第178話 落着 一
黒龍が霊峰から飛び立ち、雪の降りしきる山へと静寂が戻る。
既に視界から消えた脅威だったが、ローラは未だ空から目を離せないでいた。
「勝った、の……?」
ローラの声は、自分自身でもどうかと思うくらいに震えていた。
強張っていた方が一気に力を失い、その場に崩れ落ちる。
膝が雪に触れ、頬を撫でた冷たい風がようやく現実を運んでくる。
黒龍は去った、ヴィルもローラも生き残り、遂に安寧が訪れたのだ。
「大丈夫かい?」
「ヴィル」
ローラが気付けば、すぐ傍までヴィルが近づいて来ていた。
ヴィルはしっかりと二本足で立ってこそいるものの、服は自身の血と返り血で真っ赤に染まり、どことなく疲労し切っているように見える。
とはいえ当然以外の言葉はない、今回ばかりはローラを引き上げて立たせようとすることもなく、どすんと勢いよく彼女の隣へと腰掛けた。
「ローラの策が上手くいったね。『半混蛇』だったかな?あんなに巨大な精霊は初めて見たよ」
「それはあたしも。これまで成功したことなかったし、ぶっつけ本番だったから」
「あれが無かったら黒龍を追い払えなかった。本当に助かったよ」
「……まあ、偶然よ偶然」
慣れない賞賛に顔を背けつつ、しかし悪い気はしないローラが嘯く。
「それを言うならあんただって。いつから首の短剣に気付いてたの?」
「ローラが黒龍に対抗する術を考えてくれてた時だね。近くで戦っていて、時々光るものを見つけたから、潜り込んで確かめたんだ。あれは間違いなく僕の短剣だったよ」
「けど持ってたのは『角豚』との戦いで壊れたし、もう一本はなくしたって言ってたじゃん。なくしたっていうのは黒龍に刺さってたってことだったの?」
「いや、確かにクレバスに落ちる前に捨てたよ。ここからは僕の予想だけど、あの時一緒に時間を稼いでたザックかヴァルフォイルか、どちらかが短剣を拾って戦ったんじゃないかな。麓に着いたら感謝しないとね」
冷たい感触が、分厚い衣服越しに伝わってローラがぶるりと身体を震わせる。
それでも立ち上がらなかったのは、激闘を制したローラに体力が残っていないからに他ならない。
それはヴィルも同じようで、二人はしばらく雑談と静寂の時間を過ごした。
「……なんか、あんまり信じらんない」
「何が?」
ぽつりと零したローラの呟きに、ヴィルが問い返す。
「何て言うか……全部?氷龍の顎に落ちたことも、底で何日も過ごしたことも、壁を登って来たことも、あんなでかい龍を撃退したことも……全部。ずっと続けてきたことのはずなのに、実感とか達成感がないって言うか、現実味がなくて」
「確かに、ずっと非日常を生きていたからね。他の誰かにここでの経験を話しても、きっと信じてもらえないだろうね」
「ほんと、あたしでも信じらんないわ」
「けど、僕達は確かに乗り越えたよ。帰りたいと願って足掻いて、黒龍を退けて、生き残ったんだ。他の誰も信じてくれなかったとしても、例えローラ自身が信じられなかったとしても、僕が知ってる。だから誇っていいんだよ」
「……ふふ」
ローラの口から思わず笑みが零れ、ヴィルは面食らった様子を見せた。
ローラとてこれが現実だという事は分かっているが、笑ったのは決してヴィルの言葉を軽視したからではない。
ただ、馬鹿正直に慰めてくれたヴィルの心遣いに可笑しくなって笑ったのだ。
「そうね。あんな化け物みたいな龍を追い払ったんだし」
「……そうだよ。自信を持ってくれたようで良かったよ。笑われたのだけは釈然としないけどね」
「そこはごめん」
そうやって十分程経っただろうか、多少なりとも体を休められた二人は、目標であるフローリアを目指して歩き始めた。
二人は当然氷龍の顎に落ちてからのSクラスの動向を知らない為、霊峰に留まっているか下山しているかの判断は一種の賭けだった。
だが食料の問題でそう長くは留まれないのではないかというヴィルの予想に合わせ、頂上では無く麓へ下りる選択をしたのだ。
もっとも、黒龍に追われていた事もあって実質的には一択だったのだが、結果としてフローリアに近い所まで下りて来られたのは、二人にとって不幸中の幸いだった。
黒龍と争った場所から三十分、次第にフローリアの建築物が二人の視界に見え始める。
実に二週間もの長き冒険の果て、ヴィルとローラは遂に霊峰からの帰還に成功したのだ。
「帰ってきたんだ、やっと……」
ローラがぽつりと呟いた声には、安堵と実感が入り混じっていた。
そう遠くない位置に見えるフローリアの門が、まるで二人の期間を祝福するかのように陽光に照らされ、柔らかな光を放っていた。
「もう、雪とか氷の上を歩かずに済む……」
「そうだね。後は皆にただいまを言うだけだよ。あと少し、頑張ろう」
ヴィルの言葉に、ローラは小さく頷く。
二人の足取りは決して軽くはなかった。
戦いの疲労だけではなく、クレバスでの連日気を張った生活がここにきて響いていたのだ。
しかしSクラスが宿泊していた宿『夏の大雪』は目と鼻の先、二人は残る力を振り絞って一歩一歩雪を踏みしめる。
そして……
「ヴィ、ル……?ローラ?え?」
「やあ、シア。何とか帰って来たよ」
ヴィルのあまりに普段と変わらない仕草と声での帰還報告に、バレンシアの目は見開かれたまま動かず、口元が何度も言葉を探して開いては閉じた。
凍り付いたように硬直した数秒の後、ようやくその身体が反応を取り戻す。
「本当に……ヴィルなの?私は、夢を見ているの?」
「さあ、どうだろう。もしかしたらシアの願いが見せてる幻かもしれないね。確かめてみるかい?」
冗談めかして、手を差し伸べながらヴィルが言う。
それは遅れながらも心配させまいとするヴィルの気遣いだったのだが、バレンシアはあまりの驚きから素直に彼の手を取ってしまった。
繰り返し、繰り返し、手の中の感触を確かめるようにヴィルの手を弄るバレンシア。
「えーと……どうかな?」
「冷たい、わね」
「それは大変だね。もしかしたら僕はもう死んでて、アンデットになって戻って来たのかもしれない」
「……けれど、温かいわ。夢じゃないのね」
ヴィルの手を見下ろし、バレンシアの目尻が緩む。
その真紅の瞳が潤んでいるように見えて、ヴィルは思わず見惚れてしまう。
揺れる瞳から、どうしてか目線を逸らす事が出来ない。
どころか釣られて自分も泣き出してしまいそうな、そんな不思議な感覚に陥る。
気が付けば視線が絡み合い、そのまま目が離せなくなって、そして……
「ねぇ。あたしもう寝てていい?疲れたんだけど」
ローラのその心底呆れたような言葉で、二人は我に返った。
「ごめんなさい。すぐにスウェナさんを呼んで来るわ」
「そうだね。お願いするよ」
それから『夏の大雪』は大騒ぎとなった。
世界最大のクレバスに落ちて捜索不可能とされたにも拘らず、自力で這い上がって来たというのだからそれも当然だろう。
戻って来ると信じていたと破顔する者、心配させるなと涙を流す者、様々な反応があったが、皆一様に喜んでいて、あまり人に囲まれる事を好まないローラは辟易している様子だった。
中でもニアはヴィルが落ちた事に特にショックを覚えていたようで、生きて帰って来た落差から大泣きし、ヴィルを大いに困らせていた。
「ヴィル!ヴィルぅ~!よがった!無事でよがっだよぉ~~!!」
「心配掛けて悪かったね、ニア。この通り、無事に戻って来たよ」
「無事じゃないでしょう!?ほらニアさんどいて!こんな血だらけの怪我人、医者として放っておけないわ!!」
号泣するニアは、医者のスウェナが無理やり引き剥がすまで、ヴィルの胸に顔をうずめて離れようとしなかった。
それだけ幼馴染であり家族であるヴィルの事が大切だったのだろうと、迷惑に思うものは誰も居なかったのだが。
宿の一室に連れていかれたヴィルとローラは、スウェナと同じく治療の心得があるアンナの手によって素早く治療を受ける事となった。
そこには離れようとしなかったニアと付き添いのバレンシアが同行し、話を聞きながら必要な処置を受ける。
ヴィルとローラがどれ程無理を重ねていたかは、身体の状態が何より雄弁に物語っていた。
「これ……よくこんな状態で生きて帰って来れたわね……」
ヴィルの怪我は特に酷く、背中の打撲、二の腕の凍傷、胸部の爪傷など、数えれば切りが無い。
バレンシアが眉を顰め、スウェナが痛々しく目を逸らし、ローラが呆然とする程の凄惨さ。
ただ一人、ニアだけは溢れる感情を押し止めるような、そんな寂し気な笑みを浮かべていた。
「ちょっと、この怪我は私の手には負えそうにないわね。アンナさん、お願いしてもいい?」
「は、はい、やってみます」
アンナが息を呑み、意を決してヴィルに治癒魔術を行使する。
医者としての知識に優れたスウェナだったが、彼女はすぐに自身の魔術ではヴィルの治療に時間が掛かり過ぎる事を看破、アンナの助けを借りる事を決めた。
激しく、眩く輝く光が部屋を照らす。
ヴィルの身体を包むその光は、まるで彼の命そのものを抱きしめるように優しく、暖かかった。
傷ついた皮膚がゆっくりと修復され、凍傷に侵された部分には血色が戻っていく。
如何にヴィルが治癒魔術の通じにくい体質だと言っても、アンナの適性を以てすれば時間で解決出来る。
「こっちは大丈夫そうね。それじゃあローラさんの治療を始めるわね」
「……はい」
その間にも、手の空いたスウェナはローラの検診を行っていく。
ローラの場合特に酷かったのは、足の指の凍傷である。
一切血の通っていない指は、紫を通り越して黒々しく変色しており、治癒魔術がなければ手遅れになっていてもおかしくないものだった。
「痛みはある?そう。さぞ、辛かったでしょう。もう大丈夫だからね」
「あたしなんて、ヴィルと比べたら別に……」
「辛い気持ちに差なんてないわ。人と比べるものでもないし、比べようとしちゃだめよ」
スウェナは優しく、諭すようにローラに語り掛ける。
彼女の目には、ローラが自分の事を責めているように見えたのだ。
それは実際正しく、ローラの中には自責の念や劣等感といった感情が渦巻いていた。
だが、
「――そういうのはやめるって決めたばっかだし」
「どうかした?まだ痛むの?」
「……いえ、お構いなく。このままお願いします」
「ふふ」
心配は杞憂だったと、スウェナは直ぐに考えを改めた。
口では何だかんだ言いながらも、ローラの表情は不思議と晴れやかだったからである。
それを見たスウェナは安堵と共に頷き、治療を再開した。
Sクラスに、ようやく安寧の時が訪れたのだった。
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