113.実績と信頼
「あなたの言いたいことは分かったわ、ヘルムート」
努めて冷静な声で応えたメルフィーナの次の言葉を待つように、一同はしんと静まり返っていた。
「でも、私が去年エンカー地方でやったことは、前例の無いものが多かったの。エンカー地方の人たちは、いきなりやってきて何をしているかよく分からない私の行動に根気よく付き合って、一緒に結果を出してくれたわ。それについてはあなたも認めるところでしょう?」
「頂いた資料によるとそのようではありますが、領民が領主に従うのは、当たり前のことかと」
「そう。では逆はどうかしら。彼らには去年私と実績を出したノウハウがしっかり身についているわ。それは今年、新しく開墾する際に必ず役に立つと思うの。でも、あなたが言うように新参の代官が来たとして、その代官は知識のある彼らの願い通りに動いてくれると思う? それとも、その代官にまた私が一からやり方を説明していかなければならないのかしら」
開拓民や元農奴の希望する通りに動く貴人は、そうそういないだろう。メルフィーナ自身、貴族として振る舞うときに使用人や商人から指図をされる状況は考えられないことだ。
メルフィーナは頬に手を当て、軽く首を傾げて、ふう、と息を吐く。
「今年は去年と違って、エンカー地方の整備に本格的に着手するし、私もそちらに時間を取られることになると思うわ。だからこそ、あなたたち執政官の補佐を必要としているのに、また去年と同じ仕事もしなければならないなんて、体がいくつあっても足りないわね」
「知識が労働者にあるならば、管理する側にその知識は必要ない、ということにはなりませんね」
マリーが静かな声で告げるのに、メルフィーナも頷く。
「むしろ、指示する側に誰よりもいつどこでどうする、それはなぜなのかが身についていなければ、結局現場と諍いが起きるだけではない? ここから一年、農民に交じって代官が全く同じ仕事をしてくれるならまだしも、それが出来るかしら」
「なるほど……メルフィーナ様は、あくまで現場を優先したい、ということですか」
「あなたの言うことが間違っていると言っているわけではないの、ヘルムート。現場と事務方、どちらも大切な仕事よ。ただ、今の時点で右も左も分からない新任の代官を入れるのは、結局どちらも混乱させるだけになると思っているだけ」
ヘルムートは癇性な目でエンカー村、メルト村の人々を見て、それから小さく、頭を横に振る。
「確かに、メルフィーナ様の仰る通りであると思います。私が早計でした。――ですが、内政を補佐する執政官として、産業の管理に高い身分と教養を持つ人間が必要であるという意見は変わりません。彼らが問題なくメルフィーナ様の割り振った仕事をこなせるか、見せていただきましょう」
「ええ、私は彼らに全幅の信頼を置いています。あなたを失望させるようなことにはならないわ」
「そうなればいいと、私も思います。結果はおのずと知れるでしょう」
そう告げて、ヘルムートが口をつぐんだことで打ち合わせは再開した。
心なしかルッツやフリッツ、ニドも背筋が伸びたようだ。
「どうか、新しい取り組みについてもあまり緊張はしないでね。やること自体は去年と同じなのだから」
「メルフィーナ様の期待に応えられるよう、俺たちも頑張ります」
「ええ、すぐ村に戻って、今日の打ち合わせの周知も徹底しますので」
フリッツとニドがしっかりと言う言葉に頷く。
――ヘルムートとは、少しお話をしなければいけないわね。
つんと澄ました様子でそれきり口を利かなかった執政官に、メルフィーナはほう、と小さく息を吐いた。
* * *
急ぎの仕事としては新しい集落と農業用水池の場所の選定、移住希望者の取りまとめ方法などでその日の話は終わり、メルフィーナとマリー、執政官の二人は馬車で、セドリックは騎乗で領主邸へと帰路についた。
「ヘルムート、本当にあれでよかったのかしら。あなた、相当嫌われてしまったと思うのだけれど」
その問いかけに、向かいに座る執政官はなんの痛痒も感じていないように頷く。
「政治には嫌われ者も必要です。それに、地方執政官は領民に嫌われるのに慣れています。それ込みで高給を頂いているので、メルフィーナ様がお気になさることはありませんよ」
打って変わってからりと笑うヘルムートに、隣に座るもう一人の執政官、ギュンターも苦笑を漏らす。
「メルフィーナ様、これはその辺、とても塩梅が上手いので、本当にお気遣い頂かなくても大丈夫ですよ。むしろ楽しんでいるくらいでしょう」
「私は被虐も嗜虐も趣味ではないぞ。必要だと思うからそうしているだけだ」
「強いて言うなら、政治が趣味なのですよ。領都で栄達するだけの実績もコネもあるくせに、好き好んで地方執政官の道を選んでいるくらいですから」
二人は領都にいる時から近しい関係だったらしく、やり取りも遠慮はないが息の合ったものだ。
今日の話し合いを持つ前に、ヘルムートからは、多少きついことも言うけれど、頭ごなしに否定だけはしないようにと頼まれていた。領主邸にいた時とは打って変わって冷淡で尊大さが目立つ態度になったことには驚いたけれど、発言の内容としては予想の範囲内というところだろう。
今後エンカー地方が発展していく中で、高官や役職に平民以上の身分の者の登用を求められるのは、遅かれ早かれやってくることだ。
正式に公爵家の後援を得たことで、耳の早い者ならばすぐさま動き出していても不思議ではない。
エンカー地方は陸の孤島として細々とした開拓を何十年と続けてきた土地だ。開拓民と農奴以外は、時折税の徴収に訪れる代官やその警護をしている兵士程度しか知らない者が大半である。
ルッツやニドのような、村を率いている立場にそういう考え方をする者がいるのだと、今の時点で知っておくことも必要だとヘルムートは考えたのだろう。
「でも、あなた一人を悪者にしているようで、申し訳ないわ」
「メルフィーナ様。我々は領主としてのメルフィーナ様の補佐をするために派遣された執政官です。メルフィーナ様がお優しく、思慮深い方であるとは聞いていますが、それだけでは政治は回りません」
ヘルムートはきっぱりと言って、それからふっと表情を陰らせる。
「これは我々地方執政官が任期中に耳に染みつくほど聞かされる話です。とあるところに非常に慈悲深い代官がいました。税を納められない農民がいれば納付が遅れることを認め、体を壊して賦役が行えない農奴がいれば、治療に専念するよう自費で教会に行かせてやっていたそうです」
「それは……素晴らしい方なのではないかしら」
「ええ、ですがその代官が治めている間、領地はひどく荒れました。体調が悪いと農民はすぐに仕事を休むようになり、畑地の管理が疎かになり、病害虫によって収穫は激減。地代が納められないと赤子を抱いた女が明日食べる芋も無いのだと泣いて詫びれば強く納付を勧告することも出来ず、やがて食い詰めた者が徒党を組むようになり、治安もひどく悪化しました」
「結局その領は、早い段階で息子が代官の地位を継ぎ「慈悲深い代官」は自宅に半ば幽閉される形で引退することになりました。息子は父親に似ず中々苛烈な性格でして、税を納められない農民は農奴に落とし、仕事が出来ない農奴は鉱山に使い捨ての労働力として追いやり、法を犯す者は重罰に処していきました。最初こそ反発は大きかったものの、数年もすれば元の安定した農村の姿を取り戻したということです」
「これが本当にあった話なのか、甘すぎる政治は結局混乱を招くのだという戒めの作り話であるのかは分かりませんが、人は決して真摯で真面目なだけではありません。狡い者も、自分が楽をするために人を騙そうとする者も、多いものです」
ギュンターの言葉に、ヘルムートも厳かに頷く。
「領が大きくなれば、自然とならず者も増えてくるでしょう。例えば明日、食料の強奪を目的に盗賊が襲ってきて、兵士たちに取り押さえられたとします。メルフィーナ様は、慣例に従い捕らえられた盗賊の首を刎ね、首が朽ちるまで村の外に晒すよう、命じることはできるでしょうか」
「………」
おそらく、出来ないだろう。実際に出来なかった過去が、メルフィーナにはある。
あの時の彼らは良くて、今やってきた盗賊は駄目だと判断すること自体、メルフィーナには重いストレスになるのは自明だった。
「メルフィーナ様は領主として、エンカー地方一帯の裁判権をお持ちです。メルフィーナ様が適切に法を守らせるよう動かなければ、被害に遭うのは日々真面目に暮らしている領民たちです」
「私達地方執政官は、任地先との癒着を防ぐため、ある程度の期間で土地を去ることになります。いずれはメルフィーナ様がその判断を下せるようになる必要がありますが、それまでは我々が補佐しますので」
ギュンターがフォローするように言い添えて、メルフィーナも神妙に頷く。
「そうね。今の私では、足りないところだらけだわ。あなたたちに頼るところはとても多いと思います。ヘルムート、ギュンター。改めて、よろしくお願いします」
「我々の目線はあくまで政治を行う者のものなので、平民には厳しすぎる一面もあるのは確かです。メルフィーナ様の描く領地がどんな姿になるのかは、都度、お伝えください。齟齬が生じたままだと取り返しのつかないことになりかねないので」
「それと、他の領の貴族や、オルドランド直臣の貴族が直接メルフィーナ様に何か言って来た場合も、すぐにお伝えください。オルドランド直臣はアレクシス様の苛烈さをよく知っているので滅多にないとは思いますが、それこそ直接家の仕事に関わらない次男三男が優遇を求めてやってくるなんてことは、いかにもありそうなことなので」
「ああ、高官につけろとか、知識を提供するから食客にとか、その辺りはありそうだな」
「読み書きが出来るだけで賢者気取りの貴族の若者は実際にいるからな。度し難い話だが」
よほど過去に嫌なことでもあったのか、そう言い合うヘルムートとギュンターの会話に、ふふ、と小さく笑い声が挟まる。
「マリー?」
「いえ、失礼しました。……メルフィーナ様に対して知識を提供というのが、なんだかおかしくて」
「私も知らないことは沢山あるわよ? 今日だって二人にすっかり諭されてしまったわ」
マリーは口元に笑みを浮かべたまま、軽く首を横に振った。
「メルフィーナ様のお優しさは、甘さと似ているようで、違うものです。――きっとギュンター様もヘルムート様も、いずれお解りになります。メルフィーナ様の、他と替えがたい価値というものを」
マリーがあまりにきっぱりと言うので、ギュンターもヘルムートも口をつぐんでしまった。
「……うちの秘書は、どうも、私のことが大好き過ぎるの。これもエンカー地方領主邸の持ち味だと思って、慣れてちょうだい」
「かしこまりました」
「心得ました」
そう答えた二人に曖昧に笑ってちらりとマリーを横目で見ると、マリーはまるでその視線が送られるのを見越していたかのように、メルフィーナを見ていた。
「私の言葉が真実だったとお二人が思うのも、時間の問題ですよ。セドリックさんもそう言っていました」
「なるほど、持ち味ですね」
「中々新鮮です」
二人が微笑まし気に笑ったことで、馬車の中の雰囲気はなんとなく、気恥ずかしいものになる。
「もう、マリーったら」
「私、本気ですよ?」
軽く首を傾げたことで、マリーの淡い淡い金の髪がさらりと揺れる。
秘書はメルフィーナが大好きなだけでなく、可愛い仕草で懐柔することまで、いつの間にか覚えてしまったようだった。
地方執政官は現代で言うと地方任期を果たしている警察官僚に近い高級職です。
政治的立場としては領主→家令(執事)→州長官(行政長官)→地方執政官→町や村の代官→市場管理者くらいの立場にあります。
領主は領地の裁判権を持ちますが、代官に委任していることも多いです。現在エンカー地方には代官が置かれていないので、しばらくは地方執政官の二人がその代理人として動くケースも多くなります。
マリーは名目上メルフィーナの秘書ですが、役職としては家令と執政官の間を務めることもあります。
お話の中では数年契約で公爵家から文官のまとめ役が来て、あれこれ内政のために動いているんだな、くらいの認識で読んでいただければ大丈夫です。




