第175話 逃走
登壁を開始してから八日が経った。
吹雪もなんとか進める程度には弱まり、狭かったとはいえ座って休息を取れた事もあり、ヴィルの歩みは昨日までよりも早く感じられた。
けれどきっとそれだけではなく、この一週間で蓄積された経験が、手を運ぶ場所や力の入れ方などを最適化させた結果なのだろうとも思う。
最初から何でも出来るのに、きちんと伸びしろまであるというのだから末恐ろしい。
そうして進んでいると、脱出までの距離はまだ遠いものの、少しずつ闇が晴れて明るくなってきたようにも思える。
或いは気のせいなのかもしれないが、どちらにせよ希望を抱くには十分だ。
ヴィルの調子や明るさなど好ましい変化もあるが、当然ながら望まざる変化もあった。
その中でも一番厳しかったのが空気の薄さだ。
「ふぅ……ふぅ……ふぅ……」
規則正しい呼吸を続けるヴィルだが、数日前まではここまで呼吸音は大きくはなかったのだ。
高度が高くなるにつれ空気が薄くなってきて、その影響がヴィルの息遣いに表れていた。
あたしは空気が薄くなるとヴィルの負担が大きくなってしまうと、鞄に仕込まれていた呼吸補助の魔術具を持っていく事を提案したのだが、
「あの魔術具は重い上に嵩張るからね、軽量化を図りつつ食料を確保しなきゃならない場面では持って行きたくないかな」
と、メリットとデメリットを天秤に掛け、自身の負担を承知で魔術具を置いていく決断をしていた。
確かに前半は空気も十分にあり軽量化の恩恵を受けていたが、ここから先は吉と出るか凶と出るか、どうなるかはやってみなければ分からない。
あたしはヴィルの息遣いが荒くなっていくのを、ただ黙って見守るしかなかった。
「……大丈夫?」
じっと止まって呼吸を整えるヴィルに短く問いかけると、振り向かずに親指を立てて見せる。
返答に言葉が付いて来なかったのは初めてで、それがヴィルの余裕の無さを窺わせる。
進むごとに負担が増していくのは分かっていたが、それでもヴィルの変化を目の当たりにすると、胸の奥がざわついた。
願わくばこのまま、何も変わらないままに登壁を終えて欲しい。
そんな願いも空しく、風が勢いを増していく。
昨日の猛吹雪を彷彿とさせる暴風は、今のあたし達にとってはどの方向から吹く風も向かい風でしかない。
「また風が強くなってきてんじゃん。昨日みたいになったらやだけど、流石に何日も待機してらんないよね」
「そうだね。食料には限りがあるし、早く進めるに越した事は無いと思うよ。けど……」
ヴィルが言葉を濁し、何やら不穏な雰囲気を漂わせる。
薄暗い辺りを見回して、ヴィルは暫く沈黙していた。
風が吹く度に横殴りに雪が叩き付けられ、その両方が一秒経る毎に勢いを増していく。
「……この風、何か変だ」
ヴィルの呟きに、あたしの背筋がぞくりと冷たくなる。
「変って何が?あたしは何も感じないけど」
「ただの気象変化じゃない。それにこの感覚……まさか!」
ヴぃるがそう言った直後、突如として強烈な突風が吹き荒れる。
あたしが纏っていた毛皮を吹き飛ばし、あたしは咄嗟に背負子を両手で掴む。
そうでもしなければ、そのままあたし自身も吹き飛ばされかねない程の強風。
そうして、それは舞い降りた。
「ヴィル、上!」
「――――――――!!」
咆哮が耳をつんざく、びりびりと震える空気が氷壁の脆い部分を振るい落としていく。
ただ見られているだけで死を予感させる威圧感、生物の頂点。
あたしとヴィルが氷龍の顎に落ちた元凶、黒龍が空中から睥睨していた。
「ここまで追ってきたのか!」
そうヴィルが叫ぶや否や、黒龍が口を開く。
問答など無い、その喉奥には世界を焼く炎がクレバスの闇を照らしていた。
「ヴィル!」
「くっ……!」
ブレスが来る、ヴィルがピッケルを手放して壁を蹴った。
空中に身を投げて十数メートル落下、着弾の爆風も借りて勢いのままに反対側の壁へ取り付こうと試みる。
ヴィルの手足が壁に触れ、ガリガリと削りながら降下して停止、安心したのもつかの間、黒龍の尻尾が叩き付けられ再び反対側へと飛ぶ。
どんどんと高度が下がっていく、ここ数時間の努力が水泡に帰していく。
このままでは仮に黒龍から逃れられたとしても、生存は絶望的だ。
「このままじゃ……!」
「――――っっ!!」
壁を蹴って身を捩り、三度黒龍の攻撃を逃れる。
あたしは振り落とされないよう必死になって背負子に捕まるが、遂に限界が訪れた。
「ぁ…………」
想定していない激しい動きに耐えられなかった背負子が破砕音と共に壊れ、冷たい空へと投げ出される。
突然に訪れた浮遊感に頭が真っ白になる、息が詰まる。
知らない筈の、気絶していた間に自由落下した記憶が蘇る。
視界がぐるりと回転し、落ちるという二度目の恐怖が身体を硬直させる。
しかしその瞬間、強靭な腕があたしの手首を掴んだ。
「…………っ!」
見上げると、ヴィルが必死に両足で氷壁に張り付きながら、片手であたしを掴んでいた。
けれど、ヴィルの指先がじわじわと滑っていく。
あたしと鞄の重さを支えるには、一週間以上もぶっ続けで壁を登り続けている今のヴィルでは限界だった。
「ヴィル!無理だって!」
「まだ!!」
叫ぶヴィルが強く歯を食い縛る。
その頭上には、口元に業火を灯す黒龍の顎。
そして――
「――――ッッ!!」
黒龍が咆哮し、灼熱のブレスが放たれた。
眩い光と共に闇を払い、全てを焼き尽くさんとする炎が迫る。
凍てつく氷壁すらも溶かし、轟音と熱風が襲い掛かる、間に合わない。
「…………」
もう駄目だと思った。
これまで奈落の底で何度も頭を過っては乗り越えてきたが、今回ばかりは本当に助からないと悟った。
何度も攻撃を躱され業を煮やした黒龍は、視界全体を覆う広範囲に渡ってブレスを吐き出している。
自由落下では言わずもがな、今の無理な体勢から躱そうとしても間に合わないことは明白だ。
避けようの無い死を目の前にすると、存外冷静になれるものだと、死に際になって余計な知識を得てしまった。
だからだろうか、死と炎と風とが満ちるその瞬間、不思議と感覚が研ぎ澄まされていたのは。
――遠く、鐘の音が聞こえた気がした。
―――――
「大丈夫かい?ローラ」
「え?」
ふと気が付くと、あたしはヴィルにお姫様抱っこの要領で抱えられていた。
全く意味が分からない、直前の状況と今があまりに違い過ぎる。
「え……?」
足元は安定していて、壁から突出した岩と氷の上に立っている。
視界の端には未だ黒龍のブレスと思われる痕跡が燃え残っており、時間にしてみればほんの一瞬の出来事だったのだろう。
状況の変化についていけず、あたしはただ茫然とヴィルを見上げた。
「何が、起こったの?」
「危ない所だったよ。もう少しで二人共焼かれる所だった」
そう微笑むヴィルの身体からは、尋常ではない量の魔力が立ち昇っていた。
クレバスの底で『角豚』を相手にしていた時はそれなりだったが、今のヴィルは地上での魔力量と遜色がないように見える。
この霊峰という地で、それはあまりにも異常な事だった。
「でも……」
例えヴィルがどれだけ優れていて実力で躱し続けたとしても逃げ場はなく、武器もない現状では倒す手段もない。
死が一歩遠のいただけ、あたしはまだそう思っていた。
得意のブレスを躱され、激昂する黒龍が翼を広げて襲い掛かって来る。
「来た!!」
「ローラ、鞄を捨ててしっかり掴まってて」
「……うん!」
あたしの思考はまだ混乱の最中にあって、だからこそヴィルの指示に素直に従えたのだと思う。
食料と予備の道具と、更に呼吸補助の魔術具も入っていた鞄を何の躊躇もなく谷底へと投げ捨てる。
それを認めた瞬間ヴィルが跳躍する、黒龍の攻撃を躱すだけでなく、十数メートルを跳んで氷壁に片足を掛ける。
その跳躍力は、明らかに身体強化の恩恵を超えていた。
――更にヴィルは蹴り込んだ氷壁を足場に、まるで地面でも走るかのように駆け上がって行く。
「――――ッッ!!」
黒龍が咆哮し、己に背を向けて逃走を図る不埒な獲物に鎌首をもたげる。
ブレスが氷壁を薙ぎ払っていく中、あたしはただ落ちないようにヴィルにしがみ付く事しかできなかった。
直角で荒削りの氷壁、ヴィルはそれを力強く踏みしめて走り続ける。
一歩一歩の踏み込みで破砕音を響かせながら、ぐんぐんと高度を上げていく。
登壁を開始してから今日までの日々が嘘のように、氷壁が下へと流れ落ちる。
あるいはこのまま振り切れるか、そんな淡い期待はすぐさま打ち砕かれた。
「っ!ヴィル!追いつかれる!」
抱き抱えられるあたしの眼下、翼はばたく黒龍が追い縋る。
威圧感が、殺気が、迫って来る。
喉がぐっと締まり、寒さと恐怖で体が震えてしまって止まらない。
けれど、
「いや、逃げ切る!!」
黒龍渾身の攻撃を嘲笑うかのように、ヴィルが叩き付けられた尻尾を踏み台に加速した。
もうヴィルの勢いは止まらない、ただ直線に駆け上がるのではなく左右に揺さぶりながら、縦横無尽に疾走する。
ヴィルの温かい腕の中、規則正しく刻まれる鼓動に救われたあたしの身体はもう震えることはない。
つい先程まですぐ下に居た黒龍の姿も、今やヴィルの纏う魔力の明かりに照らされて微かに見えるだけだ。
次第に辺りが明るくなり始め、まさかと視線を跳ね上げる。
徐々に視界が白ばみ、ヴィルが一気に跳躍して、そして――――
「ぁ――――」
――太陽が、地平線の先から陽光を放つ。
世界が爆発したみたいに目を焼かれる。
けれどそれはずっと望んでいた痛みで、急に訪れたものだから少し驚いてしまった。
もう随分と意識していなかった昼夜だが、今はどうやら朝らしい。
ようやく叶った氷龍の顎からの脱出に、思わず涙が零れ、すぐに凍って消えた。
遅れてやってきた喜びが思わず溢れそうになって、しかし登って来る威圧感が現実へと引き戻す。
「この……!どれだけしつこいのよこいつ!」
「――――ッッ!!」
突然影が差し、頭上、あたし達を睥睨する龍が一匹、咆える。
明るい場所で見て改めて理解出来る、その巨躯と生物としての格の違い。
更に勢いよく飛び出した空中では逃げ場がなく、今襲われればひとたまりもないのは嫌でも分かる。
けれどどうしてだろうか、こうして再確認した黒龍よりも、すぐ近くに居るヴィルの方が頼もしいと、強いと思えてしまうのは。
「ここから一気に下山するよ。ゆっくり呼吸をして、舌を噛まないようにね」
「分かった」
返答は短く、あたしとヴィルの頷きが揃う。
黒龍が迫る、今度は完全な必殺を確信して、その巨大な縦長の瞳孔に殺気と歓喜を宿して、爪を振るう。
迎撃不可、回避不可、必死の攻撃、その筈だ。
けれどヴィルは次を見ている、だから大丈夫。
――空中で宙返りし、黒龍の爪撃を逃れた。
「はは……」
視界がぐるりと回る中で思わず乾いた笑いが零れる、こんな馬鹿なことがあり得るのか。
何一つ頼れる足場がない宙で、まるで地面があるかのように、涼しい顔で。
宙返りの勢いのまま滑るように着地し、そのまま雪の上を全力で駆ける。
既に降り積もった雪で道らしい道は存在せず、ガイドも居ない以上正規のルートは望めない。
けれど、そんな状況だからこそ選べるルートもある。
「ふっ」
ヴィルは雪に覆われた稜線を滑るように駆け下りていく。
強烈な風が吹きつけて頬が切れるように痛い、あたしは呼吸も満足にできず、ただしがみついているしかなかった。
ただ滑り降りるだけでは足りない、黒龍に追いつかれないためには、脚を動かし続ける必要がある。
見ているだけでも恐怖を伴う加速だが、ヴィルは速度を緩めることなく、寧ろ加速していく。
「このまま滑る気!?」
「しっかり掴まってて!」
視界が流れ、雪煙が舞い上がる。
ヴィルは度々両足を使ってじぐざぐに軌道を動かし、意図的に軌道を変えながら雪の斜面を滑落していく。
まるで風そのものになったかのように、音にすら追い縋る速さで。
黒龍が轟音と共に迫る、翼を広げ、空中から鋭い爪を振るう。
けれど、ヴィルはそれすらも計算していたのか、一切振り返ることなくタイミングを見計らい、黒龍の攻撃を次々と回避していく。
雪の斜面が途切れる――その先は断崖。
「ヴィル!!」
宙を舞う感覚、体がふわりと浮く。
遥か下方に広がる氷と岩、後方からは空を焼くブレス。
けれど、ヴィルは迷いなく空中で身を翻し、あたしを抱え直した。
そしてそのまま再度宙を蹴り、剣山のような地面へと加速する。
「う、くっ……!」
落下の勢いに比例して入って来る空気に肺が凍り、一気に生じる高度差で酷い頭痛に襲われる。
それでもヴィルは止まらない、十数秒の猶予は数秒に、劣悪な状態の地面へ着陸する時が迫る。
迫る、迫る、迫る、そして――
「――――っぐ……!」
凄まじい音と雪煙の中、脚にとんでもない負担がかかったであろうヴィルが苦鳴を零す。
けれど足を止めることはしない、落下の勢いそのままに緩やかな傾斜を駆け下りていく。
ひた走るヴィルの背後、首だけで振り返った着地点は大きく陥没した跡があるが、実の所あたしは殆どその衝撃を体感してはいなかった。
その秘密は恐らく着地の直前、宙でくるりと縦に身体を回転させ、それから着地したのだ。
回転した瞬間は視界が回って分からなかったが今なら理解出来る、あれはあたしへの衝撃を殺すための動作だった。
「これで……」
振り切った。
大きく落下した事が功を奏したか、背後にぴったりとくっついて来ていた黒龍の姿が消えている。
危機が去ったことに胸を撫で下ろしつつ、あたしは安堵の溜息を吐こうとして――
「――――ッッ!!」
前方に灼熱が着弾し、衝撃が粉雪を巻き込んで辺りを均す。
上空から翼を広げ、悠々とそれは着陸する。
「本当に……バカみたいな執念には飽き飽きだわ」
黒龍が睥睨している。
ヴィルの速度に振り切られたかと思われたそれはしかし、すぐに翼を折り畳み、落下して追いかけて来ていたのだ。
そして今はあたしとヴィルの目の前に降り、立ち塞がっている。
追いかけっこはここまでだと言わんばかりに。
「そうだね。逃げるのはこれで終わりだ」
「けどヴィル、ここには武器なんてないし、あたしも魔術は……」
「気付かないかい?ローラ――僕達は、既に抗魔石の効果範囲を離れているよ」
「あ……」
言われるまで気が付かなかった、追いかけて来る存在にしか意識が向かず、今の今までそれを認識できていなかった。
身体中に魔力が満ちている、それも流れを阻害されていない、あたしの思いのままに動く魔力がだ。
これならやれる……とまでは言う気はない。
例え十全に魔術が使えたとしても、あたし一人の力では黒龍に対抗することはできないだろう。
それでも、
「――これでヴィルの役に立てる」
ヴィルが立ち向かうと決めたのなら、あたしだって覚悟を決める。
もう逃げない、一緒に向き合って、一緒に立ち向かってやる。
「――『来て、炎獅子』」
空中に描いた魔法陣から炎が落ちる。
それは粗く獅子の姿を取り、黒龍にあたしの敵意を剥き出しにする。
抗う戦いが、今始まる。
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