第174話 本音 二
――ピッケルが甲高い音と共に氷壁に突き刺さり、飛び散った破片が見通せない闇へと落ちていく。
破片は壁の突起にでも当たったのか再度音を立てて、反響音がぐわんぐわんと鼓膜を叩いた。
続けてヴィルが氷壁を数度蹴り、アイゼンを深く突き立てて身体を持ち上げる。
そのままもう片方の足も同じようにして、再びピッケルを突き刺す。
そんな単純作業を繰り返し早六日、魔道ランタンの僅かな明かりを頼りにそれなりの距離を登ってきたとは思うが、まだまだ先は見えない。
「そろそろ食事にしようか。保存食を貰っていいかな?」
「分かった」
ヴィルが静かに呟き、近くの窪みに手を掛けて体勢を整える。
あたしも背負子の上でほんの少し体を動かし、硬直した筋肉をほぐしながら鞄の中身を漁り、背中越しに手を伸ばすヴィルに保存食を手渡す。
この六日間動き続けているヴィル程ではないが、あたしにもそれなりに疲労は蓄積し続けていた。
ここ最近で知った事だが、静止した状態で全く動かないというのは、精神的にも肉体的にもかなり負荷の大きいものだった。
これが地上であれば休憩の時にでも多少運動できたのだろうが、ヴィルに背負ってもらっている状況では、大きく動いてヴィルがバランスを崩してしまったらどうしようという不安が常に頭の中にあって、どうにも動き辛いのだ。
ヴィルもそれを察してか、度々あたしの心配をしてくれるのだが、それがまた心苦しい。
「ローラは大丈夫?」
「ん、ちょっと体が強張ってるけど平気、あんたこそ疲れてない?」
「問題ないよ。今の所は順調だ。このペースなら予定通り登り切れそうかな」
そう言ってヴィルはピッケルを腰に差し、空いた片手でぶら下がった水筒を取り喉を潤した。
あたしもそれに倣い、マフラーを少しだけずらし少しの水を口に含む。
冷たい水が喉を通る感覚は思いのほか心地良く、改めて身体が水分を欲していた事を実感した。
予め作っておいた不味い干し肉を水で流し込むようにして食べ、短い休憩を終えたヴィルは再び登壁を再開する。
もう長らくまともな休息を取っていないにも拘らず、ヴィルの手足は疲れを知らない。
「それにしても、よく迷いもせずスムーズに登っていけるわよね。やっぱおかしいわ」
「そうかな?必要に駆られれば誰だって必死でやるさ。それに、登山中はガイドの人達から話を聞いたりしてたんだけど、その中に壁の登り方についての話もあったから、それも大きいかもしれないね」
「いや普通話聞いただけで実践とか無理だから」
そうかなぁなどとのたまう、ヴィルの行き過ぎた過小評価に呆れた溜息が出る。
迷いのないルート選択もそうだが、こうしてあたしと喋りながら登っている事が何より凄い事だと思う。
登壁に十日間掛かると聞かされた時、あたしは無言ので気まずい雰囲気が長い時間続くのだろうと想像していた。
だが実際はそんな事はなく、静寂が降り掛ける度にヴィルから話題を提供してくれて、あたしは高所の恐怖と先の見えない不安から目を逸らす事が出来た。
命綱無しで壁を登りつつ、同行者のあたしに気も遣うなど、一体どれだけの人間に同じ事が出来るのだろうか。
少なくとも、あたしにはどう頑張っても無理な芸当だ。
「じゃ、その人の作戦が上手くいって龍を討伐できたんだ。よくそんな人数でやれたもんね」
「一応僕は、反対したんだけどね。けどクラドが倒してみたいって、聞かなかったものだから。結果的に犠牲者が出なかったのは良かったけど、今でも無理のある選択だったと思ってるよ」
得に冒険者時代の話は、ヴィル自身楽しい思い出が多いのかよく出てきて、あたしは度々驚かされた。
初めてパーティーを組んだ時の話、初めて依頼を達成した時の話、ランク的に格上の龍を討伐した時の話、何とも意外だが依頼に失敗した時の話など、ヴィルは何でも話してくれた。
ヴィルの語る物語は、どこかのちゃんとした冒険譚のようで、また巧い話し方も相まっていつの間にかのめり込んでしまうのだ。
ヴィルの思い出話を聞いていると、あたしもつい時間を忘れてしまう。
しかしそんな楽しい時間も六日目までで、七日目からは現実に引き戻される所か、地獄を見る羽目になった。
「は、ぁ…………う、ぅ…………」
「ローラ、大丈夫かい?」
「う、うん。寒いけど、な、何とか……」
あたしの耳のすぐ傍を、轟々と音を立て、凄まじい勢いで雪と風とが通り過ぎていく。
ただでさえ光源が魔道ランタンしか無い状況でこれだけの猛吹雪に吹かれれば、もう視界など無いようなものだ。
加えて元から氷点下の気温に吹雪が重なって、体感温度は氷点下数十度あたりだろうか。
最早ただ息を吸うだけでも喉や鼻に激痛が走り、体はずっと震えが止まらず、手先と足先の感覚はとうに失われて久しい。
更に眠気まで襲ってきて、駄目だと分かってはいても瞼が重くて仕方がない。
このままでは低体温症どころか凍死してしまいかねない。
「この吹雪は流石に不味いね。急いでどこか休める場所を探さないと」
激しい風のせいで、背中越しに大声を出しても殆ど聞こえてこないが、どうやら落ちついて休める場所を探すらしい事は分かった。
ヴィルが絶えず周囲を見渡しながら、ペース配分を無視した速さで壁を登っていく。
あたしの為というだけではなく、自身の体力的にもこの吹雪を脅威と判断したのだろう。
しかし壁で背負われたまま一夜を明かす事も珍しくないこのクレバスで、そう簡単に都合の良い窪みが見つかる筈もなく、時間だけが過ぎていく。
意識が次第に朦朧としてきた、指先の感覚が完全に消え、体の震えが弱くなってきているのが自分でも分かる。
まずい、このままでは、本当に…………
「……ーラ、ローラ!しっかりして!」
「………………大丈夫、大丈夫、起きてる」
「もう少しだけ耐えるんだ!あともう少しで……!」
ヴィルの声が、どこか遠くで響いているように感じた。
意識を保とうと必死に瞬きを繰り返すが、視界はぼやけ、瞼が鉛のように重い。
体の感覚がどんどん薄れていく。
「見つけた!ローラ、先に入って!」
意識が朦朧としている中、体が大きく揺さぶられる。
その瞬間感じていた冷気が少しだけ和らぎ、体がどこか狭い場所に押し込まれた事に気付く。
「ヴィル……?」
「良かった……大丈夫?意識はしっかりしてる?」
どうやら、ほんの僅かに凹んだ窪みに身を寄せたらしい、二人では膝を抱えて入ってもギリギリの狭さで、ヴィルはあたしとの間に空間を作っているせいで左肩を吹雪に晒されている。
それを見て、あたしの意識は少しだけはっきりとした。
「うん、なんとか。あともうちょい外にいたら、多分ヤバかったと思う。ってか、あんた肩出てんじゃん。もっとこっち寄ったら?」
「それは流石にね。体も随分長い間拭けてないし、何より異性に側に居られると落ち着かないかと思って」
「……初日に脱がせといて今更過ぎるでしょ。大体あたしだって体なんか拭いてないし、それに……そう。くっついてた方が温かいでしょ。それだけ」
「……それじゃあ、失礼して」
ヴィルは少し躊躇ってから距離を詰めてきて、やがてゼロになる。
肩や腕のみならず、足や腰まで触れ合っているせいかお互いの体温がじわりと染み込むように伝わってきて、冷え切った体に僅かながらの安堵をもたらした。
「……温かい」
思わず漏れたあたしの言葉に、ヴィルがくすりと微かに笑った。
「それならよかった。ひとまずここで吹雪が止むのを待って、それから出発しよう」
狭い窪みの中、吹雪の音が穴の向こうで唸りを上げている。
どこか遠くの世界の出来事のように、あたしはそれをぼんやりと聞いていた。
凍えた指先をぎゅっと握りしめながら。
「……なんか、ありがとうね」
「ん?何が?」
「ここに落ちてまで助けてくれたことも、魔獣から守ってくれたことも、洞窟でずっと気遣ってくれたことも……今、こうしてあたしを背負って登って来てくれたことも、全部」
「それは素直にどういたしましてなんだけど、随分と突然だね」
困惑したように頬を掻くヴィル。
確かにいきなり感謝を伝えられても返答に困るだろう。
「うん。けどなんか言いたいこととか言わなきゃいけないこととかさ、言えないまま死ぬなんて馬鹿みたいじゃん。さっきいきなり凍死しかけて、ふと思いついたっていうか、ただ言いたくなっただけ」
ヴィルはあたしの言葉に驚きを見せた後、ふっと笑った。
よもや馬鹿にされた訳ではあるまいが、あたしは思わずヴィルを横目に睨む。
睨まれたヴィルは慌てた様子で両手を上げ、
「僕もしないで後悔するよりして後悔する方が良いと思ってるから、同じだね。きっと今のローラならクラスの皆とも仲良く出来ると思うよ」
「……それは、どうだろ」
あたしは鼻息を吐き、指先に少しずつ戻ってきた感覚を確かめる。
ヴィルが言いたい事は分かる、分かるが、それを素直に受け入れられる程あたしはもう単純ではない。
もし奈落の底まで落ちていなければ、そう切り捨てて終わっていたもしもに、あたしは一抹の希望を抱いてしまっていた。
「……ねえ。ちょっとだけさ、昔話聞いてもらってもいい?別に面白い話でもないし、ここまで色々話してくれた代わりって訳でもないんだけどさ」
「勿論喜んで。僕で良ければ幾らでも」
嬉しそうに頬を緩めるヴィルから目を逸らし、目の前の岩壁を見詰めながら言葉を練る。
「……あたしもさ、別に最初から人を避けてた訳じゃないんだよね。子供の時は友達だっていたし、普通に遊んだりしてたどこにでもいるような子供だった」
そう、あたしは普通の子供だった。
小さな町に生まれ、普通に育って……普通に、成長していきたかった。
「けどさ、あんたなら薄々勘付いてるかもしれないけど、あたしの家って特殊でさ」
「精霊信仰の家系だよね。確か今の巫女の名字がフレイスだったような……」
「よく知ってるね。だからまあ、その時点で普通の人間関係なんて望めなかったのかもね」
ヴィルに驚いた様子はない、どうやらある程度あたしの事情については知っていた様子だ。
隠していたとは言っても絶対に知られまいとしていた訳ではないし、精霊魔術を使っている時点で、知識と勘を持っている人なら予想も付くだろう。
まさか、母親が巫女である事や名前まで知ってるとは思っていなかったけれど。
「それなりに世間の常識とか相手の家のこととかを理解し始めるとさ、仲良かった友達が皆離れてった。親に遊ぶなって言われたとか、あたしの家が嫌だからって。国教がゼレス教の王国じゃ、精霊信仰なんて異端じゃん?そりゃみんな一緒にいたくないって、あたしだってそう思うし」
ゼレス教は現在こそ、神話の解釈について隠蔽していた事実が露見し多少衰退したが、当時はゼレス教を信仰していない者は悪者のように扱われ、他宗教を信仰している者などはまるで犯罪者のようだった。
そんな交友関係を持っているだけで異端扱いをされかねない家の子供と、普通の家の子供が手を取り合える訳がないと今なら分かる。
けれど当時のあたしにはただただ理不尽で、とてもではないが呑み込めるものではなかった。
ただそんな不条理も、あたしがもう少し成長する頃には納得へと変わっていた。
「それにね、うちの家って結構ギリギリ……っていうか、ほぼ黒って言っていいようなこともやってたんだ。それこそ無理やりな勧誘とか詐欺みたいな手段で強引に入信させたり、高額な寄付金を搾り取ったり」
それが真っ黒で悪辣な行為だと知れたのは、最後の友人の母親に、あたしの家がどんな事をしているのかを並べ立てて罵られたからだった。
当時は涙も流したが、今となっては家と決別するきっかけとなった事もあり、苦くも欠かせない思い出である。
その後は家のやり方に反発する信者に担ぎ上げられ、改革派と保守派に別れて現在進行形で争ったりもしているのだが、今は関係がない話だ。
「そういうのもあってさ、人との付き合いとかにはなから期待してこなかった。どれだけ仲良くなったって、みんないつか手の平を返す。……別に相手が悪いって訳じゃなくてさ、原因はあたしにある訳だし。けどそう言わせるのも嫌じゃん。それならあたしが最初から他人と距離を置いた方が心が楽なんだって、そう思ってきた」
嫌な思い出は記憶の奥底に沈めて、ただ他人を信用ならない存在として距離を置くようにしてきた。
あたしにとって、それが心穏やかに生きる一番の方法だったから。
「……拒まれるのが怖かったんだね」
「怖かった……うん、そうかも。あたしは人に傷付けられるのが怖い」
知らない奴らに疎まれるのは良い、腫物を扱うように、距離を置かれるのは良いのだ。
けれど信じて、距離を詰めて、そうしたごく普通の段階を踏んだ果てにある拒絶は痛い。
積み重ねてきた分だけ崩れるものは巨大で重く、必然その衝撃も大きいものになる。
絶対に傷付くと分かっている刃物に指を滑らせる馬鹿はいない、あたしにとって、人は必ず傷付けられる刃物でしかなかった。
だからそうならないように、傷付くのが嫌だから傷付ける――そんな自分勝手なのがあたしという人間だ。
そんな関わり方しかしてこなかったから、あたしは人に寄り添えない、空気が読めないし共感出来ない。
「だから、あたしは……」
「――別に誰とでも仲良くする必要なんてないんだよ」
「え……?」
ヴィルのその発言が、あたしにはとてもではないが信じられなかった。
誰に対してでも平等に、穏やかな笑みを湛えて接するヴィルが仲良くする必要がないなどと。
「確かに僕は誰とでも喋れるし、ニアやリリアなんかは同学年の垣根を越えて友達を作ろうと積極的に動いてる。それは紛れも無く良い事だと思う。けど、だからといって積極的に動かないのが悪だとも思わない、仲良くする人を選ぶ行為もね」
「でも、あんたさっきクラスと仲良くできるとか言ってたじゃん。それって全員とって意味じゃないの?」
「ちょっと違うかな。例えばルイなんかは最近まで他人からの干渉を嫌っていたけど、今は考えを変えて積極的にクラスに協力してくれてる。けど誰とでも喋る訳じゃなくて、僕やシュトナみたいな読書仲間と話す事が多いんだ。アンナは人見知りで、ザックやクレアと一緒に居る事が多いけど他のクラスメイトと話すのはまだ苦手みたいでね。でも最近は色んな人と話してみようと挑戦してるみたいなんだ」
ヴィルが遠く、思うような優しい笑みを浮かべている。
それはきっと、あたしの中にはないものなのだろう。
「人間関係に正解なんてないと僕は思うんだよ。だからローラの出来る範囲で、信じられる相手と仲良くしたら良いし、友達を選んだら良い。そうして友達が出来たら、もしかしたら他にも友達が増えるかもしれないしね。友達の友達とか、新しく友達になりたいと思える相手が見つかったりとか。それだけでも、きっとローラの世界は変わるよ」
「そう、かな……」
不安は尽きない、きっと家や血といった変えられないものは確かにあるのだ。
そうした不安はあたしの芯の部分にきつく絡んで解ける事はない。
けれど、
「うん。それに、ローラはもう変わり始めてると思うよ。少なくとも、僕にはそう見える」
変わっている?あたしが?
実感なんてない……事はない。
霊峰に登る過程で、この奈落の底で過ごす過程で、冷たい壁を登る過程で、少なくとも今までとは違う感情を抱く事が増えたのは確かだった。
「……あたし、変われるかな」
「変われるさ。ゆっくりで良いんだ」
ヴィルはそう言って、あたしの肩をぽんと軽く叩いた。
それが妙に温かくて、じんわりと胸の奥に沁み込んでいく気がした。
不意に、睡魔があたしを襲う。
「少し眠りなよ。吹雪が止むまでまだかかりそうだし」
「……うん、そうする」
言葉少なに答えて、眠気に身を任せて目を瞑る。
けれど狭苦しいこの空間は寝るには足りず、うとうとと頭を動かしている内に岩にぶつけてしまい、固い音が響く。
「…………ねぇ、ちょっとだけ肩借りてもいい?」
「勿論。僕ので良ければいくらでも」
ずっとまともに睡眠を取れていなかったせいか、今は素直にヴィルの言葉に甘えて頭を預ける。
ヴィルの肩は思っていたよりもしっかりしていて、どれだけ寄りかかっても受け入れてくれるような頼もしさがあった。
「――おやすみ、ローラ」
ヴィルの囁くような声を最後に、あたしの意識は薄れていった。
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