目覚め
私の記憶は、ある日突然に動き出した。
まず初めに機能したのは鼻だった。
鼻腔に薬品のツンっとした痛みが1番に届けられ、ついでふわりと春の香りがした。
ほんの少し遅れて耳。
鳥の高らかな鳴き声や草木の爽やかな音を拾う。
その次が目、これは少し時間がかかった。
目を開けた瞬間、眩しさで目の奥が針で刺されているのかと思う程のズキズキとした痛みが走った。
あまりの痛さに目を瞑りじっとしていると、徐々に痛みは引いていき、安堵のため息が自然と口から零れる。
それからゆっくりと再び目を開いた。
目の前は真っ白な天井が広がっており、カーテンが柔らかな音を立てて風になびいている。
ベッドの横の小さな窓からは煌々と日が差し込み、今が日中であることを語っていた。
最後に感覚が脳に伝わった。
シーツの冷たさや風と陽の温かさが心地よかったが、ベッドで横になっているだけなのに、全身は酷く痛むことに気がついた。
この痛みは、どうやら消えてはくれないみたいだ。
目の痛みと同様に引いてくれればよかったのに。
錆びた機械のように首を動かし手を確認すると、光が反射するほどの白い布が丁寧に巻き付けられていることに気がついた。
強く巻き付けることはなく、優しく包み込むように巻かれているそれに違和感を覚える。
これでは包帯を巻いている意味がない。
包帯は出血を抑えるためにある程度締めてまかないといけないのに…
よく見ればそれは手だけでなく、全身に隈無く巻かれていた。
痛みで動かしにくい上半身をギギっとゆっくりと持ち上げベッドに座ろうとしてみる。
しかしその痛みは寝ている時よりも遥かに強く、鮮明だった。
電気が身体中を縦横無尽に駆け巡っているようにさえ感じる。
結局あまりの痛みに耐えきれず、少しだけ浮き上がっていた体は重力に負けそのまま後ろへと倒れ込んだ。
ベッドが少し揺れ、軋む音が部屋に響く。
早鐘のようになる心臓の音を聴きながら肩で息をするように肺に空気を送り込むと、気温はちょうどいいのに、汗がどっと吹き出てくる。
こんなにも苦しくてしんどいのに、ほんの一瞬だけ遅れて、ベッドと自分に降り注いだ長い髪に意識を持っていかれた。
淡い栗色の髪は窓から入ってくる光に照らされ、1本1本がきらきらと光っていた。
自分の髪なのにとても綺麗に感じて、心が惹かれた。
だからだろう、痛みをものともせず手が動いた。
動かしにくい手で、髪を軽く触るとひんやりとしていて思いの外柔らかく、絡まることはなくするすると流れる。
その感触が楽しくて、気持ちよくて何度も手を入れ髪をといた。
少しするとふと、部屋に置かれた大きな木製の本棚が目に付いた。
本棚の中には様々な本が綺麗に整列しており、どれも一様に分厚く題名だけみると物語のようだった。
本棚の中央に置かれた1冊の本は表紙がこちらを向いており、草原の真ん中でシロツメクサの花冠を頭に乗せた少女が楽しそうに笑っていた。
知っているようで知らないその風景をみていると、長い夢からさめた直後のように感じた。
思い出そうとしても何も出てこず、感情のみ残っているあの経験に似ている。
頭の中に濃い霧がかかり、記憶をすっぽりと隠してしまっていた。
なんだか心臓の辺りがずきりと痛んだ気がしたが、手を伸ばす前にその痛みはサッと消えた。
気のせい、だったのかな…
なんだか何もする気がおきず、少しの間静かな空間が私を包んだ。
時間だけが過ぎていき、体を起こすことも、色々と考えることもやめようとさえしだしていた。
そんな私の視界に淡いレースのカーテンが靡いた。
部屋に転がっている私を誘っているように、風がふわふわとカーテンを不規則に揺らし続けている。
それだけで、外を見てみたいという思いで心がいっぱいになってくるのだから不思議だ。
もしかしたら今なら起き上がれるかもしれない!そう思うと同時に、再び身体中に力を入れた。
痛みに顔を歪ませながらも、呼吸を止め必死にもがいていると徐々に身体は持ち上がった。
やっとの事で起き上がると寝ている時よりも視界が広く、クリアになったような気がした。
早い鼓動、ぜぃぜぃと荒い息を落ち着けるように2、3回ゆっくりと深呼吸をする。
少しすると呼吸が楽になり、余裕が出てきた。
肺の奥深くまで瑞々しい草木の香りが入り込んだ。
ワクワクする気持ちを抑えながらもあたりを見渡してみる。
鉄製の細かな細工が施されたベッド、ダークブラウンの床に敷かれたモスグリーンの丸いカーペットやベッドの横に置かれた丸い木製の机にかけられた可愛らしいテーブルクロス。
テーブル上には細やかな模様の切子ガラスにシロツメクサの花が挿してあった。
どれもこれもひと目で高価だとわかる。
それほど美しく、繊細な作りだった。
こんなに綺麗な風景の中にいるのに、何故か私はとても怖くて今すぐにでも逃げだしたくなった。
どうしてか分からず、放心状態になっていた私を急かすかのように、開けっ放しにされたドアからギシリと軋む音が響いてきた。
瞬間、ビクッと心臓が跳ね上がった。
ゆっくり振り向くと、真っ白な白衣に身をつつんだ男が煉瓦色の目を少し見開いてドアの外に立っていた。
人のいる気配なんて全くしなかったのに…
突然現れた存在に驚き、身動き1つできずただ固まってしまった。
「おはよう…目が覚めたんだね。」
ドアの外から、声だけがとても柔らかく、私の耳へと届いた。
高すぎず、低すぎずいつまでも聞いていたくなる声だ。
目が優しく溶けた男の手には、真新しい白い布と小さな壺のようなものが入った籠が握られていた。
どうやらこの人が私の体に白い布を巻いているようだ。
「もう体は動きそう?気分はどうだい?」
男の人にしては少し長めの灰色の髪をまとめずサラサラと揺らしながら、私へと近づいてきた。
背筋がすっと伸びて背がより高く感じる。
スタスタと足早に近づいてくる男に少し怖い印象を受けた。
それでも私にかける言葉はどこか嬉しそうな色が含まれていて、困惑する。
「目を覚ましてくれて本当によかった。随分心配したんだよ。あんなことがあって美代はずっと眠ったままだったからね…」
籠を机に置きながら、心配そうな目が私を撫でるように動く。
なんだかとてもいたたまれなくなり、痛むのどに力を入れて声を絞り出した。
「…だれ、なの?」
音は掠れ、風のような声が出た。
喉は焼けるようにヒリヒリと傷む。
相手に伝わったのかすら怪しかったが、男は石になったかのように固まっていた。
その様子を見る限り、聞き取れたようだ。
少しの間、時が止まったのではないかと思うほど周りから音がしなくなった。
「……ああ、そうか」
顎に手を当てて、男は黙ってしまった。
どこか物悲しそうなのに、無理矢理に納得しているような顔だと感じた。
見ているこっちが苦しく、泣きたくなるような表情だ。
私の前へと座り、身体中に巻かれた白い布を男は無言で取り外していく。
体の痛みに顔を歪めると、男の手つきはもっとゆっくりとなり、割れ物に触る様にとても丁寧に外し出した。
白い布が外された場所は傷跡など何一つなく、しっとりとした綺麗な皮膚があるのみ。
やっぱり、包帯ではないみたい。
ツンっと鼻をつく臭いの軟膏を体に塗りたくり、新しい布を几帳面に巻きつけた。
巻き終わると男は、私に巻いてあった布と中身を使い切った壷を持ち、そのまま出ていってしまった。
肌に傷がなかったから、なんのための行動なのか分からない。
この行為が手当でないのであれば、一体何なのか少し不安になった。
でも、私を心配する目にも、声にも敵意はないようだったし。
信用してもいいのだろうか…
部屋には男が入ってくる前の静けさが戻っていた。
少し胸がざわざわとした。
最初は優しく声をかけてくれたのに、私が分からないと理解すると布を取り換えて何も言わず、すぐに出ていってしまったのだ。
なんとなく申し訳ない気持ちになったと同時に、もしかしたらこのまま戻ってこないのではないかと急に怖くなってきた。
彼は自分を知っている私に優しいだけで、自分を知らない私は必要ないんじゃ…
不安はどんどんと大きくなり、耳の中に心臓があるんじゃないかと思うほどにうるさく忙しく脈がうっていた。
何もわからない状態で放り出される事ほど恐ろしいことはない。
痛む身体に鞭を打ち、男のあとを追うため足をベッドから下ろそうとしたが、大量の紙束と本を抱えた男が再び部屋へ入ってきた。
どうやら心配しすぎたようだ。