109.雪解けと冬の終わり
馬車が止まり、外からドアが開けられる。
「メルフィーナ様、足元が悪いので、お気をつけてください」
馬から下りたセドリックの差し出した手に手を重ね、ステップから地面に足を付けると、なるほど、ぬるりと柔らかい感触だった。
空気は柔らかく肌寒さは感じないものの、そこかしこで解けだした雪のため、湿度が高い。
メルフィーナに続いて馬車から降りたセレーネは、路肩に寄せられた雪をつま先で蹴っている。
「セレーネ、転ばないように気を付けて」
「はい、姉様!」
明るい返事の後、セレーネは歩き出したメルフィーナの少し後ろをのんびりとした歩調で進む。
「最近は暖かい日が続いていましたけど、もうすぐ雪も終わりですね。やっぱり、フランチェスカはルクセンより春が早いです」
「ルクセンだともうしばらく雪は残っているのかしら?」
「年によっては五月の半ばくらいまで解け残っている時もあります。暖かくて解けるというより、雨で溶け流されるという感じでしょうか」
ルクセンはエンカー地方よりさらに北に位置する国だ。なるほど、春の訪れもフランチェスカより遅いらしい。
「セレーネは、雪は見飽きているのではなくて?」
「ルクセンではこんな風に外を歩き回ることがありませんでしたから」
暖かくなって、セレーネの体調も随分と安定してきた。背も少し伸びたようで、春物にはもう少し大きなサイズの服を用意した方がいいだろう。
セレーネを預かるのは冬の間、という話だったけれど、結局本人の強い希望もあって、もうしばらくエンカー地方に滞在することが決まったのは、まだ雪が積もっていた頃、アレクシスが領主邸に滞在していた時期だった。
エンカー地方に来て随分体が丈夫になったことと、これから先、しばらくエンカー地方はメルフィーナの主導によって都市化を目標に大きくなっていくのをいずれ治世を行う立場として間近で見たいというセレーネに、アレクシスは理解を示し、フランチェスカ王室と交渉を請け負ってくれた。
元々、飢饉が最もマシなのが北部であるという理由でオルドランド家に預けられたことと、その飢饉が未だ予断を許さない状態であることも加味され、もうしばらくセレーネが北部に滞在をする許可が下りたのは、つい先日のことだった。
――来年の初夏、マリアがこの世界に降り立つまでには王都に身柄を移すことになるかもしれないけれど。
「姉様?」
「いえ、今日は顔色がよくて、よかったわ」
セレーネは照れくさそうに笑う。メルフィーナの到着に子供たちがわらわらと走り寄ってきた。
「メル様! いらっしゃい!」
「こんにちはレナ。ニドはどこかしら」
「呼んでくる? 一緒に行く?」
「じゃあ、一緒に行きましょう」
嬉しそうに笑うレナの頭を撫でて、子供たちに先導されながらゆっくりとした歩調で歩く。
冬の間はあまり顔を見ることが出来なかったけれど、子供たちの誰も、去年の春に初めて会った時よりふっくらと肉付きがよく、子供らしい体形になっている。
着ている服も長袖のシャツの上から厚手の上着を羽織り、温かそうな様子だった。
「今日は、集落の分離についてのお話なんですよね?」
「ええ、どうも魔物は人が多く集まっていると発生しやすくなるようなので、とりあえず元のメルト村の人口くらいの集落を作っていこうと思っているの。あまり距離があると連絡のやり取りが大変になるのだけれど、開拓していく土地はまだまだあるので、しばらくは試行錯誤ね」
「魔物ですか……ルクセンでも囲いが不十分な街などでは、防壁を突破してくることがあると聞きます。魔力が強いと倒せる者も限られるので、領主や騎士が討伐に出ることも多いと」
「発生条件をもう少し精査できるといいのだけれど、研究している人も少ないらしいので、エンカー地方ではしっかり記録を取っていくことになるわね。ある程度条件が決まっていて、それが分かれば対策も取りやすいし」
話しながら、ふと視線を上げると、冬撒きの小麦が伸び始め、春風に揺れている。
もうしばらくして湿度が下がれば、荒野を焼き、肥料を作り、去年と同じように畑を広げていくことになるだろう。
冬に農奴として迎え入れた旧ダンテス領の人々の他、地方からも小作人の仕事を求めて少しずつエンカー地方に人が集まり始めている。
メルフィーナとともに耕地を作ったメルト村の人々を中心に、今年も農地を広げ、北部に食料を供給しながら街を造ることになる。
「今年は、去年以上に忙しくなるわね」
「執政官も何人か入りましたし、メルフィーナ様は出来るだけ休まれてくださいね」
去年の夏から秋にかけての忙しさを思い出したのだろう、マリーは真面目な口調で言って、セドリックも神妙に頷いている。
「私だって出来ればのんびりしたいのだけれど、今年はやることがすごく多いでしょうから、去年より忙しいかもしれないわね」
「メルフィーナ様」
「勿論、適宜休みます。私が休まないと、マリーもセドリックも全然休もうとしないのだもの」
背筋を伸ばしてかしこまって言うと、セレーネはくすくすと笑い、マリーもセドリックも、毒気を抜かれたように苦笑を浮かべた。
メルト村から見渡す限り、広がる農地に視線を向ける。
地平近くまであった畑は、今年はここから目では追いきれないほど遠くまで、広がることになるだろう。
そして来年、再来年と年を重ねるごとに、どんどん違う風景になっていくはずだ。
「姉様、どうしたんですか?」
足を止めて景色に見入っていると、セレーネが声を掛けた。メルフィーナの傍を歩調を合わせて歩いていた子供たちも、不思議そうな表情でメルフィーナを見上げている。
「――時々考えるの。私はどんな領主になりたいのかなって」
この子達は飢えず、寒い思いをせず、幸せな子供時代を送ってほしい。
獣や魔物に怯えることなく、安全に外を走り回っていてほしい。
そのために必要な力を、これから蓄えていかなければならない。
「姉様は、もう立派な領主ですよね?」
「私は、まだこの土地に来てから一年も過ぎていないの。経験は少ないし、覚悟も全然なかったなと思う事が多くて」
「じゃあ、これから探したらいいですよ」
そのために多くのことを知らなければならない。改めてそう思っていると、セレーネは事も無げに笑いながら言った。
「僕から見たら、姉様は立派にエンカー地方の領主です。この土地を治めて、領民にも慕われていて、誰も飢えさせていません。姉様に対する人の態度を見れば、姉様がどんなふうにこの土地を治めているのか、よく分かります」
セレーネは周りを囲む子供達に目を細めて笑う。
「僕も、最近よく考えます。強くて、優しくて、立派な大人になりたい。でも、その先にあるルクセンの為政者として、どんな王になりたいのかと」
「セレーネ」
「まずは、体を鍛えようと思います! 北の男は強くないとなので!」
ぐっ、と両手の拳を握ってそう言う少年は、どこから見ても普通の男の子だ。
冬の始まりに、儚く解けて消えそうなほど青白く、細かった姿は、もう名残も残っていない。
――私も、強くなろう。
「そうね。まずは強く大きくなりましょう! 美味しいものを食べて、しっかり眠って、仕事をしなきゃ」
「はい、姉様!」
大事だと思ったものをこの手で守れるように。
セレーネとのやり取りを見て笑っているマリーも、セドリックも、子供たちも、みんな幸せにするために。
自分自身が、この場所で幸せになるために。
優しくエンカー地方を走る春の風に、路傍で小さな白い花が揺れていた。
当初の予定より随分長くなってしまいましたが、第三部完結です。
セレーネは北部残留、アレクシスは契約をまとめて領都に帰りました。
第四部はエンカー地方の都市化準備とその他もろもろと、来るゲーム本編の時間軸に向かって二年目の春~冬まで一気に駆け抜けたいと思います。もうしばらくメルフィーナ達のお話にお付き合いいただけると嬉しいです。




