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127.司祭の来訪

 春から夏にかけての北部は、雨の季節だ。

 豪雨というほどの勢いではないけれど、小雨と本降りを繰り返して降り続け、晴れやかな空を見る機会はほとんどない日が続く。


 その日は幸い、朝から雨が止んでいた。空は灰色の雲で覆われているけれど、僅かな切れ目から太陽の光も差し込んでいる。


「メルフィーナ・フォン・オルドランドと申します。司祭様、遠くからお越しいただきまして、感謝いたします」

「エミルと申します。お久しぶりでございます、公爵夫人」


 三十代中頃に見える司祭は、穏やかな口調で告げた。


「去年の公爵家の結婚式の際、教会の者の一人として参列させていただきました。公爵夫人のご依頼ということで、本来ならば大司教が赴くところですが、何分ご高齢ということもあり、ソアラソンヌを教区としている私がまかりこした次第です」


 黒い祭服に身を包んだエミルは人当たりの良い笑みを浮かべて応じる。

 この世界ではほとんど見ることのない艶のある黒髪は、確かに結婚式の記憶に僅かに残っていた。


「オーギュストも、案内と警備をありがとう。最近は領都とこちらを行ったり来たりで、大変ではない?」

「私は執務室に籠りきりというのは性分に合わないので、却って良い息抜きをさせていただいています。メルフィーナ様、ひとまず、エミル様を中にご案内してさしあげてはいかがでしょうか」


 いつにないかしこまった態度にメルフィーナも頷いて、こちらへ、とエミルを促し歩き出す。


「馬車は当家の者に任せても大丈夫でしょうか?」

「いえ、馬も馬車も世話をする者を連れてきたので、管理はお任せください。聖具など、取り扱いが難しいものもありますので」

「では、そうさせていただきますね」


 司祭が来るとは聞いていたけれど、大型の馬車が三台もやってくるとは予想外だった。随伴は、公爵家からの護衛五人を除けば教会の人間だけで十人だという。


「元々こちらの領主邸はとても小さいものですし、現在は貴賓を招いているので、申し訳ありませんが先日落成したばかりの別館に滞在していただくことになります。食事などはそちらの厨房で用意いたしますので」

「どうぞ、お気遣いなさらないでください。神職として口にできるものが限られているのと、料理の心得がある者も同行しているので、厨房さえ貸していただければ食事はこちらで用意いたします」

「では、食材は手配いたしますので、何か必要な物や、足りない物があればご連絡ください」


 エミルは物腰が穏やかで口調もおっとりとしているが、その端々に高い教養と品の良さを感じさせる。おそらく貴族の出身か、幼いうちから教会に入り礼儀作法を厳しく躾けられたのだろう。


 完成したばかりの別邸は隅々まで掃除が行き渡り、清潔を保っている。基本的にはこの世界の習慣に合わせて土足だが、土間に藁を敷くやり方ではなく、全ての部屋を板張りにしてあった。


 今回派遣される司祭は身の回りの世話をする者を連れているので、使用人や小間使いは必要ないとあらかじめ言われていたので助かった。もし必要とするなら、あらかじめ公爵家から借り受ける必要があっただろう。


 招いた側として、最初のお茶はマリーとアンナに頼んで淹れてもらう。別邸の団欒室にはエミルの他、彼の護衛らしい黒のキャソックに身を包んだ体格のいい男性と、公爵家からの案内人であるオーギュスト、メルフィーナと護衛騎士のセドリックが入ることになった。


 アレクシスから届いた中で一番良い紅茶を用意して、まずはメルフィーナが口を付ける。


「エンカー地方は発展の最中というお話は聞いていましたが、想像以上に賑やかで驚きました。随分色々なものを作っておられるのですね」

「人里から離れていることもあって、幸いこちらはあまり飢饉の影響を受けずに済みましたので、北部の中でも多少余裕があるのです。公的な事業は商人や職人の救済にもなりますので」

「素晴らしいお心です。それに、今回のように、平民の子供達にも「祝福」をという領主は少ないので、是非この目で見たいと派遣を立候補した甲斐がありました」

「御足労頂いて、本当に心苦しいですわ。こちらから子供たちを連れて行くのが本来の作法なのに、ありがたく思っています」


 メルフィーナの言葉にエミルは微笑んで、美味そうに紅茶を傾ける。


「そちらの騎士殿の言葉ではありませんが、司祭の立場になると一日のほとんどを教会の中で過ごしますし、中々教区の外に出る機会はないのです。こうして遠出して外の空気を吸い、好きなものを飲めるというのは、実は役得なのですよ」

「まあ、それならよかったですわ。毎年というのは難しいかもしれませんが、数年に一度でも子供たちの「祝福」に司祭様が来ていただけると、とても嬉しく思います」


 穏やかに笑い合いながら最近の領都の雰囲気やエンカー地方で作っている作物について言葉を交わす。


「やはり、ソアラソンヌでも治安は悪化の傾向ですか」

「ええ、貧民街に炊き出しや説法をする者も、例年より明らかに貧しい者たちの環境は悪くなっているとこぼしています。できるだけ炊き出しの回数を増やしたいところですが、我々としても残った食料をやりくりして行っているので、中々難しく」


 弱者に寄り添うという点では教会よりも神殿の方が有名だけれど、教会も神による救済を説いている以上そうした活動を全くしていないというわけでもないらしい。

 ちらり、とさりげなくオーギュストに視線を向けると、彼はすぐにその意図を汲み取ってくれたらしい。メルフィーナに分かる程度に、頷く代わりに瞼を下ろした。


「私から夫に、教会への食糧の支援をお願いしておきますわ」

「そうしていただけると、とても助かります」


 今回の派遣でも少なくない額の寄進を行ったけれど、金貨があっても食料そのものが足りなければ意味がない。貧しい者の口に入るには、多くの食料を支援する必要があるだろう。

 エミルは鎧戸を開いた窓の向こうに視線を向けた。窓の外には、建造中の水車小屋と、その先に広がる圃場がある。


「これほど活気に満ちた土地は、久しぶりです。公爵夫人は、学校などの建設は考えておられますか?」

「学校? ですか?」


 メルフィーナは頬に手を当てて、首を傾げてみせた。


「不勉強で申し訳ないですわ。学校とは、どのようなものでしょうか」

「希望者を一堂に集めて、読み書きや計算などを教える公的な機関です。教会でも将来有望な子供達に教えることはありますが、その大規模なものですね」

「エンカー地方の住人の大半は農民と農奴ですわ。彼らが読み書きや計算を必要とするとは思えませんし、彼らは大人から幼い子供まで労働力です。食べて生きるのに必要のない読み書きや計算のために仕事を休むことはしないでしょう」


 困惑したように告げると、エミルはメルフィーナをじっと見つめ、すぐに先ほどまでと同じ笑みを浮かべる。


「なるほど、確かにそのとおりです。いや、失礼いたしました」

「いいえ、そのような機関があるのですね。私も学びになりましたわ」


 それから穏やかに雑談をし、メルフィーナがカップを置く。


「折角の機会ですし、もう少しお話ししたいところなのですが、執務が詰まっておりまして」

「いえ、こちらこそ麗しい方とお話しできるのが楽しく、引き留めてしまいましたね。明日は予定通り、村に出て「祝福」を行わせてもらいます」

「各村に十三歳から十六歳の子供たちを広場に向かわせるよう伝えてありますので、どうぞよろしくお願いいたします」


 貴族の女性らしく、優雅に一礼をして団欒室を出て、別邸を後にする。


「……マリー、セドリック、二人は「学校」って聞いたことある?」

「いえ、初めて聞きました。読み書きや計算は、私は家政婦長が教えてくれたので」

「私は兄たちと家庭教師ガヴァネスがつきました。そもそも教育とはとてもお金のかかるものなので、希望者を集めて、というのは現実的ではないと思います」

「そうよね。私も住み込みの家庭教師ガヴァネスに、教育や教養をつけてもらったもの」


 この世界で読み書きが出来る代表的な立場は、貴族を除けば聖職者か商人である。

 貴族でも下位貴族の女性は教育を省かれて、読み書きが出来ない者もさほど珍しくはない。


 商人にせよ職人にせよ、十歳になる前から徒弟に入り仕事を学んで一人前になる。それ以外の者は労働力として人足や、土地を持たない雇われの小作人となるのが大半だろう。


 帳簿を付けるのは特に長年勤めて身元もはっきりとした者に任される仕事だ。文官など公の仕事は、貴族の次男以下の男性がほとんどで、平民の割り込む隙はない。


 現状、平民に読み書きや計算を教えても、それを活かす職に就くのは困難を極める。学校や義務教育という概念が生まれるには、まだまだ時間を必要とする。


 祝福を行う階位にある司祭が、それを知らないとも思えないし、わざわざメルフィーナにその話題を振って来た理由も分からない。


 ――なんだか、嫌な感じだわ。


 ただの話題の一つだったのかもしれない。

 けれど、そうではないかもしれない。


「メルフィーナ様?」

「……なんでもないわ。領主邸に戻りましょう。やらなければならないことが沢山あるものね」


「祝福」に足を運んでくれたことはありがたいけれど、出来るだけ早く済ませて、帰ってもらおう。


 そう胸に決めて、メルフィーナはマリーとセドリックとともに、一番安心できる場所に向かって少し足早に戻っていった。


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