121.菜園と実験圃場
開け放した窓の向こうから、名前を呼ぶ声が聞こえる。
顔を上げると、領主邸までの道のりの半ばに、後ろに長身の男性二人を伴ってマリーがこちらに歩いてきているところだった。軽く手を振り、作業の手を止めてメルフィーナもセドリックを伴い作業小屋として使っている家から出た。
春も随分深くなった。朝晩の厳しい冷え込みも和らぎ、今日も暖かい日差しが降り注いでいる。
「マリー、お疲れ様。公爵様、出迎えが出来ずすみません」
「いや、今回は客というわけでもないから構わない」
相変わらず感情の読みにくい表情でさらりと告げて、アレクシスはメルフィーナが作業していた家と囲いをした畑に視線を向ける。
「菜園にいると聞いたが、随分厳重なんだな。靴も服も着替えさせられたが」
「服や靴を替えるのはとても重要ですよ。ここに来る前に踏んだ土に病気の元があった場合、この圃場にも一気に広がりますから」
とはいえ、この世界で圃場に入るたびに靴を替えろという要求が習慣として根付くとは、メルフィーナも思っていない。せいぜい自分が管理しているこの実験圃場で徹底できる程度だろう。
「ここでも芋を育てているんだな」
「ええ、公爵家の圃場での様子はどうですか?」
「君の言うとおりに処置した畑で、限られた庭師に世話をさせている。今のところ問題なく育っているそうだ」
その言葉に、メルフィーナも満足して頷く。
「飢饉が去った後の一番の問題は、その年の天候に恵まれるかどうかと、種芋が確保できるかどうかです。トウモロコシはとても優秀な作物ですが、土地単位の収穫と栄養価に関してはジャガイモに軍配が上がりますから」
「天候は人の身ではどうにもならないが、種芋の準備は今からでも出来ると言うことだな」
「はい。幸い、十分他の畑と距離を取り隔離して、病気の持ち込みにさえ気を付ければこのように問題なく芋を育てることはできます。後は一刻も早く、病気が去ることを祈るばかりですね」
それも、来年の夏には解決するだろう。病気のことはどうにもならないけれど、政治で解決できることは準備しておくことができる。
マリーがお茶を用意してくれている間、アレクシスを作業小屋に増設したテラスに案内する。屋根付きで風通りがよく、今日は特に心地よい風が吹いていた。
「晴れてよかった。騎士や兵士たちも喜ぶでしょう」
「貴人の警護とはいえ、地方への駐留は騎士や兵士にとってはあまり名誉なこととは言えないからな。君に労いの機会を作ってもらえて、私も助かった」
冬の始まりにセレーネの護衛としてエンカー地方に駐留している騎士と兵士たちと、暖かくなったら武闘会を開くのはどうかと話をしていたけれど、ようやくその準備が整った。
アレクシスも多忙であることは知っていたので、断られるのを前提で観覧に招待したけれど、時間を調整して顔を出すと返事が来た時にはマリーやセドリックと共に驚いたものだ。
「そちらもとても忙しいと聞いていますが、無理をなさったのではないですか?」
ソアラソンヌからエンカー地方まで、馬車を使えばどうしても往復一週間近くかかってしまう。そんなに長く公爵家を空けても大丈夫なのかと、誘っておきながら心配になる始末だ。
「ギリギリまでオーギュストを代理で行かせることになりそうだったが、文官たちが頑張ってくれてな。私が公爵家に籠っていると、彼らも息がつまるのだろう」
「みんな閣下に、少しは太陽を浴びて欲しいんですよ。激務にひーひー言っていても、一番働いているのが閣下だと皆判っていますから」
オーギュストの言葉にアレクシスはふん、と鼻を鳴らしたけれど、これは機嫌が悪いというより、無理をしなくても構わないのにと本気で思っているのだろう。
アレクシスは感情表現が単純かつ表情が読みにくいのと、座っているだけで妙に威圧的な感じがするので、それで随分損をしている。
こうしてみると、オーギュストみたいに場を和らげる人が傍にいるのは、しみじみ、良い出会いだったのだろうと思う。
「メルフィーナ様、どうぞ」
「ありがとう、マリー」
マリーが淹れてくれたお茶を傾け、その爽やかな香味に息を呑み、メルフィーナは微笑む。
「約束の紅茶ですね」
「ああ、公爵家の伝手で手に入る、一番いいものだ」
「ふふ、王都でも中々、これほどの質の紅茶を飲む機会はありませんでした」
ミルクを入れるのがもったいない、華やかな香りが口の中に残る。
天気が良く、気持ちのいい風が吹いていることも相まって、とてもいい気分だ。
「領主邸の周辺も、ほんの数か月で随分様変わりしていて驚いた」
「多くの人が働いてくれていますから。魔法使いは本当にすごいですね。農業用の用水路は人足に掘ってもらっていますが、はるかに深い水濠がどんどん堀り進められていくので、毎日領主邸から見るのが楽しみです」
「ああ。領都の壁の保守にも彼らはよく働いてくれる。開発には無くてはならない存在だな。――そういえば、象牙の塔の魔法使い殿は、まだ村にいるのか?」
「ええ、先日は熊を狩ったそうで」
「……熊?」
訝し気に復唱するアレクシスに、メルフィーナもカップを持ったまま苦笑を漏らす。
「冬眠から目覚めたばかりの熊が迷い込んできたようですね。領主邸に使いを走らせる傍ら、村人が総出で討伐に向かったところ、ユリウス様が一撃で倒されたそうで」
北部に出る熊は、前世の知識にあるヒグマに似ていて、かなり大きな個体が多いと聞く。
執着心もヒグマに近いようで、一度狩場に定められると何度も出没するらしく、代官が騎士や魔法使いを派遣する規模の街や村はともかく地方の小さな集落は、一度狩場にされれば生存をかけて村人総出で狩りに出るか、時には集落を捨てることすらあるという。
それほどの脅威であっても、ユリウスには寝覚めのあくびのついでに仕留められる程度のものらしい。
つくづく、ユリウスを長屋に寝泊まりさせなくてよかったと胸を撫で下ろしたものだった。
北部の領主として春の熊の恐ろしさはアレクシスも理解しているようで、その顔には珍しく感心と呆れが半々に混じり合うような色が出ていた。
「象牙の塔に所属する魔法使いは人知を超えていると聞くが、事実なようだな」
「ええ、みんなでその熊を鍋にして食べたらしく、すっかりユリウス様とも打ち解けたようです」
「鍋か。……あれは美味いからな」
少し懐かしむように言うアレクシスに、視線を向ける。
「公爵様も熊鍋を食べたことがあるのですか?」
「魔物討伐の遠征中に、穴持たずの脅威に晒された村に立ち寄ることもある。討伐後、村民が騎士への振る舞いとして出してくれた」
穴持たずというのは、冬眠をし損ねた熊のことだろう。非常に凶暴で危険な存在だと、メルフィーナも知識の上でだけは知っている。
魔物の討伐だけでも十分危険な仕事であるのに、騎士団の負荷は随分大きそうだ。
アレクシスはカップを置くと、圃場に目を向ける。
「それにしても、見事な畑だな。君の個人所有だと聞いたが」
「ええ、といっても実験用の畑です。結果が左右される私の実験に、村の畑を使わせてもらうのも悪いので」
水濠で囲まれつつある領主邸の敷地は、直径三百メートルと非常に大規模なものだ。
その範囲には元々民家やそこに住まう住人もいたけれど、今回の工事が始まる前に、代替地として同じ規模の畑と家を用意することで接収に応じてもらうことになった。
いずれはこの敷地内にエンカー地方の行政区を丸々抱え込むつもりだけれど、現在はその一部がメルフィーナ所有の実験圃場になっている。周囲を柵で囲み、この中にはメルフィーナと、圃場の世話をする数人だけが入ることを許されていた。
セドリックに家の中に置いてきたものを取って来るように頼むと、オーギュストに視線を向ける。それを受けてオーギュストが頷いたのを確認してから、護衛騎士は傍から離れた。
「すみません。空き時間が貴重なので、作業しながらお話しします」
アレクシスは気にした様子もなく頷いた。あまり他人に関心がないのだろう、マリーとよく似た薄い水色の瞳は、ずっと圃場の方に向いている。
「あそこに見えるのが、壁面果樹栽培か」
「ええ、日中太陽光で温められた壁の蓄熱で、果樹の栽培を促進するものです。上手く行ったらいずれエンカー村やメルト村に防壁をつくる際にも、転用することになります」
「ソアラソンヌの有り余る壁にも適用できそうだな」
「よければ、後で向いている果樹の種類をお教えしますので、試してみてはいかがですか?」
多少距離があるとはいえ、時差が生じるほど離れているわけではないソアラソンヌなら、エンカー地方とそう条件も違わないだろう。
膨大な壁を利用して、最も効果的な果樹があればフィードバックしてくれればメルフィーナとしても利益はある。
「君は相変わらず、知識を独り占めしようとはしないのだな」
「見ればすぐに真似できるものに関しては、秘匿の努力は無駄ですから」
用水路を掘ったり壁に果樹を添わせて植えたりする技術は、一目見れば模倣はとても容易いものだ。技術の秘匿が必要な開発は領主邸の地下で行っているし、今後も規模は変わっても、そうなるだろう。
セドリックが持ってきてくれた植物紙の上に容器に入った種を広げ、指先で仕分けをしていくのに目を向けると、不思議そうに軽く首を傾げられる。
「今は、何をしているんだ?」
「「鑑定」を使って、種を選別しています」
ちょうど、今やっているのは甜菜の種の選別である。
片手間で出来るものなので寝る前に寝室でやってしまいたいところだけれど、一度「分離」の実験で倒れたことがあるので、マリーとセドリックに強く止められてしまっている。
「鑑定」にはほとんど魔力を使わないと言っても、これに関しては譲る気はなさそうだ。
「より大きな実をつけ、より砂糖の素が取れる形質――可能性の高い種を選別し、植えて、またそれから種を取り、さらにその可能性の高い種を選別する。これを繰り返すことで、どんどん大きく砂糖がよく取れる新たな品種になります」
「それは、気の遠くなるような作業だな……」
「そうですか? こんなに簡単なことはありませんよ。「鑑定」がなければすべての種を植えてみて、大きな実だけを残して収穫し、種を取り出してまた植えて、を何十回も繰り返さなければならないところです」
実際、甜菜糖が作られると発見されてからメルフィーナの前世が生きていた時代になるまで、甜菜が含む糖の量は実に二十倍以上も増えていた。
糖度計もない時代から始めてその育種に二百年をかけたことを思えば、こうして鑑定を使いながら選別する方法など、チート以外の何物でもない。
「うちの領でも、「鑑定」の才能が出たら、手厚く迎えなければならないな」
「それは是非、そうするべきですし、しかるべき教育を施すべきだと思います」
すっすっ、と指先で「鑑定」を行っては見込みのある種を選別し、植物紙を折った袋に入れていく。
大きさは変わらないけれど糖度が高くなる可能性のある種と、実が肥大する種は分けて、いずれどちらの形質も出るように掛け合わせることになる。
「「鑑定」の精度は、それを使う人の知識や経験に大きく左右されます。たとえば私の「鑑定」は料理や農作物にはある程度効果的ですが、宝石や芸術品に対しては専門の商人の持つ「鑑定」には足元にも及びません」
メルフィーナの「鑑定」をチート足らしめているのは、結局のところ、前世の記憶によるものだ。
メルフィーナが「鑑定」すれば、味のいいエールを造ったりパン種をよく膨らませたりする酵母を選定することもできるし、食べ物にどの程度のたんぱく質やビタミン類が含まれているのかまで分かるけれど、この世界には栄養学という考え方はまだまだ萌芽すらない。
その知識がなく同じものを鑑定しても、どの生き物の肉であるとか、その生き物を解体したことがあるならそれはどの部位であるかとか、分かるのはそのあたりまでである。
「「鑑定」を持った人に品種改良をさせるなら、農民に交じって畑を耕し、その作物がどんなふうに生長し、収穫までにどんなトラブルが起きて、収穫するときは条件によりどれくらいの個体差が出るのかまで知った上でないと難しいでしょう」
そして皮肉なことに、「鑑定」に目覚めるのは多彩な品物を見る機会のある貴族か、幼くして商人に奉公に上がった子供といった、農民とは縁の薄い立場の者が圧倒的に多い。
「トウモロコシも冬の間に選別しておいたので、今年は去年より圃場あたりの収穫量は上がると思います。五年もそれを繰り返せば、数倍は肥大するようになるでしょうし、味もかなり良くなっていると思いますよ」
「夢のような話だ。それは、麦などでも可能なのか」
「ええ、もちろん。いずれ干ばつや多雨の年でも病気の発生しにくい、白く柔らかいパンが焼ける大粒の小麦も誕生します」
前世の主食だった米だけでも、メルフィーナが思い出せる限りで十数種類の品種が当たり前に手に入る状態だった。
そして作物は容易く他の形質と混じって雑種化し、ウイルス感染で種が汚染される可能性もあるので、必ず良い作物を作りたいなら自家栽培で種を取るより、信頼できる種苗業者からその年の種を買う方が効率がよくなる。
この世界に種苗業という職業が成り立つまでに、長い時間が必要だろう。もしかしたらメルフィーナが生きているうちは無理かもしれない。
けれど、品種改良と信頼できる種苗という考え方を定着させるところまでは、きっとできるはずだ。
「それまでと同じ労働で多くの実りを手に入れることが出来れば、人の暮らしは格段に豊かになるはずです。多くの人が幸せに暮らすことが出来れば、とても素晴らしいと思いませんか?」
「そうだな」
アレクシスは真顔で頷くと、僅かに口角を上げる。注意深く見なければ、笑っているとは思わない程度のささやかな笑みだ。
「君のその考え方は、私も好きだ。今後家を継ぐ予定のない立場で「鑑定」の「才能」を持つ者が希望するなら、その道を勧めようと思う」
頑固で頭が固そうに見えて、アレクシスは案外柔軟な考え方をする。新しいものを取り入れることに抵抗はないし、一度約束すればそれを守る努力が出来る人だ。
――あとはもう少し、感情が表に出れば周囲から必要以上に怖がられることもないでしょうに。
ゲームのメルフィーナも、アレクシスが何を考えているか、おそらく最後まで理解できなかっただろう。
もっとも今の自分も、彼に関しては分からないことだらけだけれど。
言葉が途切れ、メルフィーナが種の選別を終えるまで、静かな時間が過ぎていった。
春の風は暖かく、沈黙は気まずいものではなくて、傍にいるマリーやセドリック、オーギュストもどこか穏やかな表情をしていた。
メルフィーナとアレクシスは、別れ話が終わった後の方が相手に優しくできるみたいな関係です。
「鑑定」と前世の知識が組み合わさるとシンプルにチートですね。
 




