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空白の記憶  作者: 望月夏
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桜の香りとひろがる不安


私が目覚めて数週間、ようやくご飯に固形物が出るようになった。

あの身体中に巻きつけられた不思議な布も全て取れて、体は軽くなりだいぶ動きやすくなってきた。

そのためもあってか何かにつかまりながらだけど、やっと1人で立つことが出来た。

あの布についてどうしても気になってお父さんと話している時に何故巻いていたのか聞いたが、はっきりと答えてはくれなかった。

ぼかしながら教えてくれたのは、傷跡を残さないためだったらしい。

傷なんて一切無かったし、何故布を巻くといいのかは、また今度話すよといい今も教えてはくれない。

このようにはぐらかされることは多々あるが、お父さんは相も変わらず一日中私の世話をしている。

一日中と言うと少し語弊がある。

正確にいうと家事をしている時以外、私と一緒にいてくれるのだ。

今日も例に漏れず、朝からお父さんが部屋へとやってきた。


「今日はお風呂に入ってみようか」

嬉しくなって、一も二もなく私は頷いてみせた。

私が眠っている間、毎朝ホットタオルで全身を拭いていてくれたようで、目立った汚れはなかった。

そして私が目覚めてからも、それは毎朝の日課として続いていた。

しかし、タオルで体を拭くのとお風呂に入るのとでは雲泥の差がある。

「美代は本当にお風呂が好きだからね。お風呂もこだわって作ったんだよ」

私は別にお風呂が特段好きな訳ではない。

タオルで体を拭くよりは、お湯を浴びたり髪を洗ったりしたいと思っただけだ。

お父さんは時々こうして私じゃない大井川美代をみている。

お父さんのいう大井川美代と私とでは時たま、相違点がある。

だからその話をされると少し寂しい気もするが、記憶さえ戻ってしまえばそれは紛れもなく私なのだ。

でも、早く記憶が戻ればいいとは全く思わないから悩んでいる。


「美代が好きな薄緑のタイルを壁に貼ったんだよ。床は滑らないようにタイルじゃないけどね」

この言い方をされると、あなたが全部作ったの?と聞きたくなるが、全くもってその通りなので何も言えなくなる。

どれほどの時間をかけたかは知らないが、お父さんはこの山奥に、たった1人でこの家を建てたらしい。

この話を聞いた時は半信半疑だったが、ここ2週間の動きをみていると本当のような気がする。

お父さんは忙しそうに毎日何かをしている。

そんな中でも、私が1人で過ごすことがないように、退屈にならないようにと、私をどこかへと連れていってくれるのだ。

畑を耕したり、家事をこなしたりと忙しそうなのに、あくる日は釣竿を作り川で魚釣りをし、またあくる日は庭にある窯でお皿を焼く等、様々な分野に手を伸ばしている。

それでもお父さんが家事の手を抜くところとか私が暇を持て余すとかは全くない。

最初は一年ぶりに目が覚めてテンションが高いだけで、すぐに落ち着くだろうとたかを括っていた。

しかし、毎日私より早く起きて朝食を作り、笑顔で部屋まで迎えに来て一緒に過ごし、夜も私が寝付くまで読み聞かせをする生活が続けば嫌でも理解できる。

お父さんは超人なのだ。

もしくは体力おばけなんだと思う。

それと同時に責任感も強く、今も自分を責めながら私と関わっているのだろう。

お父さんは私に対して罪悪感を抱いたままだけど、私にはその肝心な記憶が無いのでお父さんの気の済むようにしようという結論に至った。

記憶が戻るのが先か、お父さんの罪悪感が薄れるのが先か。

今の私としては、記憶も戻らずこのまま時間だけが過ぎて、お父さんは大井川美代を忘れ私自身を見てほしいと思ってしまう。

これはきっとお父さんにとっては最悪の結末なんだろうけどそう願わずにはいられない。

毎晩寝る前には星に祈ってしまうほどに切実な願いだ。


そうこう考えているうちに、お風呂の準備ができたようでお父さんが迎えに来た。

ベッドに座ったまま、私がお父さんに手を伸ばすと、躊躇うことなく軽々と抱き上げてくれる。

まだ思うように歩けないので仕方ないが、すっかりこの移動にも慣れてしまった。

私もだが、きっとお父さんもこの移動が気に入っているのだろう。

抱き上げる時はいつも優しい笑みを浮かべている。

だからなのか、毎日歩く練習をしているが、私はずっとこのままでもいい気がしてくる。

「何を考えているんだい?」

お父さんは歩きながらも私の顔を覗き込む。

「なんでもない」

目を合わせたらなんだか見透かされそうで、慌てて目を逸らした。

お父さんはきっと私が歩くことを望んでいるのだから、こんなことを考えているとバレたら幻滅されそうな気がしたからだ。

この移動がどんなに気に入っていたとしても、私が自分で歩き、生活を送ることが正しいとお父さんは思っているのだろう。

そんな心配もよそにお父さんはワクワクとした様子で続ける。

「お風呂場を見たら考え事もなくなるかもしれないね。」

お父さんの足取りは、あの日の山を登る時よりももっと軽く跳ねるようだった。

どのようなお風呂なのか聞きたかったが、こんな時のお父さんは決まって「見てからのお楽しみだよ」と言って勿体つけるのだ。

答えない事が分かりきっているので、聞くに聞けない。

うかつに聞いてしまえば、もっと気になってしまい、仕方なくなるからだ。

階段を登り、木製の大きなドア前で足は止まった。

「ここだよ」

今にでも歌い出してしまいそうなぐらい、声が跳ねている。

お父さんの声を聞いて私の心もより一層跳ねる。

重々しい音を立てながら扉が開かれ、そこには白を基調とした洗面台とダークブラウンの棚、背もたれがある木製の椅子が綺麗に整頓されていた。

木製の椅子に私を座らせると、服を脱ぐように指示してお父さんは後ろを向く。

そこでふと最大の問題に気がついた。

お風呂が楽しみですっかりと忘れていた。

毎日練習して最近やっと1人で立ち上がることは出来るようになったが、私はまだ1人で歩くことが出来ないので必然的にお父さんと一緒に入らなければならないのだ。

いくらお父さんとはいえ、幼い頃の記憶もないし…

いや、例えお父さんだとしてもこの年齢になると一緒にお風呂に入るのは流石に気恥しい。

「あの、お風呂って服脱がなきゃダメ?」

お風呂に入るのだから当たり前な事なのについ聞いてしまった。

自分でも馬鹿なんじゃないか思う様な質問だ。

それでもお父さんは馬鹿にはせず、優しく言い聞かせた。

「安心して。服は脱いでもらうけど、タオルを巻くから。それに僕は目隠ししておくよ。」

きっとお父さんは、私が恥ずかしがる事を理解していたのだろう。

こちらを向いたお父さんはしっかりとアイマスクをつけていた。

「ありがとう。でも、それだと危ないと思うよ。」

「大丈夫。目隠しをして歩くのは慣れてるからね」

なんだかとんでもない事を聞いた気がする。

なんて返そうかと考えていると、お父さんの体がハッと跳ねた。

「あっ!違うからね!美代が目隠し鬼をしたいって言っていたからだよ。いっぱい練習して、それで…」

目隠し鬼とはなんなんだろう。

聞いてもいいのかいまいち分からない単語だ。

でもそんなことよりも私が何も言わないので、あわあわと慌てて訂正してくるお父さんがなんだか子供のようでおかしかった。

目隠しをして歩く練習をするお父さんを思い浮かべるとより笑いが込み上がってくる。

大井川美代もとい自分がそんな提案したせいだし、笑っては悪いと思い声を殺して必死に笑うのを耐えようと頑張った。

しかし笑わないようにしようとするたびにどんどんおかしくなり、ついに大きな声で笑ってしまった。

「まぁ、君が笑ってくれるならなんでもいいよ」

目隠しをしたまま、少し拗ねたように軽くため息を漏らした。

それでも口元はうっすらと笑みを浮かべており、嫌悪感はないようだ。

服を脱いでタオルを巻き、お父さんに声をかける。

お父さんは目隠ししたままだが私の位置を把握しているようで、スムーズにお姫様抱っこしてお風呂場へと向かった。

滑るのではないかとひやひやしたが、足取りはしっかりしていてドアノブの位置やサッシの場所など細かな位置まで正確に捉えているようだった。

お風呂場の中は、窓が低めに取り付けられていて、浴槽に浸かって遠くを眺められるようになっていた。

真っ白の浴槽に薄い緑のタイルがよく映えていた。

まるで草原にいるような気さえしてくる。

お湯は入浴剤が入っており、薄ピンク色でうっすらと桜の匂いがした。

お風呂のある所が3階のため、家の周りの風景は木々だけでなく、空を見ながらも入浴できそうだ。

窓の周りに腕が置けるような余白があったり、お風呂の端には頭までしっかりと支えられるような部分があったりと体勢を様々に変えられるようだ。

そんな贅沢なお風呂をみて1番に思ったことが口をついてでてきた。

「広すぎだよ…何人で入るつもりなの!?」

そう、綺麗な内装や壮大な景色よりもっと気になったことがあまりにも広すぎる事だ。

最近お父さんが持ってきてくれた情報雑誌に、載っていた温泉の家族風呂ぐらいありそうだ。

「もちろん、美代だけだよ。ここは美代だけのために作ったんだから」

得意げな声はお風呂場に響いた。

少し頭が痛くなってくる。

私の事となると、お父さんはだいぶ頭のネジが外れるようだ。

こんなことだから、もしかしてお母さんは愛想を付かせて出ていったのではないかと思う。

想像しか出来ないのは私が目覚めてから、1度たりともお父さんはお母さんの話をしなかったからだ。

あの広辞苑なみに分厚い資料を読んでいる時も1度だって出てこなかった。

それはお父さんにとってタブーの話だからだろう。

私に怪我を負わせたアンドロイドよりも話に上がらないのだから余程酷いのではないかと思っている。

「お父さんも入るんだから、私だけじゃないでしょ」

呆れ半分で少し意地悪げに言ってしまった。

「そうだったね。僕と美代の2人だ。」

お父さんは私の嫌な言い方に気づいているだろうに、何故か嬉しそうに頷く。

本当にお父さんは私に甘すぎる。

体を1人で洗い終わると、浴槽までお父さんが連れて行ってくれた。

「まだ頭を洗ってないよ?」

「お風呂に浸かりながら洗わないと、体が冷えるからね。この時期に風邪を引いたら大変だよ。」

美代は本当に体が弱いからねとお父さんの声が少し和らいだ。

これは私であり私じゃない美代を思い出しながら話している証拠だ。

現に私は目覚めてから体の不調を訴えたことがない。

まだ2週間という短い間だが、お父さんと毎日歩いたり立ち座りの運動をしたりしているのだからいつ体調を崩してもおかしくない。

それなのに不調を訴えること、疲労がたまることもなく、体調はとてもいい。

なんなら食欲も増しているようだ。

活動的な毎日を送りすごくお腹が空くが、食べてはいけないのかと思ってしまうほどにお父さんは昔の大井川美代の話をしてくる。


食事の途中には、「美代は少食だからそんなに食べたらお腹をくだすかもしれない」

歩く練習をしている時には少しすると「これ以上歩くと体調を崩すかもしれないから今日は終わりにしよう」

少し山に出た日は10分置きぐらいに「少しこの辺で休憩しよう」


こんなお父さんの会話を聞いていると、明らかに大井川美代の不調は活動不足と栄養不足だったと思う。

過保護すぎるのも考えものだ。

しかしそれよりももっと頭を抱える問題があった。

それらの事を記憶を失った私が理解しているのだから、大井川美代も当然分かっていたと思う。

私も大井川美代の一部なのだからそうに違いないと確信している。

そうすると大井川美代は自分から不健康になり、お父さんの優しさを受け取っていたのではないかと疑ってしまう。

お父さんは自分からほとんどをアンドロイドに任せていたと言っていたが、それさえも怪しくなってくる。

自分で言うのもなんだが、こんなにも溺愛されているのだ。

そんな大切な存在を自分の手から離して育てるのかと、不審な点がみつかる。

特にお父さんは何でも出来るのだから、今みたいに家で仕事をしていたのではないか。

そんな考えが巡り、素直に聞いてみることにした。

「お父さんは今までなんの仕事をしてたの?」

私の頭にシャンプーをつけ泡立てながらお父さんが返事をする。

「貿易関係の仕事だね」

シャカシャカと心地よいリズムを奏でながら、なんとも言えない力加減で洗われていく。

あまりの気持ちよさに寝てしまいそうなぐらいだ。

そんなぼんやりとした頭で考えてみたが、貿易関係と聞いてもいまいち仕事内容が分からない。

「どんな仕事だったの?」

最初は疑っていたが、今のは何となく興味本位で聞いた。

昔のお父さんがどこでどんなことをしていたのか気になったからだ。

しかし帰ってきたのは沈黙だった。

絶妙な力加減の指も止まっている。

いつもならすぐに返答してくれるのに…

少し不安になりお父さんの顔をちらりと覗く。

目はアイマスクで隠されていて見えないが、口元は少し苦しそうに歪んでいた。

「……この話はもうやめよう。」

お父さんは短く、その話を終わらせると泡のついた髪をシャワーで優しく流しはじめた。

お父さんは私が興味を抱くことなら何でも詳しく教えてくれた。

初めての拒絶を受け、私は少し怖くなった。

昔のことを思い出したくないだけなら納得がいく。

でもお父さんはよく私との思い出ばなしをしてくれていた。

私が見たかったものやしたかったこと、どんなことを話してどんな風に遊んだか、こと細かく話してくれた。

ほとんどアンドロイド任せだと話していたのに、こんなにこと細かく分かるものだろうか。

それに何故自分の仕事の内容を話したがらないのか。

私は恐ろしい仮説にいきついた。

もしかしたら、この人は私のお父さんじゃないのかもしれない。


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