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空白の記憶  作者: 望月夏
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雨の日にお茶会を

お父さんを疑ってから数ヶ月の時がたった。

しかしこれといって分かったことも変化したこともなく毎日が続いている。

お父さんのことを調べるには記憶、行動力、一人の時間といろいろ足らなさすぎるからだ。

あれこれ考えても分からないものは分からないという結論に至った。

いや、考えることを放棄したの方が正しい。

たとえお父さんが私のお父さんでなくても、私を心配して大切にしてくれる存在には違いない。

だから極論を言ってしまえば、誰であろうと関係ないのだ。

ベッドで転がりぼんやりしていると風が吹き、カーテンの揺らめきと共に雨の匂いがふわりと漂ってきた。

視線を窓に向けると、外でポツポツと音を立てて大粒の雨が降り出した。

急いで窓を全開にして確認する。

あっという間にバケツをひっくり返した様な雨へと変わった。

本当に山の天気は変わりやすいとはよく言ったものだ。

匂いが強くなり、より鼻腔を刺激してくる。

心が弾むのを感じる。

お父さんが、用事があればすぐに呼べるようにと準備してくれたベルに手が伸びる。

軽くウェーブした木製の取手にシルバーの鐘、細かい模様まで私好みでとても気に入っている。

ベルを鳴らそうとすると、ノックの音がしてから扉が開いた。

「今から少し外に出てみないかい?」

呼ぼうとしたことに気づいてくれたのか嬉しくなって大きく頷き、手を広げる。

そんな私をみてお父さんの方が嬉しそうな顔をして抱き上げてくれた。

「本当に君は甘えん坊だね」

お父さんの服からはふわっと甘い香りがした。

「もしかして、ホットケーキを作ったの?」

「もう気づいたか」

お父さんはイタズラに失敗した子供のようなの顔で笑う。

「美代は雨をみながらおやつ食べるのがいいってよく言ってたよ」


何気ない会話なのに音が少し遠くなった。

私でない大井川美代も雨が好きなんだ。

やっと私を見てくれたと思ったのに……

ホットケーキは大井川美代が好きなおやつだった。

私はホットケーキよりもバナナやナッツの入ったしっとりとしたカップケーキの方が好きなのに、お父さんはそれに気づかない。

どれほどの時間を過ごせば私を見てくれるんだろう。

毎日一緒にいようとも私ではなく、大井川美代を、いや大井川美代しか見えていない。

私はいるのに、いないようなものになる。

この瞬間私はどうしようもなく、消えてなくなりたいと思ってしまう。


さっきの高揚感とは打って変わって、天気のようにどんよりとした気持ちが心を満たしていた。

お父さんが私を抱き上げたまま紫の小さい花柄の大きな傘をさして庭へと出た。

傘に雨が当たりざぁざぁと音を鳴らし、近くの草木からカエルの合唱が聴こえる。

庭には濡れないように大きなシェードが準備されており、お父さんは器用に片手で傘を畳むとクッションを敷き詰めた1人がけの椅子へ私をゆっくり下ろした。

お父さんは近くに置いてあった木製のワゴンから白い金属の机へと手早く配膳していく。


「この間、蜂蜜が取れたから好きなだけかけていいよ」

私の気持ちとは裏腹にお父さんは厚焼きのふわふわなホットケーキにバターを乗せて眩しいぐらいの笑顔を浮かべていた。

水色のシェードの下、机上には紫陽花の刺繍が施された淡い色のテーブルクロスがかけられ、透き通った深緑の柄が特徴的な綺麗に磨かれたカトラリーが並んだ。

無地のガラスのティーポットからは濃い赤色と爽やかな香水のような匂いが零れていた。

「美代の好きな紅茶も入れたんだけど、どうかな」

大井川美代の好きな食品は、正直苦手な事が多かった。

それでもお父さんにはおいしいと笑顔で答えているのだ。

お父さんに私も美代だと思って貰えるように、失望して捨てられないようにそうしている。

お父さんは私のことを君と呼び、昔の大井川美代の話をする時は美代と呼ぶ。

今の所お父さんの中で私は大井川美代ではない。

そして他の何者でもなく、ただの他人なのだと思う。

そうでないと娘のことを君と呼んだりしないだろうから。

娘の友達に優しく振る舞うのと同じ様なものだ。


「私はフルーツティーの方が好きだよ」

でも今日は、私を知って欲しい、そんな気持ちが強くなりつい口から漏れだした。

早鐘のようになる鼓動を聴きながら、自然と手に力が入る。

受け入れられなかったらと恐ろしい気持ちと、もしかしたらこれから少しは私を受け入れてくれるのではという期待が入り混じっていた。

お父さんの表情をみるのが怖くて俯いていたが、ふっと優しく微笑む音がし、ちらりと覗く。

もしかして本当に私を見てくれるかもしれない。

お父さんの様子を見て、期待に胸が高鳴った。

今までに見た事ないくらい、眩しく笑って「ああ、美代も最初はそうだったよ」とお父さんは私を殺した。

お父さんの声が、雨の音が遠くなる。

甘い方がいいか、寒くないかとお父さんは私と正反対に楽しそうに話していた。

今の私の気持ちなんか知らずに。

それでも嬉しそうに話すお父さんを嫌いになれなかった。

ただ、酷い人だと思った。

目の前に置かれたパンケーキを口いっぱいに放り込み、モサモサとしたそれを香水の様な紅茶で流し込んだ。

私を見てという言葉が出てこないように口を塞いだ。



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