105.甘いミルクティーとポットの中身
マリーにお茶の用意を頼み、秋に増築した客室を訪ねると、いつもと変わらない、感情を覗かせない様子のアレクシスと安堵したようなセドリックが迎え入れてくれた。
アレクシスもセドリックも言葉の多い性格ではないので、二人でいてもそう会話は弾まなかったのだろう。とはいえ、どちらも沈黙を苦にするタイプでもないはずだ。
「公爵様、先程は見苦しい様子を見せてしまって、申し訳ありませんでした。落ち着きましたので、護衛騎士を迎えに参りました」
「いや――私も、すまなかった。君を侮辱する意図はなかったが、不躾な態度を取ったことを謝罪する」
「えっ」
「どうした?」
「いえ、公爵様が謝罪を口にしたのに、少し驚きました」
それは素直な気持ちではあったけれど、さすがにストレートに言い過ぎてしまった。気を悪くしただろうかと思ったものの、アレクシスは眉ひとつ動かしていない。
「君は知らないだろうが、私も悪いと思ったら謝るくらいはする」
「ええ、今初めて知りましたわ。……別に、侮辱されたと思ったわけではありません。あれは私が過剰反応しただけです」
必要とされないこと、疑いの目を向けられることは、メルフィーナにとっては成長過程で抱えたコンプレックスそのものだ。
頭に血が上ったものの、落ち着いてしまえば、取り乱したことが気恥ずかしく感じられる。
「よければお茶をご一緒しませんか。マリーがこちらに運んでくれるので」
「ああ、構わない」
オーギュストがアレクシスの後ろにつき、交換するようにセドリックがメルフィーナの背後に立つ。
背後にセドリックの気配を感じるだけで少し肩から力が抜けた。
やはりこの立ち位置のほうが、安心する。
「置き去りにしてごめんなさいね、セドリック」
「いえ、落ち着かれたようで、よかったです」
ほとんど待つこともなく、ワゴンを押したマリーが入室してくる。今日はコーン茶ではなく、きちんとした紅茶のいい香りが漂ってきていた。
ポットを受け取り、カップふたつに注いですぐに壺からたっぷりと砂糖とミルクを入れ、片方を不思議そうな表情のアレクシスの前に置く。
「最近領主邸で流行りの飲み方です。苦手な人もいるので、残しても構いません」
そう言って、まず自分の分のカップに口を付ける。
上等な茶葉をたっぷりと使って濃い目に淹れた紅茶に、しっかりと甘みが付くほどの砂糖とミルクのマイルドさがとてもよく合う。
疲れた心と体に甘さが染みるようだ。
アレクシスもカップに口を付け、一度離してまじまじとカップの中を覗き込み、すぐに、今度はぐいっと中身を一息で干した。
「……その壺の中身は、砂糖か」
「ええ、気に入ったなら、お代わりもどうぞ」
アレクシスが何か言いたげな表情をしている横で、マリーが新しい紅茶をカップに注ぐ。初回以降は砂糖とミルクはセルフサービスが領主邸のルールである。
「……この量の砂糖は、随分と高価だろう」
「領主邸では比較的好きに使える調味料、というところですね。もちろん、外に出すのはまだ時期尚早ですが」
砂糖はロマーナ共和国からの高価な輸入品であり、南に行くほど比較的安価で北に向かうほど高価なものだ。貴族でも日常的に口にするのは難しく、滋養強壮のための薬のひとつとして扱われている。
この国で最も北に位置するエンカー地方で「好きに使える」が何を意味するのか、アレクシスにはすぐに理解出来たようだった。
「……君は、相変わらず恐ろしい人だな」
唸るように言ったものの、これまであれこれと売りつけてきた経緯からか、メルフィーナの言葉を疑っている様子はない。二杯目はゆっくりと味わうようにカップを傾けているところを見ると、アレクシスも甘味に抵抗はなさそうだった。
――緯度が高く寒い地方ほど、砂糖の消費量は多いというものね。
うっすらとした記憶だが、気温が低い方がエネルギーを多く使い、潜在的な糖分やアルコールへの要求度が高いという研究もあったはずだ。
実際、ウォッカやアクアビットといった火が付くほどに強い蒸留酒の原産地は、非常に寒冷な土地だった。
「少なくともこの領主邸では、砂糖より紅茶の方がよほど高価です。対価を支払いたいと思ってくれたら、春になったら紅茶を届けてください」
「約束しよう」
お互い、先ほどのことがまだ尾を引いているのだろう。言葉が途切れ気味になる分、ゆっくりとお茶を飲むことが出来た。
ぱちん、と火鉢の炭が爆ぜる音が響く。アレクシスは三杯目のお茶を傾けながら薄水色の瞳を部屋に置かれた火鉢に向けて、ぽつり、と漏らすように呟いた。
「ここは暖かいな。ついこの間、天幕で震えていたのが、悪い夢みたいだ」
「荒野はひどく冷えますからね。どうしたって隙間風は入りますし」
オーギュストの応えにそうだな、とアレクシスは頷く。
聞けば、魔物は夜も襲ってくるので陣を作り見張りを立てて、騎士や兵士は天幕の中で毛皮に包まって寝るのだという。
北部の厳冬期は氷点下を優に下る寒さだ。天幕を張って風を遮ることはできても、気温は中と外でそう大きく変わらないだろう。
「公爵様もそうなのですか?」
「天幕が他より少し大きくなるくらいだな。騎士は寝台がある分、兵士たちよりは随分マシだ。地面からの冷気にやられる兵士も少なくないからな」
ちらり、と背後のセドリックを見ると、ちょうど彼もメルフィーナを見ていたところで、視線が合う。
「セドリック、あれ、すぐに出せる?」
「お任せください。閣下、この場からオーギュストをお借りしてもよろしいでしょうか」
「構わない」
アレクシスが鷹揚に頷くと、セドリックは礼儀正しく一礼し、行くぞ、とオーギュストを呼ぶと、部屋を出て行った。
「えっ、なんで? メルフィーナ様?」
「少し物を運んでもらうだけよ。私たちはこの部屋から出ないから、お願いね、オーギュスト」
訳が分からないという顔をしているけれど、アレクシスが許した以上仕方なく、という感じでセドリックの後を追っていく。それを見送った後、アレクシスはちらりとメルフィーナに視線を向けた。
「君はまた、どんな風に私を驚かすのだろう」
「別に公爵様を驚かそうなんて画策しているわけではありませんよ?」
「今日はすでに随分驚かされた後だからな。何が出ても、そうそうこれ以上は驚くことはなさそうだ」
これ、と手にしたカップを軽く持ち上げて苦笑される。
「紅茶に砂糖を入れるというのは、初めてだな」
「王都では、果物の砂糖漬けが一番よく見かける加工品でしたね」
「北部でもそれは変わらないな。あとは、バラやスミレといった花の花弁を砂糖漬けにすることも多い。こちらでは鮮やかな色の花は少ないから、特に貴婦人には喜ばれる。父がよく、母に贈っていたな」
懐かし気に言って、それから、ふっと表情を陰らせる。
「オーギュストにどこまで聞いた?」
「……公爵様の甥御さまのご両親のことと、前公爵夫妻のことを、軽く教えてもらいました」
「そうか。つまらない話を聞かせてしまったな。君には関係のないことだ、忘れてくれ」
マリーが声を呑んだ音が、やけに大きく聞こえてくる。
「私、公爵様に言いたいことがあるんですけど」
「うん?」
「そうやって、すぐ関係ないとか必要ないとか、人に向かって言うの、やめた方がいいですよ」
「……だが、事実だ」
「私に関係ないかどうかは私が決めますし、つまらなく感じたかどうかも私が決めます。そうやって一方的にお前には関係ないと言われるのが、一番腹が立ちます」
アレクシスは高く脚を組んで、しばらくその言葉を咀嚼するように黙り込んだ。
「……例えば、君が人には話したくないと思っている過去を、私が夫の立場なのだから君の口から全て聞くべきだ。そう言われるのは、君にとって苦痛ではないのか?」
「それは、まあ、あまり行儀がいい態度とは思いませんね」
「私も同じだ。君に自分は妻なのだから、私のことをなんでも知っておくべきだと言われれば、愉快な気持ちにはならない。自分に尊重されたい部分があるなら、他人のそれも軽々しく扱うべきではないだろう」
「……公爵様って、すごく極端な人なんですね」
訝しむような表情を浮かべたアレクシスに、呆れるような、少し憐れむような、そんな気持ちになる。
北部の人間が取引を大切にする気質であるのは知っているけれど、人の心は等価交換できるようなものでない。
秘密には秘密を、打ち明け話には打ち明け話をなどというような単純なものでもないだろう。
「そりゃあ、妻だからとか、夫だからとかいう理由で会ったばかりの人に何もかも話せなんて言われるのは嫌ですよ。信用だって出来ないし、信頼関係だって築けてない。そんなの、当たり前じゃないですか」
アレクシスは怪訝そうな表情を浮かべるけれど、メルフィーナはそれから目を逸らし、マリーに視線を向ける。
「例えば、私は最初は年頃の女性であるマリーを辺境に連れていく責任の重さに、小まめにソアラソンヌに戻っていいと言いましたし、いずれ何かの理由をつけて公爵家に戻そうと思っていました。でも、今は、マリーにそれを言えば怒られるって知っています」
「それは、当たり前ですよ、メルフィーナ様」
マリーの少しむっとしたような表情に、ふふ、と笑う。
あの頃は、マリーも表情が動かない、何を考えているのか掴みにくい侍女だと思っていた。
「気遣っているつもりでも、自分ではフェアな行いだと思っていても、それが相手にとって的外れだったり、却って傷つけたりするなんてこと、本当によくあることなんだなって思います。だからお互いを理解しようとする努力は大切なんじゃないですか」
踏み込まれたくないから踏み込まない。貴族としての暮らしは保障するから自分のことは放っておいてほしい。
アレクシスの心情と要求は、人と人との付き合いというより、取引の感覚に近いのだろう。
「公爵様と私では、育った場所も価値観も、見えているものも、きっと全然違うんでしょう。私は、公爵様の触れて欲しくないことを無理矢理聞き出そうなんて思いません。公爵様が言いたくなったら言えばいいし、そうでないならずっと黙っていても構いません」
アレクシスは無意識にだろう、カップを取り上げて、それが空であることに少し驚いたそぶりを見せた。
メルフィーナはポットをとりあげ、そのカップに紅茶を注ぐ。
結婚関係にある以上、メルフィーナが大きな失敗をしたとしたら、最終的な責任はアレクシスが取ることになる。
もしまかり間違って明日アレクシスが破滅すれば、その余波はメルフィーナにも直接及ぶのは間違いない。
教会の結婚誓約書にサインを入れるというのは、そういうことだ。
「それでも、夫であり妻であるなら、公爵様のことで私に関係のないことなんてありませんし、逆もそうですよ」
「……わかった、気を付けるようにする」
「ええ、そうしてください」
意外と素直に応えたアレクシスに、くすりと笑って、自分のカップにもお茶を注ぐ。
ちょうどそれで、ポットの中身は終わりだった。