128.「祝福」と「才能」
その日、早朝に領主邸から出て行く三台の黒い馬車を窓辺で見送り、メルフィーナは朝から執務に励んでいた。
執政官や文官が揃いつつあるとはいえ、急速に発展していくエンカー地方の領主としてやるべきことは多岐に亘る。
「雨季が終わった後、粉挽き用の水車をあと三基は増やしたいわね。すぐに麦の刈り入れが始まるし、人の増加に追い付かなくなる可能性は出来るだけ下げておきたいわ」
「トウモロコシの乾燥小屋ですが、こちらは去年と同じペースで造っても構わないかとリカルドから相談が来ています」
「構わないと伝えて。麦畑の面積も増えたし、トウモロコシの収穫が終われば去年と同じように木材の乾燥小屋に使えるから。それから、ガラス工房はどうなっているかしら」
「雨季の間は炉の温度に不安があるということで、雨季が明けたら職人がこちらに来る手はずになっています」
「それまでに工房だけは用意しておきたいわね。ガラス製品は、作って欲しいものがたくさんあるから」
まだガラス製造の技術は前世と比べるまでもなく未熟ではあるけれど、それでもガラスの利便性は大きい。
別館は今のところ鎧戸を閉める形式で窓ガラスが入っていないので、そちらも早めにガラスを入れておきたい。
今日のような雨の日でも、室内で外光を採り入れて書類仕事が出来るのは、窓ガラスが入っているということが大きい。
「いずれ、鉛のしきりのない窓を作りたいわね」
「ガラス窓は、丸い吹きガラスを鉛でつないで作るものではありませんか?」
「平たくて大きい一枚ガラスを作る方法もあるの。それに、輸送や作物の栽培にもガラスはとても有用なのよ」
この世界の技術でも、手吹き円筒法による平たいガラスを作ることは可能なはずだ。必要な設備と炉を先に造っておいて、メルフィーナの知識を基に技術開発をしてくれる職人を待つばかりだ。
「これも技術を開発した後のことになるけれどエールやワインもガラス瓶で運搬できるようにしたいと思っているの」
ガラスは割れるものだし、エールやワインは地産地消が基本なのでマリーにもセドリックにもぴんとこないらしい。
炭酸やアルコールの内圧に耐えられる品質のガラス瓶がすぐに完成することはないだろう。多くの試行錯誤が必要となるはずだ。
「まだまだ先の話だけれど、ガラスを釣り鐘型にして作物に掛けると内部の温度が上昇して、冬でも春や秋の作物が取れたりするから、貴族向けの高級果実を作るのもいいわね」
いずれは是非ガラス張りの温室をと思うけれど、それもまだまだ夢の話である。
時々そんな会話を交わしながら書類を片付けていると、控えめにノックの音が響く。マリーがドアを開けると、アンナが恐縮したように立っていた。
「アンナ、どうかした?」
「そのう、メルト村の子がメルフィーナ様にお会いしたいと言っています。今お仕事中でお忙しいと言ったんですけど、少しだけでいいからって」
「アンナ、そういう時は、まず用件を預かって、メルフィーナ様にお伝えしなさい」
「あっ、はい! その、聞いてきます!」
「いいわ、ちょっと休憩しましょう。アンナ、人数分のお茶を淹れてくれる?」
マリーに窘められて慌てて踵を返そうとするアンナに声を掛けると、ぱっと明るい表情に変わる。
「はい! ただいま!」
「走っちゃだめよ、ゆっくり、優雅にね」
ぱたぱたと立ちかけた足音がぴたりと止まるのに、ふふっ、と笑みが漏れる。
「アンナも随分お姉さんになってきたわね」
「まだまだあわてんぼうですけれどね」
「そこは長い目で見ましょう。座りっぱなしは体に良くないから、ちょうど休憩が挟めてよかったわ」
背筋を伸ばして階下に下りると、ちょうど領主邸の玄関にロドがいて、メルフィーナと目が合うとぶんぶんと大きく手を振った。
「まあ、ロド、ずぶ濡れじゃない!」
「もう雨季だから大丈夫だよ。それよりメルフィーナ様! さっき広場で「祝福」をしてもらったんだ。それで、俺、「演算」と「分析」のふたつがあるって!」
「まあ、二つも「才能」があったの? すごいじゃないロド!」
ロドには「計算」か「演算」の「才能」があるのではないかと、去年の夏には話が出ていた。
「演算」は「計算」の上位互換の「才能」のはずだ。そこに、更に「分析」まであるとなると、稀有な才能の持ち主と言えるだろう。
「貴族でも複数の「才能」や属性は珍しいのよ。すごいわ、ロド」
「司祭様にもそう言われた。それで、教会に来ないかって誘われたけど、俺はメルフィーナ様の役に立ちたいからってちゃんと断ったよ!」
へへっ、と得意そうに笑うロドに、中に入るよう促しマリーにタオルを取ってきてもらうよう伝えると、いいよいいよ、とロドは手を振る。
「俺、このまま村に帰るから。待合の馬車が出ちゃうから、もう行くね!」
「ちょっと、ロド!」
「仕事中にごめん! 真っ先にメルフィーナ様に言いたかったんだ!」
またね! と手を振りながら、ロドは雨の中を門に向かって駆けていった。警備に立っている兵士も苦笑しつつ、ロドを見送っている。
「転ばないように帰るのよ!」
「またね、メルフィーナ様!」
その別れの声も、喜びに満ちたものだった。苦笑しながらロドを見送って、マリーとセドリックと顔を見合わせる。
「二つの「才能」って、すごいわよね?」
「すごいことですし、どちらも稀有な「才能」ですね。建築家や学者などに向いていると思います」
「そのほかだと、芸術家ですね。以前公爵家のお抱えの彫刻家だった方が、やはり「演算」と「分析」を持っていると聞いたことがあります」
「建築家も芸術家も、教会で学ぶのはよい環境だとは思うけれど」
「それは、あの少年には言わない方がいいでしょうね。また熱烈な告白をされてしまうでしょうし」
セドリックが真面目な顔でそう言うのに、照れくさく苦笑する。
「もう言わないわ。それに、どんな「才能」があってもなくても、子供たちはみんな可能性の塊だもの」
「メルフィーナ様らしいです」
折角アンナにお茶を淹れてもらったことだし、休憩がてら短いティータイムを楽しんで、執務に戻ることになった。
* * *
くう、とおなかの虫が鳴いたのに驚いて、ふとメルフィーナは目を落としていた書類から顔を上げる。
仕事に集中していたけれど、いつの間にか太陽は中天から斜めに傾き始めていた。普段ならとっくにエドかアンナが昼食の用意が出来たと声を掛けてくれるところだ。
「エドはまだ戻っていないのかしら」
「そういえば、昼食の時間が随分遅れていますね。少し下を見てきます」
そう告げて執務室から出て行くマリーを見送り、セドリックに視線を向ける。
「「祝福」が長引いているかもしれないわね。まだ戻ってこないようなら、私が簡単なものを作ろうかしら」
パンと卵とハムがあれば簡単なサンドイッチくらいならすぐに作れるし、それにミルクティでもつければ昼食としては十分だろう。そう思っていると、セドリックがやや声を落として言った。
「私が出来ればよいのですが……メルフィーナ様に食べていただける料理が作れるとも思いません」
「セドリックは騎士だもの。でも、手先が器用だから料理を学んだらすぐ私より上手くなると思うわ」
「想像も出来ません」
そんな話をしていると、すぐにマリーが戻って来る。なぜかその隣にアンナも控えていた。
「アンナがちょうど、市場の買い出しから帰って来たところでした。どうやらエドが戻ってきていないようです」
「きっと「祝福」が長引いているんでしょうね。私が何か作って――」
「「祝福」はもう終わっていました! 広場でテントも片付け始めていましたし、この時間まで戻らないなんておかしいです!」
アンナがメルフィーナの言葉を遮ったことに、セドリックとマリーが少し渋い表情を浮かべる。
「今日はエドがごちそうを作るからって、買い物を頼まれてて、あのロドって子が来たからエドももう終わるだろうから、荷物を持ってもらおうと思ってあの後市場に行ったんです。でも、広場にも市場にもエドはいなくて、入れ違いになっちゃったのかなって、私」
「アンナ、落ち着いて。――マリー、兵士にエドを探してもらうよう頼んでくれる?」
「すぐに伝えてきます」
「メルフィーナ様、エドが帰ってこないなんて、おかしいです。迷子になるような子じゃないし、出かけたついでに仕事をサボろうなんて絶対しないやつなのに」
アンナの表情は、不安と心配が溢れんばかりだった。
普段はよく口喧嘩をしている二人だけれど、仲が悪いわけではないことはメルフィーナも分かっている。
エドは、近隣の家にメルフィーナの連絡を伝えるのに走ってくれることも多い。開発が進んで多少入り組むようになったとはいえ、領主邸からエンカー村までの道で迷うようなことはないはずだ。
人が多く出入りするようになったエンカー地方は、他所から来た人も増えて、もめ事や問題が起きることもある。何かあったのかもしれないという不安がアンナの中で増幅しているのが感じられた。
「分かってるわ、アンナ。すぐに探してもらうから、そんなに心配しないでちょうだい」
「……はい、あの、大きな声を出して、ごめんなさい」
「いいのよ、私も心配なのは同じだもの。すぐ見つかるわよ、きっと」
そんな言葉を掛けたメルフィーナだけれど、日が傾き始めても、エドが領主邸に戻って来ることはなかった。
朝からしとしとと降り続けている雨が、次第に勢いを増していた。
愛着があるのでそのままですが、平民にはあまり複雑な名前を付けない方がいいだろうと二文字か三文字でシンプルな名前をつけているのですが、祝福回でニドとエドとロイドと並んで、流石にもうすこし付ける段階で複雑にしたほうがよかったな……と思っています。