123.不安と祝福の派遣
マリーは白い湯気が立つお茶とともに、毛皮の上掛けも持ってきてくれた。
春が深まり、肌寒さを感じるほどでもない天気である。そこまでしなくても大丈夫だと告げようとしたけれど、上掛けを差し出すマリーの表情は硬く、メルフィーナへの深い気遣いが伝わってきたので、受け取って肩から掛けることにする。
温かいお茶は、メルフィーナが日常的に好んで飲んでいるコーン茶だ。馴染んだ優しい味にほっと息を吐くと、動揺や震えもようやく落ち着いた。
――あんなに動揺して、情けないわ。
いずれ聖女がこの世界に現れることを前提に動いてきた。それはおおむね、上手く行っているといえるだろう。
それでも、自分が現実に生きているこの世界がゲームの中の物語であり、何か大きな存在がメルフィーナや攻略対象たちの運命を操っていると考えるのは恐ろしく、そして不愉快なことだ。
理不尽な運命が、自分だけではなく、親しくなった人々をも支配しているのかもしれないという想像に、恐怖と怒りが湧いてくる。
「メルフィーナ様」
傍に控えていたマリーに小声で名前を呼ばれて、顔を上げる。
「やはり、お部屋で休まれたほうがよろしいのではないですか? 幸い、公爵様もいらっしゃいますし」
騎士たちの主はあくまでアレクシスなので、メルフィーナが席を立っても面目は立つ。
一度メルフィーナが倒れてから、マリーはそれまでより一層、メルフィーナの体調に関して注意深く、過保護なくらいになってしまった。
「大丈夫よ。本当に少し冷えただけだから。お茶を飲んだら大分よくなったわ」
わっ、と歓声が上がったのに便乗して会場に視線を向ける。マリーは納得したわけではなさそうだけれど、それ以上は何も言わなかった。
騎乗した三人の騎士はしっかりと背筋を伸ばし、巧みに馬を操って所定の位置に着いたところだった。弓を構え、二度の試射の後、弓射の競技が始まる。
普段は気さくに話をすることも多いけれど、こうして騎士として振る舞っていると凛々しくも頼もしく感じられるものだ。
まずはローランドが弓を引き絞り、放つ。メルフィーナの感覚では馬から的までの位置はかなり離れているように思えるけれど、まるで中心に向かって吸い込まれるように矢は的の真ん中を射た。
わぁ、と周囲からも感嘆の声が聞こえてくる。
「オルドランドの騎士は弓も一通り学ぶと聞きましたが、見事なものですね……」
磨き抜かれた技術に、思わずメルフィーナも息が漏れる。
精密な工業製品など望むべくもない世界で、個体差が大きいだろう弓を馬上からあれほど正確に射抜けるとは、それだけ研鑽を積んだのだろうし、絶えず努力をしてきたのだろう。
続いてジグムント、それからセドリックが弓を射て、それぞれ中央を射る。
次は馬を走らせながらの弓射で、これはジグムントが圧勝だった。馬を止めている時と変わらない成績のジグムントに対し、ローランドは三射ともをからくも的に当て、セドリックは一射を外す。
それでも、かなりの速度で走っている馬の上から体をぶれさせることなく弓をつがえ、放つことに相当の技量と体力が必要なのは明らかだ。
騎士は十二歳前後から小姓に上がり、騎士の身の回りの雑用をこなしながら騎士としての生き方を学ぶ。成長すれば従士として盾を持ち、騎士とともに戦いながら武勲を上げ、騎士として叙任されることを目指すという。
それもこれも、魔物を倒す力を蓄え、北部を守るためだ。これまで貴人の警護とはいえ駐留は騎士にとっては名誉なことではないという言葉にあまりピンときていなかったけれど、なるほど、こうして見れば彼らは守る者というより、戦う者なのだと感じさせる。
弓射の試合はジグムントが勝利し、セドリックの肩を労わるようにローランドが叩いている。
「ジグムントの腕は相変わらずだな」
「ジグムントが木から落ちる葉を一弓で五枚射抜いたという話は有名ですしね」
アレクシスとオーギュストが感心するように話しているのが聞こえてくる。騎士の作法には完全に素人のメルフィーナの目から見ても、ジグムントの腕は頭一つ飛び出しているように思えた。
「セドリックは弓が苦手なんですね」
「あいつの真髄は剣ですね。正直、セドリック以上の剣術の使い手は公爵様くらいのものでしょう」
「あれの剣には神が宿っている。混戦や魔法を交えた勝負ならともかく、純粋な一騎打ちなら私が膝に土を付けることになるだろう」
アレクシスがあっさりと告げるのに、メルフィーナは少し驚く。
これまで騎士たちの口から、アレクシスの武功がいかに高いかを折に触れて告げられていたし、メルフィーナもそれを疑ったことは一度もない。
ゲームの中でも、北部の最高戦力と言わしめる高い魔力と戦闘能力を持っていると明記されていたからだ。
けれど、セドリックも攻略対象であり、その基本の能力はパラメーターによる得意不得意はあっても、本来アレクシスに勝るとも劣らないスペックであるはずだ。
弓術が終わると、短い休憩を挟んで剣術の演武が始まる。その間に観客たちも飲食物を求めて屋台に並んだり、遠くを見れば設置されているトイレも行列が出来ていた。
「屋外トイレの数を増やした方がいいかしら。でも、あまり増やすと回収に手間もかかるわよね」
「もう少し数を増やすのはいいと思います。元々エンカー地方で暮らしている人たちはもうトイレで用を足すのが習慣になっていますが、人足は入れ代わり立ち代わりなので、兵士が注意をすることも多いようなので」
外から来た人たちにはトイレに並んだり、探したりする手間を惜しむ者がどうしても出てしまうようだ。
「後でどこにどれだけ増設するか、相談しなきゃね」
「エンカー村とメルト村で、聞き取りを行いましょう。結果は後ほどご報告しますので」
マリーは今日もデキる秘書だ。打てば響くような受け答えに微笑むと、マリーもほっとしたように笑った。
「顔色がよくなったようで、よかったです、メルフィーナ様」
「心配をかけてごめんなさいね」
マリーはお茶のお代わりを淹れてきますね、と告げてそっと離れていった。
「相変わらず仲がよさそうだ。まるで姉妹だな」
「ええ、マリーのことは頼りになる秘書以上に、妹のように思っています」
アレクシスの言葉に正直に告げると、彼はただ頷いた。
「そういえば、エンカー地方の子供たちに神殿と教会で祝福を受けさせたいのですが、集団で行う場合は何か特別なお礼などを用意したほうがいいのでしょうか」
「平民の子供たちを、ということか?」
「ええ、何人か「才能」の片鱗を見せる子供たちも増えてきました。どんな道を進むかは彼らの決めるところですが、何の「才能」があるか分かれば、向いた道を選びやすいと思って」
祝福を受けることそのものは特に珍しいものでもないけれど、地方によっては神殿や教会がない土地もあり、全員が受けるというものでもない。アレクシスもわざわざ神殿や教会のある場所まで集団で移動するとは思わなかったのだろう。
「人数にもよるが、人数が多いと移動も手間だろう。神官と司祭の派遣を依頼すればいい」
「そんな方法があるんですか」
メルフィーナは十一歳になった頃、王都にある神殿まで足を運んで祝福を受けた。同じ日に何人か貴族の娘たちが集っていたので、なんとなく神殿や教会まで足を運んで受けるものだというイメージだった。
「地方領主が自分の子供達に祝福を受けさせる折に、見込みのある家臣の子女も受けさせる時は、神官や司祭を呼ぶことがある。オルドランド家で懇意にしている神官と司祭でよければ、声を掛けてみよう」
「是非お願いします。お礼と滞在の折の作法についても、失礼のないように教えてもらえると助かります」
「そちらは執政官のほうが詳しいだろう。オーギュスト」
「慣例について抜けがないよう、執政官と話を通しておきましょう。本来ならエンカー地方に神殿と教会を建ててもらえれば一番いいんでしょうけど」
「先日のプルイーナ討伐の折の神官の様子だと、今後数年は無理だろう。派遣の実績を作って数年に一度、定期的に寄越してもらうのが確実なはずだ」
ユリウスがエンカー地方を訪れたあの時点で、神殿と教会は聖女の降臨を把握しているらしいと知った。聖女降臨を控え、地方に新たな神殿や教会を誘致する余裕がないということは、なんとなく想像がつく。
けれど、アレクシスは、まるでその内情を知っているかのような口ぶりだった。
――もしかして、アレクシスも来年、聖女が訪れるのを知っているのかもしれない。
その予想は、メルフィーナの胸をざわつかせた。
最近は、穏やかに接することもできるようになり、公爵領との取引も順調だ。マリアの降臨はそれを大きく変えることになりかねない。
だから、こんなふうに落ち着かない気持ちになるのだろう。
休憩を終えて、会場には帯剣した騎士たちが戻ってきた。わっ、と観客たちのざわめきが、貴賓席までしっかりと伝わって来た。
メルフィーナは聖女そのものより、世界と運命と神に恐れと怒りがある感じです。
世界のことは若干気持ち悪いと嫌悪感も抱いています。
メルフィーナの感情について確かに分かりにくかったなと思ったので、前話以前の話も後で修正すると思います。