129.持たざる者
マリーに兵士たちの指揮を頼み、エドが戻ってきたらすぐに連絡するようアンナに伝え執務室に戻った後も、じわじわと傾いていく太陽が気になって、ずっと仕事に集中できなかった。
春から夏に移り変わりつつあるとはいえ、まだ日はそう長い方ではない。もうしばらくすれば、次第に薄暗くなりはじめるだろう。
この世界の夜は、前世とは比べるべくもなく危険なものだ。
北部の魔物が出る季節ではないけれど、熊や狼といった危険な野生動物はすぐ傍で息づいていて、夜の闇の中では人は獣に敵うものではない。
街灯などない世界では夜は人間の目には暗すぎて、通い慣れた道でも事故の可能性がある。貴族も平民も活動するのは太陽が空に輝いている間だけで、夕暮れ前に家に戻り、夕飯を済ませて、日が落ちればすぐに眠りにつくのが当たり前の習慣だ。
結局太陽が西の稜線に掛かり始めても、エドの行方が知れることはなく、執務に身が入らずにいると、やがて教会の馬車が戻ってきたと連絡が届く。
「セドリック」
「お供します」
椅子から立ち上がると、セドリックは心得たように頷いた。逸る気持ちを抑えながら階段を下りて門を抜けると、ちょうど馬車から降りたエミルと目が合う。小雨が降っていて、彼はそれを避けるためにローブのフードを深くかぶっていた。
「司祭様! お疲れ様です!」
「公爵夫人。わざわざお出迎え下さったのですか? ああ、濡れてしまうので、私がそちらに行きましょう」
穏やかに微笑みながら正門の屋根の下まで移動してきたエミルに、貴族の女性らしく一礼し、すぐに顔を上げる。エミルもメルフィーナの様子がおかしいことに気づいたのだろう、不思議そうな表情を浮かべていた。
「公爵夫人、どうかなさいましたか?」
「……司祭様、不躾ですが、本日の「祝福」で何か変わったことはありませんでしたか? 「祝福」を受けに行った当家の使用人がまだ戻って来ていないのです」
エミルははて、と首を傾げ、後ろに控えていたオーギュストを振り返る。オルドランド騎士団の紋章の入ったローブを身に着けているオーギュストも心当たりはないらしく、首を左右に振った。
「祝福を受けた使用人というのは、厨房にいる少年のことですよね。ずっとテント周辺の警護をしていましたが、特に変わった様子はありませんでしたよ」
「頂いたリストの十八人の少年、全員に無事「祝福」を与えました。面白い「才能」を持つ子も何人かいましたが、特に大きなトラブルはなかったはずです」
二人にそろって告げられて、メルフィーナは肩を落とす。
「そうですか……お疲れのところ、お引き止めしてしまって申し訳ありません。本日はありがとうございます。後ほど、お礼の品を送らせていただきますので」
「いえ、もう一刻もしないうちに日が落ちます。家人がご心配でしょう。我々のことはどうぞお気遣いなく。よろしければカーライル卿も、公爵夫人についていて差し上げてください」
「いえ、私はエミル様の護衛の任を受けている立場ですので、そういうわけには参りません」
「私には教会からの護衛もついていますし、この土地でそうそう問題は起きないかと思いますが……いえ、私が勝手を言いましたね。申し訳ありません」
その言葉に、オーギュストは丁寧に一礼する。
エミルはあくまでオルドランド家の依頼で公爵夫人の治める土地に祝福を与えに来た司祭である。その護衛であるオーギュストを、メルフィーナの私用に使う訳にはいかない。
「お気遣いをありがとうございます司祭様」
エミルは人好きする笑みで一礼すると、ではまた明日にと挨拶をして小雨が降る中、別館に戻っていった。
腹の前で握っていた両手にぎゅっと力を籠め、空を見上げる。しとしとと雨は降り続け、厚い雲が覆っているせいで、一層重苦しく、薄暗く感じる。
この時間まで屋敷に戻ってこないのは、明らかに異常事態だ。
「日が落ちる前に捜索隊を出してちょうだい。馬に乗れる騎士は、周辺を捜索して」
嫌な予感に握り込んだ指がひどく冷たく感じる。気丈でいようとするのに、声が震えそうになる。
「すぐに手配します。エンカー村でも自宅の周辺を注意深く捜すよう依頼しましょう」
「ええ、日が落ちる前に見つけないと……」
帰りが遅れただけで大事にするのはという意識はもうなかった。無事に戻ってきてくれれば、後で過保護で心配性な領主なのだと笑い話にしてもらえばそれでいい。
その時、傍で固唾を呑んでなりゆきを見守っていたアンナが、ふと声を上げた。
「あっ、エド!」
その声に顔を上げて門を振り向くと、ちょうど兵士に付き添われて小さな影がこちらに向かって歩いてくるところだった。深く俯いて顔は見えないけれど、髪色も領主邸のお仕着せも、間違いなくエドのものだ。
「ああ、よかった。帰って来たのね」
ほっと息を吐いたのもつかの間、困惑した兵士の表情と、顔を上げようとしないエドに気が付く。門から先に出ようとするとセドリックに止められて、代わりに彼が兵士からエドを引き継ぎ、背中に手を添えてこちらに連れて来てくれた。
「エド、心配したのよ。こんな時間までどこに……どうしたの?」
ずぶ濡れで、ぽたぽたと滴を垂らしながらエドは顔を上げようとしない。メルフィーナが膝を折って背が伸びてきたエドの顔を下から覗き込んだことで、ようやく落ちているのが雨の滴だけでないことに気が付いた。
エドの目は赤く腫れて、嗚咽をこらえるためだろう、唇をぎゅっと引き締めている。どれくらいそうしていたのか、唇からは血がにじんでいた。
「エド、何があったの?」
ぱたぱたと軽い足音がして、アンナが持ってきたタオルをセドリックが受け取り、エドの頭から掛ける。春と夏の狭間の季節とはいえ、北部の雨はまだまだ冷たく、メルフィーナが拳を握った手に触れると、ひどく冷えていた。
「メルフィーナ様……ごめんなさい、僕、ご、ごめんなさい……」
「なにがあったの。誰かに乱暴なことをされたの!?」
いつも屈託なく笑っていて、アンナとは別の意味で領主邸のムードメーカーである少年が、こんな風に泣いているのを見るのは初めてだった。
見たところ、怪我はない。雨に打たれていたせいか服は体に張り付いているけれど、無理に脱がされたような様子もない。
ただ彼がひどく打ちのめされて、苦しんでいることだけが伝わってくる。
「とりあえず中に入りましょう。着替えて、温かい飲み物を淹れるから。このままでは悪い風が入ってしまうわ」
促してもエドはぶんぶんと首を横に振るばかりだ。次から次に涙があふれて来て、喋ろうとするたびに嗚咽が混じる。
「め、メルフィーナ様、ごめんなさい」
「何を謝っているの、エド」
「ぼ、僕には、っく、う、さ、才能は、なにもないって……」
その言葉に驚いて、そんなことかと安堵して、そしてすぐに、安堵した自分を戒める。
エドにとっては「そんなこと」ではないのだ。
冷たい雨の中を何時間も一人で悲しんで、この場所に戻ってこれなくなるくらい、辛く感じている。
「エド、いいのよ。それは、謝るようなことではないの」
「ごめんなさい、メルフィーナ様、僕、ごめんなさい」
「エド、お願い、謝らないで。……あなたが無事に帰ってきてくれて、本当によかったわ」
メルフィーナが手を握り、中に促せば、エドはそれ以上拒むことなく重たそうに足を動かし領主邸に入った。
冷たく固くなったエドの気持ちが伝わってくる。
そんなはずはないのに、まるで自分が、領主邸にいてはいけないのだと思っているようだ。
それがひどく痛ましかった。
今日は夜にもう一話あげたいです