第180話 やっぱり独りは嫌だから
第6章、完!
――月の無い夜、曇り空は星の光すら覆い隠し、地上は見通せぬ闇に覆われていた。
月の無い夜、即ち新月の日は、月の化身たる女神ゼレスを崇めるゼレス教にとって縁起の悪い日である。
それは、神の眼差しが地上から離れる日ともされ、信徒達はこの夜ばかりは外出を避け、家々に灯を灯し、ゼレスの帰りを願う祈りを捧げる習わしだった。
とは言えゼレス教全盛期を過ぎた今となってはその習慣も形だけを残すに留まり、大きな挑戦だけはしない、そうした凶日の一つとなっている。
そんな日の夜に、ヴィルは一人テントを離れ、薄暗い森の中を歩いていた。
「――――」
一寸先すら見通すのが困難な森の中は、しかし意外にも様々な音で溢れかえっていた。
風に揺すられ擦れる木々の音、遠く木霊する獣の遠吠え、靴が踏みしめて鳴る枯葉、本人の意図せず響く虫達の合奏曲。
一か月近くを霊峰で過ごしたヴィルとしてはかなり感覚が狂うが、今の季節は秋、自然の色が激しく移ろうこの時期で、自然の静寂は望めよう筈もなかった。
(そろそろ止まっていて欲しい所だけど……)
『第二視界領域』を頼りに森の中を歩くヴィルは、何もあてもなく夜の散歩をしている訳では無い。
ヴィルは真夜中のテントで野営地から離れて行く人の気配を察知、その人物を追っていた。
これが用を足しているのであればテントから出る事も無かったのだが、七分を過ぎても戻って来る気配が無かった為、足取りを追う事にしたのだ。
直近の事件もあって、魔獣に襲われる危険性を考慮しての追跡だったが、それなりに時間が経過している事もあって頼れる情報は少ない、精々が踏み折られたであろう枝や足跡くらいのものだ。
そうしてしばらく歩いていると、次第に視界が開け、ヴィルはようやく目当ての人物を視認する事が出来た。
「やあローラ。夜の散歩にしてはちょっと遠くまで来たね」
「ッ!?……ってヴィルか。驚かせないでよ……」
「ごめんごめん。驚かせるつもりは無かったんだ。ただ心配になってね、尾けて来たんだ」
「なんであたしがここに来たのに気が付いたのか聞きたいとこだけど……まああんただしいいや」
ふすと鼻を鳴らし、面白くなさそうな顔を背ける。
ローラの黒髪が夜風に靡き、闇の中で尚堂々とその存在を主張している。
相も変わらず淡泊な反応だが、クレバスの底で苦楽を共にした甲斐があってか、以前のように睨み付けられるような事は無くなっていた。
しかし倒木に腰掛けて膝を抱え、闇の彼方をじっと見つめるその姿は、どこか気力に欠けているように見えた。
「こんな夜更けにどうしたのかな?」
「……別に、ただ寝れなかっただけ」
「確かに、黒龍と戦ってそう時間も経ってないからね。その事で眠れなくても無理はないよ」
「そういうんでもないんだけどね。……いつもそう、過去の出来事とか、今の自分欠点とか、未来の不安とか。寝ようとしても色んな考えが頭に浮かんで、悩んで、それで寝付けなくなるの。いつも通りのこと」
自嘲気味に唇を歪ませ、ローラはふと空を見上げた。
だがそこには月も星の一つも見えない、均一に黒く塗られたような寂しい空が広がっているだけだ。
「まあ、あながち間違いでもないけどね。今日考えてたのは霊峰のことだし、昨日もずっと考えてた。……ねぇ、あんたでも悩んだりするの?」
突然の問い掛けに、ヴィルは一瞬だけ言葉を探すように沈黙した。
「するよ、勿論。もっと上手くやれた筈って後悔があったら、凄く悩む。どうして出来なかったのかって自分を責めて、それから次は無いって自分を戒める。どんな小さなものでも失うのが怖いから、だからこそ次はちゃんとしたいって考えてしまうんだ」
ヴィルはよく人から悩みが少なく思われがちだが、実際はただそれを表に出さないだけで、人並み以上に苦悩する人間である。
先の霊峰黒龍戦でも、最善を尽くして戦ったつもりだったが、それでもヴィルは自分がもっと上手くやれていたのではないかと思ってしまうのだ。
それどころかその前、ローラが落ちかける前に黒龍を追い払う事が出来ていれば、より平穏に事態を収束されていたとすら考えてしまう。
実際は加護が無ければ、抗魔石の多く眠る霊峰で黒龍に対抗する事は叶わなかったのだが、それでもと、そう願う事を止められない。
それこそ、就寝時などは一晩中。
故に、ヴィルはローラに深く共感していた。
「そっか、ちょっと意外。けど強いね、あんたは」
返答を聞いたローラは小さく息を吐く。
その仕草が、表情が、どうしてかヴィルの心を酷く掻き乱した。
ヴィルがそっと、ローラの隣に腰を下ろす。
倒木は冷たく、若干湿っていたが、そんな事は気にならなかった。
「なんか、ここ最近ずっとあんたに隣座られてる気がする」
「嫌だったかな?」
「それこそ今更でしょ。気を使うとこが間違ってんのよ。いっつも強引だったし、もう慣れたっての」
ぶっきらぼうに言うローラの顔は、しかしどこか満更でもないように見えた。
視線は相変わらずどこともつかない所に向けられているが、その横顔は少しだけヴィルの方に傾いている。
それがローラの言う通りの慣れなのか、それとも悩みを話したかったのか、真実は彼女しか知り得ない。
「……あんたって、ずっと人に囲まれてるよね」
「また、随分と急だね」
「かもね。けど戻って来れてから、ずっとあんたのこと見てた。みんなが戻って来たのを喜んでて、泣いてる子までいて、あんたの話聞いて、みんながあんたのことを褒めてた。――あたしとは大違い」
それはともすれば、放っておけば取り返しの付かない発言。
しかし、ヴィルは言いかけて言葉を呑み込んだ。
否定するのは簡単、だがヴィルには、今のローラの発言がただ自分を貶めるものには聞こえなかった。
「一応言っておくけど、別にあんたが羨ましいとか、あたしとの扱いの差に不満があるとか、そういうんじゃないからね。普通にこれまでのこと考えたら、あたしみたいな非協力的な生徒が戻って来た所でどうでもいいだろうし。逆に意味わかんないくらい喜ばれたら、それはそれで気持ち悪いし」
「確かに気持ちは分からないでもないけどね。けど、僕としてはニアやリリアの気持ちが嘘だとは思って欲しくはないかな」
「それくらいは分かってるっての。あの辺はただのお人好しだし、あそこ二人を疑い始めたらもうおしまいでしょ」
ヴィルは小さく笑い、げんなりしたローラの言葉に同意するように頷いた。
「あの二人は本当に真っ直ぐだからね。だから、きっとローラを抱きしめて泣いていたのも二人の本心だったんだよ」
「うん。あんたとかあの二人なら、絶対遭難して戻ってきてもみんなから喜ばれるんだろうね。別に社交的だからどうってことじゃない。他の生徒だって、多分殆どの人が温かく迎えられるでしょ。まあ、あんたと一緒に戻ってきた時点で大抵霞むだろうけど。……でも、あたしは違う。このまま変わらなきゃ、あたしはずっと一人になる。誰とも手を取れずに、独りで死ぬことになる。そういうのは嫌だなって、あの暗い洞窟でずっと考えてたの。だから、ちゃんとしたいな、って、そう思ったんだ」
ヴィルはその言葉に、ほんのわずかだけ驚いたように目を見開いた。
それはローラがこれまであまり口にしなかった「前を向こうとする意志」であり、自分自身を省みた言葉だったからだ。
「ちゃんとしたい、か」
「そ。もっとちゃんと、普通にクラスに協力して、普通に付き合ってたら、少なくとも独りで死ぬようなことにはならないのかなって。これまでみたいに家のこととか、精霊魔術のことで拒絶されるかもとか考えるとちょっと怖いけどさ、自分から歩み寄らないと何にも変わんないもんね。なんか自己中だけど」
自嘲気味に笑うローラに、しかしヴィルは笑わず言った。
「基本的に、人は自分の都合を無視出来ないものだよ。僕だって皆だってそう、だからローラだけが罪悪感を感じる必要なんてない。動機がどうであれ、僕はローラの気持ちを応援する」
「…………ほんと、腹が立つくらいすっきりする。悔しいけどあんたに話して正解だったわ」
ふっと笑みを零しながら、ローラが倒木から立ち上がる。
ローラの表情は、どこか吹っ切れたような、清々しいものにへと変わっていた。
闇夜の中、視界こそ未だ晴れないが、彼女の周りに漂う空気は明らかに先程までとは違っている。
彼女に合わせてヴィルも腰を上げ、一緒に戻る為にローラの隣に並び立つ。
共に歩き出したローラの足取りがどこか軽やかに感じられて、ヴィルにはそれが、自分でも驚く程に嬉しかった。
と、並んで歩いているとふと振り返るローラの目がいたずらっぽく細められて、
「そういや、あんたってあたしの応急処置のために服脱がせてたわよね?あの時あたしの言うこと何でもどれだけでも聞くって誓ってたけど、もちろん覚えてるわよね?」
「……いや、それに近しい発言をしたのは事実だけど、僕が出したのは何でも一つっていう条件だった筈で……」
「今なんか言った?」
「…………いや、僕に出来る事なら任せて欲しい」
「ならよし」
ドスの効いた声で鋭く睨まれ、形勢不利を悟ったヴィルは大人しく反論の言葉を呑み込む。
状況が状況だっただけに、ヴィルは自分の行動に正当性があったと自負しているが、それはそれとしてあの治療法が褒められた行為では無かった事も理解している。
だからこの場ではローラの要求を全て呑まざるを得ないのだ。
「それで、記念すべき最初は一体どんなお願いなのかな?」
とはいえ無理難題を出され続けるのも考え物、そこはローラの良心に期待するしかない訳だが――
「――じゃ、とりあえず一緒にいてよ。やっぱり独りは嫌だからさ、それで誰に嫌われても最低限、独りにはなんないでしょ」
そう言って、ローラは静かに森然の中で微笑んだ。
―――――――――――――――――――――――
時は二日前、ヴィルとローラが黒龍を退け帰還した日まで遡る。
万年雪の大地、霊峰の遥か上空で、それは独り飛んでいた。
悠々と、とはお世辞にも言い難い。
血を流しながら、視界を半ば闇に染めながら、残る瞳を忘れていた恐怖に染めながら、それは逃飛行をしていた。
それは全てを忘れて、永久とも思える長い時を微睡の中で過ごし、忌まわしき気配の再訪を悟りほんの少し前に目を覚ましたばかり。
それは侵入者全ての排除を己が使命と信じ、使命に従うべく矮小な獲物に牙を剥いた。
そう、獲物だ、それの目に映るものは全てが下等であり、強壮も脆弱も等しく狩られるだけの獲物でしか無かった筈だったのだ。
だが今回の獲物はそれの牙を折り、瞳の一つを永久の闇に沈め、久しく忘却の彼方に在った恐怖をそれに思い起こさせた。
弱者が強者に反逆した事への憤怒、強者たる己が弱者を排せなかった事への羞恥、与えられた役目に殉ぜず敗走した己への屈辱、それの残された隻眼には様々な色が渦巻く。
だが、良い、あの獲物は弱者であって弱者では無かった、それに一つの気付きを与えに来た使者であったのだ。
永く、微睡の中ですら信奉してきた役目が偽りのものであったと知れたのは、得難き気付きであった。
最早復讐に何の価値もありはしない、それは寧ろ感謝の念すら抱き、時が来れば無償の協力も惜しまないだろう。
しかし今は身体を休める時だ、勘違いとは言え爪を浴びせ、その返礼に手痛い反撃を貰ったのだ。
次は一年か二年か、暫しの眠りの後、この翼を貸し与えよう。
そんなあり得たかもしれない心地の良い未来を夢想していた、その時だった。
――突然に揚力が失われ、急速に落下を開始した。
世界の全てが上へと流れていく、否、世界では無く己が墜ちているのだと気付くのにそれは数秒を要した。
何らかの異常事態が生じている事は間違いないが、まだ高度は十分にある。
再び翼を安定させ、高度を上昇させようとして二度目の気付き――翼が、羽ばたき方を忘れたように動かない。
綺麗さっぱり抜け落ちた本能を補完出来ぬまま、それは墜ちて、墜ちて、霊峰の雪上へと墜落した。
これが脆弱な人間であれば死にもしようが、それは最も強く在るよう設計された生物であり、負傷こそすれここで潰えるような脆い命を持ち合わせてはいない。
それでも、己が墜ちたという事実は、それに記憶に新しい二度目の恥辱を味わわせた。
あれは明らかにそれの落ち度では無く、異常気象の類では無く、何者かが馳走した恥――万死に値する。
それは怒りを乗せた詰めを叩き付けるべく、隻眼を動かして下手人を探し、数秒と経たずに獲物を視界に捉えた。
「流石は最強生物の龍、あの高さから墜ちても五体満足に生きてるだなんてねぇ。ヴィルがここで覚醒してなきゃ、ボクも手を出さない訳にはいかなかっただろうし。まあ、そうでなきゃ困るんだけどさぁ。お、欠けた鱗発見~」
敵は、おおよそ全ての生命の天敵たる龍を目の前にしているとは思えない程、自然体でそこに存在していた。
生身では寒さに耐えられないからだろうか、あの使者と同じような重装備を身に着けており、また同じような年齢の、何の力も持たない少女である事は理解出来た。
だが逆に言えば、その他の事はまるで理解が出来ない、気味の悪い人間だった。
これが龍を墜とした痴れ者の姿なのか。
「ん。あなたを墜としたのはボクで間違いないよ。舐めてたヴィルに返り討ちにされたお馬鹿さんの気持ちを聞きたかったから来てもらったんだよ。思ってたより屈辱には思ってなさそうで、それだけは意外だったかなぁ」
龍は人語を解するが、龍は人語を操る術を持たない。
故に傍から見ればこれは人間の独り言なのだが、人間は龍の思考を読んでいるように見えた。
「いやぁ、あなたが現れた時は焦ったよ。クレバスの底から急に桁違いの生命反応が現れたかと思えば、一直線にヴィル達に襲い掛かるんだもん。これまで目撃証言が無かった辺り、ずっと眠りについてたのかな?大方ヴィルの存在を感知して目覚めたんだろうけど、本当に、ヴィルが死ななくて心の底から安心したよ。ほら、こればっかりは英雄に落ち度は無いからさぁ」
龍は、その人間から並々ならぬ力を感じた。
武力、知力、魔力、己が持つどの物差しでも測れない、しかし確かに存在する、人間には分不相応の理外の力。
そも、悠長に話し続けるこれは本当に人間なのか。
と、龍の眼を以てしても正体を測り切れない人間が、ぶるりと小さな身体を震わせる。
「うう……寒。やっぱこの寒さはどれだけ時間を掛けても慣れるものじゃないねぇ。ヴィルなんてローラの治療の為に普通に上着脱いでたけど、あれどんな身体のつくりしてたら寒さ我慢出来るんだろうねぇ。ボクもヴィル位頑丈な身体だったら良かったのに。あ、隣失礼するよ」
そう言って、人間が無遠慮に、無警戒に龍へと近付いてくる。
あまりに軽薄で浅慮な行動、当然その行いの代償は自身の命で支払う事になる。
積雪に手間取る人間に爪を振り降ろそうとして――動かない、使い方を忘れたように。
ならばと大口を開けてブレスで焼き払おうとして――動かない、使い方を忘れたように。
三度の異常に戦慄している間に、人間がまるで暖を取るように龍の胴体へと寄り添ってくる。
正体不明、不可知、不可解、得体の知れない獲物の在り様に、龍は生涯三度目の恐怖を覚えた。
「ふう、温かい。これだけ大きいと体温も高いんだねぇ。これはちょっと離れるのが惜しくなっちゃうかも。……それじゃあ、やっぱり独りは嫌だからね――今後ともよろしく、ファルダ―ラ」
残された半分の視界が暗く、閉ざされていく。
三千年前から始まった眠りにも似た、しかし取り返しの付かない睡魔が意識を黒く塗り潰していく。
偽りの使命も真の使命も全て掻き消え、龍が己を失っていく。
ただ、ああ、そう言えば、
――自分はそんな名前だったと、真名を取り戻した龍が満足そうに、世界から消えた。
次回、第7章でお会いしましょう
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