第39話 クラーラの休日 一
初心者マーク付きの作者です。
暖かい目でご覧ください。
――暗い、何処か暗い所を歩いている。
他に誰かいないかと見まわそうとしても、首が固定されたか始めから無いように視点が動かない。
ただあるがままに歩いて――いや、走っている。
逃げて逃げて、逃げなければならない。
何からかは分からない。
振り返る事が出来ないから、ただ後ろに感じる気配から逃げ続けるだけで。
けれどその足も段々と鈍くなってきて、何をしてるんだと叱責したいが声も出ない。
やがて完全に足は止まり、後ろの気配に完全に追いつかれて―――――――――――
……………………………………
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「嫌な夢」
起床直後の開口一番にそう零し、薄く開かれた寝ぼけ眼が見慣れた部屋を睥睨する。
ここはある貴族の邸宅の最も厳重に警備された部屋の一つ、詳しく換言するのなら王都テルミナにあるウェルドール家の一室、さらに詳しく換言するのなら、ウェルドール家の一人娘――クラーラ・フォン・ウェルドールの自室だ。
整えられた調度品はクラーラの趣味という訳では無く、ただ執事やメイドに任せると一言言っただけのものだが、いつの間にかこの部屋が一番落ち着くようになってしまった。
無遠慮に小さな手で触れたこの照明も、きっと余人が見れば飛び上がる程に高価な物なのだろう。
この家に仕える従者たちはその辺りに抜かり無く、特に望まなくとも相応しい品を、などと言って、超一流の品を揃えてくれるのだ。
……一応貴族の婦女子に分類されるにも拘らず、家具や衣類に無頓着でその価値を理解してあげられないのがやや心苦しいが。
目ぼけ眼で同じく高価な時計を見ると朝六時五十三分、あと七分でメイドが起こしに来て、あっという間に着替えさせられてしまう。
寝起きで重い体を力を振り絞ってなんとか起こし、外出用の着替えが入っているクローゼットへと歩いていく。
こうして家にいる時に、メイドが着替えを手伝ってくれるのは非常にありがたいと思ってはいるが、出来れば自分で着替えたいというのが本音である。
以前それをメイド長に伝えたのだが、「お嬢様は一流の食材の調理をド素人に任せようと思いますか?」と、よく分からない例え話で断られてしまったのだ。
それからというもの、毎朝七時きっかりに部屋にやってくるメイドよりも早く着替えて待つという、謎の勝負がクラーラの部屋で繰り広げられていた。
これまでの戦績は全敗――その内の半分以上は中々起きる気力が湧かず、ベットの中でうとうとしていた所を起こされての強制着替えでフィニッシュだった。
眠たいのは仕方ない、起きられないのも仕方ない、だから今日のように起きる事に成功した日こそは、勝たねばならない。
これまたちょっとした宝石よりも高価な寝間着をそこら辺に脱ぎ捨て、急いで着替えを行っていく。
やや動き辛そうな上着を選んで着て、全然足先の出てこないズボンを強引に装備、寝ぐせでぐちゃぐちゃになった髪を床に落ちていた櫛で梳かし、目やにを拭う布が無かったのでさっき脱ぎ捨てた寝間着で拭き取る。
化粧道具は……これは未だに全く分からなかったので、適当かつ大胆に施してみた。
これで完璧だ――親しい人間にしか分からない程微かな笑みを鏡に向け、もうすぐに来るだろうメイドを迎え撃つ。
腕を組んで時計とにらめっこしていると丁度七時、それと同時に部屋にノック音、扉が開かれてメイドが入ってくる。
朝の挨拶を交わしつつ、驚愕の表情で見てくるメイドに渾身のドヤ顔で止めを刺す。
人は進化し、学習する生き物だ。
それはちゃんと人間であるクラーラも同じ、驚きに固まるメイドを置き去りに、その横を悠々と歩いて部屋を出ていく――
「行かせませんよお嬢様、不合格です」
筈だった腕を引いて、引き留められる。
何故だろうか、こんなにも完璧に整えたというのに。
「何故?」
「何故?ではありませんお嬢様。昨日お帰りになると聞いて整えたお部屋が滅茶苦茶なのは百歩譲って良いとして、何よりその恰好が問題です」
「何が?」
「何が?ではありませんお嬢様。髪は寝ぐせが残ってらっしゃいますし、口元にはよだれの跡が。そこに冗談の様な化粧が相まって最初はお嬢様と分かりませんでした。それから服の組み合わせも最悪です。フリルの付いた可愛らしいお洋服に修練用のズボンだなんて……メイド長が嘆かれる理由も分かります」
メイド長という単語を聞いて、クラーラの記憶にあったメイド長のある言葉が思い起こされた。
「わたしは一流の料理人」
「いいえド素人ですお嬢様。椅子へお戻りください」
健闘虚しく、クラーラは無理矢理に椅子に座らされ、折角自分で整えた朝の苦労は水の泡と消えた。
どうやら今朝も、敗北を積み重ねる結果となってしまったようである。
―――――
「本当によろしいのですかお嬢様。朝食は外でお召し上がりになると」
「問題ない」
「……畏まりました。いってらっしゃいませ」
結局クラーラが自分でやった化粧は落とされて新しく施され、選んだ服装は大層酷評されてメイドセレクトになった。
この流れはいつもの事なので、いっその事最初からメイドに任せてしまえば良いのではないかとも思うのだが、その度にクラーラの魂の奥深くが抗え、抗えと囁くのだ。
今回は負けてしまったが次は負けない、そう決意を新たにするクラーラであった。
ともあれそれはそれ、勝負の事をすっかり忘れたクラーラは従者も無しに一人、活気付く王都の街をのんびりと歩いていく。
貴族街から離れれば離れるほど喧騒は大きく、賑やかな雰囲気がクラーラを包み込む。
今日は土曜日、彼女は学園の寮を離れ、一週間ぶりに実家のある王都へと戻っていた。
理由は複数あるが、その内の一つが朝食だ。
昨日の内に朝食はお気に入りの店で済ませると伝えたクラーラの目的地は、とあるレストランだった。
そこは貴族向けの食事を出す店では無く、至って普通の平民や騎士が利用するような飲食店である。
何故貴族であるクラーラがそんな店を気に入っているのかというと、まだクラーラが幼い頃、貴族の食事を食べ飽きた彼女が、平民の食べる食事を食べてみたいと駄々をこねたのがきっかけだった。
困り果てるメイド達に外出許可を出したのは父ウィリアム、曰く「そういう経験ってものいいじゃねえか」との事。
そうしてお忍びの形で入店したクラーラは、マナーを必要としない食事風景に、食べた事の無い料理に衝撃を受けたのだ。
それから全メニューを制覇するべく通い詰める彼女と、それに対抗しているのかと思う程にメニューを増やす店主との戦いが繰り広げられているのだが、それはまた別のお話。
ともあれ、あれからアルケミア学園入学の為に通う頻度が減ってしまったこの店は、恐らく前回最後に来た時と比べてメニュー量が激増している事だろう。
その状況を想像して笑みを浮かべていると、件のレストランに到着していた。
『レストランボティニア』、それがお気に入りの店の名である。
久し振りに見た外観に、意気揚々と入店しようとして――気付く。
――ガラス越し、店内の奥のテーブル席で、ヴィルとニアが座って食事を摂っていた。
クラーラはその光景を見て息を呑み、慌てて二人の死角となる位置に身を潜める。
どうしてベールドミナにいる筈の二人が、ここ王都に来ているというのか。
ニアの方はまだ問題は無い、問題はヴィルの方にある。
クラーラは訳あって、入学直後からヴィル・マクラーレンという人物を観察し、調査していた。
能力測定でペアを組んで欲しいと接触したのも、そのためだ。
最初は取るに足らない生徒だと思っていたのだが、能力測定で見せた走力に驚かされ――その後の魔力測定で落胆させられた。
――魔力量500では適正には届かない。
その事実は落胆と同時に、クラーラに安堵を覚えさせるのに十分であった。
寧ろ落胆よりも安堵の方が大きかったかもしれない、あんなおぞましい男の興味など、向けられない方が絶対に良いに決まっているのだから――そう、思っていたのに。
模擬戦第八試合、ヴィル対バレンシアの試合で、ヴィルはクラーラから見ても驚嘆に値する動きで勝利を収めた。
あのバレンシアを相手に勝利を収めたのだ――勝利を、収めてしまったのだ。
そしてクラーラの報告を受けた結果あの男はヴィルに興味を抱き、その後も監視を続けざるを得なくなってしまった。
何故?どうして?そんな疑問を抱えながらも、言われた事を律儀に全うし続ける自分が、どうしようもなく嫌で仕方無い。
この結末を見るくらいならいっそ……そう思いかけた日常の中、クラーラはある違和感に気付いた。
――学園で、クラーラがヴィルと会う機会が多すぎる事に。
最初はほんの些細な違和感からだった、朝の通学で、何故か同じ時間に連続して時間が合った。
好都合だと思った、わざわざ運が巡り会わせてくれるのであれば、探す手間が省けると。
だが昼食時の席、休み時間の行き先、座学のペア、帰路や夕方の散歩道、そして今まさにこの朝食時まで被ってくるとなると、話は別だ。
偏執的な好意を持つストーカーか――否、容姿が整っている、お人形のようだとよく言われるクラーラは、その手の気配を敏感に感じ取る。
では全くの偶然の産物か――断定はできない、当人は偶然だという顔をしていたが、それをすんなり信じる程、クラーラはヴィルという人物を信じ切れていない。
あれ程の実力を隠し切っていたヴィルが、他に一物抱えていないとどうして断言できようか。
だがそれと同時に、彼が悪人でないという事も感覚で分かっていた。
くじ引きでペアとなった礼儀作法の授業でも、周囲が驚く程、貴族であるクラーラ以上に所作を完璧にこなしたヴィルは、分からない所を丁寧に教えてくれた。
会話をする際、話題出しが苦手なクラーラを気遣って引っ張ってくれていた。
その他にもクラーラだけに止まらず、誰と接する時にも態度の端に細やかな配慮が隠れていた。
触れ合えばその人の心の温度が伝わってくる――ヴィルはとても、温かい。
しかし偶然が重なりすぎたのもまた事実、故にクラーラはヴィルを疑いつつも信じて監視するという、中途半端な状態で落ち着いていた。
ここでこれ以上ヴィルと接触するのは避けたい、だがここまで来てボティニアで料理を食べないというのも……あ、ヴィルの食べている料理は見た事が無い、あれを食べたい。
思考が空腹に支配されそうになる状況に何とか耐えていると、ヴィルとニアが席から立ち上がるのが見えた。
慌てて店から離れて入口を見張ると、食事を終えたらしい二人が、丁度出ていく所だった。
クラーラは危機が去った事に無い胸を撫で下ろしつつ、二人が立ち去ったのを再度確認して、店内へと入る事に成功する。
そして何食わぬ顔で、店内に張り巡らされたメニューをぐるりと見渡し目を通す。
やはり、以前来た時に比べてメニューが大きく増えている。
それも全てクラーラの大好物である肉料理ばかり、まるでクラーラが来るのを待っていたかのようなラインナップである。
だがお目当ては、先程ヴィルが食べていた見知らぬ料理だ。
クラーラは何事か、しつこく訊いてくる店主をあしらうように銀髪の人と同じものを、と手早く注文を済ませ、空腹で回らない頭で今後の方針を定める。
ヴィル・マクラーレンについては監視を続ける、それがあの男の指令であった。
あの男の指示で監視を続けなければならないのは癪だが、ヴィルに危害が及ばないのであれば甘んじて受け入れよう。
今日にも会う予定があるのが心底憂鬱で、言葉に言い表せない嫌悪感を催すが、慎重なのがせめてもの救いだ。
短絡的な行動に出ないだけまだマシ、という程度でしか無いが。
ともあれもしも、もしもあの男がヴィルを害そうとするのならば、クラーラは命を懸けてその企みを打ち砕こう。
例えその先に、最悪の結末しか待っていないのだとしても。
そう心に誓ったクラーラの元へ、注文した料理が運ばれてくる。
お待ちかねの新メニューにクラーラが目を輝かせ――――――それからどんどんと濁っていった。
クラーラの見た新メニューは、よく分からないが魚の煮付けらしくとても美味しそうで文句は無い、無いのだが、問題はそれと同時にヴィルが頼んでいたと思われる、常軌を逸した量の料理の数々だ。
それらの料理は肉に野菜に魚と枚挙に暇がなく、これを朝食に頼んだんですと人に説明しても、とても信じてもらえないだろう量だった。
絶望したクラーラが料理を運んできた店主をゆっくり見ると、クラーラの瞳に悲し気な色が見えたのか、あたふたしつつ言い訳を始めた。
最初に何度も確認しただの、お嬢ちゃんが自信満々に持って来いと言っただのと言う店主の言葉を聞き流し、心中で一言。
――ヴィル・マクラーレンは、命を懸ける程では無いかもしれない、と。
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