませんからな。村の者もそのまま住み着かないよう見回りをしているのですが、出て行くのをゴネる者も時々います。巡回の兵士がいるときは追い出してくれるのですが、日暮れ前に戻ってきて忍び込むなんてこともよくありまして」
そのたびに毎回兵士を呼ぶにもやや距離があり、手を焼いている様子なのが伝わってくる。
乾燥小屋は生活のために造られた建物ではなく、隙間風も多く入るはずだ。夜の間暖を取ろうとして火を使い、火事になるようなことが起きては目も当てられない。
「そういう方には、乾燥小屋は全て領主の所有物であると、強く言って構いません。……といっても、私だと怖がられないかもしれないけれど」
屈強な大男とまではいかないまでも、やはり十代の貴族の娘では威厳や威圧感が足りないだろう。
今のところメルフィーナを見て腰を抜かすのは、エンカー村村長のルッツだけである。
「いえ、しっかり伝えておきます」
「訓練が終わった兵士に駐屯してもらえるよう、早めに準備も整えるようにするわね」
そう話しながら移動している間にも、乾燥小屋の確認を終えたらしいセドリックが戻ってくる。
以前はメルフィーナの後ろに常に影のように寄り添っていたセドリックだが、ロイドが従士になってからはわずかな時間ではあるけれど、こうしてメルフィーナの傍から離れることも増えてきた。
ロイドが傍にいる分、周辺を警戒する余裕が出来てきたらしい。二人の相性も悪くはないようで、ロイドもセドリックを慕っている様子だった。
問題はなかったと言われて乾燥小屋にたどり着く。トウモロコシの収穫が始まるまでは木材の保管に使われることが多いけれど、今は第二次建築ラッシュということもあり、冬の間積み上げられていた木材もすっかり片付けられていて、がらんとした様子だった。
小屋の近くの茂みにセドリックとロイドが馬をつなぐ。セドリックの馬は草を食み、ロイドは先日与えられた栗毛の馬の首のあたりを優しく撫でていた。
「ロイドはもう馬に慣れた?」
「いえ、まだ馬に乗せてもらっているという感じです。今日のように雨が降っている日は特にそうです」
従士は本来馬を持たないものだが、ロイドはメルフィーナの警護要員ということもあり、気性の穏やかな牝馬を与えられることになった。
ロイドを乗せて歩く足取りはおっとりとしていて、悪さをすることも無く、黒い瞳は眠たげにとろりとして見るからに温和な雰囲気である。
「将来家令を拝することになれば、メルフィーナ様の名代として動く場面も出て来る。馬は早めに乗れるに越したことはない」
「はい、がんばります」
セドリックの一見厳しい口調にも、ロイドは委縮している様子はなく、メルフィーナは微笑んでマリーが用意してくれた敷物の上に腰を下ろす。
メルフィーナのこんな行いはすでにエンカー地方の住民には見慣れたもので、貴族が地面に腰を下ろすことにうろたえる者はひとりもいなかった。
エドが昼食に用意してくれたのは、バスケットにみっちりと詰まったサンドイッチだった。卵とマヨネーズを挟んだものや、薄切りの豚肉を塩と生姜で調味したものにスライスした玉葱をたっぷり、焼いてほぐした魚の身や少し厚めに切ったチーズなど、種類も色々だ。
メルフィーナが多忙で執務室で昼食を取る日も多いので、こうした軽食の腕はどんどん上がっているように感じられる。特に書類仕事が多い日は具が落ちないようにハムとチーズの比率が高くなったり、少しどっしりとしたものが食べたいとこぼした日には揚げた豚肉が挟まっていたりと毎回気配りを感じさせた。
エドのこの心配りの細やかさは「才能」よりよほど素晴らしいものだと、心から思う。
「どうぞ、皆さんも手を洗ったらそれぞれ好きに取って食べてください」
「白いパンですか……その、本当に頂いてよろしいのですか?」
平民は裕福であっても、白いパンを口にすることはほとんどない。
柔らかく白いパンは、そもそも作れる者が非常に限られていて、白いパンを焼ければ貴族の厨房を任せられるという基準すら存在するほど、特別な食べ物である。
これを毎日のように焼いている十三歳の少年がいるなど、そうそう信じられることではないだろう。
「ええ、領主邸の自慢の料理人が作ってくれたの、是非感想も聞かせてほしいわ。私から料理人に伝えておきます」
明るい声でそう言って最初のひとつをつまんだメルフィーナに、ニドを含むメルト村の人々はおそるおそる手を伸ばしていく。
その日の夜、みんな言葉を失った後に、こんなに美味しいものを食べたことはない、さすが領主邸の料理人だと口々に言っていたと告げたメルフィーナに、小さな料理人は大袈裟だなあと少し呆れたような、それでいてくすぐったそうな笑みを見せることになった。




