第170話 本音 一
――この深いクレバスの底に落ちてから一週間が経過した。
状況は何一つとして好転していない、寧ろ食料を消費し続けている分悪化しているとすら言えるだろう。
朝に凍えながら起きてご飯を食べ、探索に出掛けるヴィルを見送って、日中は怪我を治す為にも安静に、毛布に包まって何をするでもなくただ時間が経つのを待つ。
夕方になってヴィルが帰って来ると、料理を作ってくれるのでそれを食べる。
夜はヴィルが見張りをしながら何かしら作業をしているので、あたしは大人しく床に入る、そんな毎日を繰り返していた。
これからどうなるのかという不安と、何かしなければという考えが延々と頭の中を回り続ける。
何度かヴィルにやれることはないか聞いてみたが、今は安静にしていて欲しいと言われるだけ。
真綿で首を締めるようにじわじわと逼迫していく感覚に、あたしは何もさせてもらえないなりに焦燥感を覚えていた。
……いや、本当は分かっている、正しくは何も出来ないと言うべきだということは。
外への探索は、あたしの捻挫が完治していないという理由で断られてしまった。
実際それは正しい、この足ではヴィルの足を引っ張るだけだろうし探索の役に立てるような技能はないし、魔物に見つかろうものなら囮にしかならないお荷物確定だ。
料理は出来ない、自炊に関しては母に任せきりで殆ど経験がなく、必然的に孤児院での料理経験が豊富だと言うヴィルが担当する事になる。
ヴィルなら日数を考慮した食料の使い方が出来る、これ以上適した人材も居ない。
見張りもやはりヴィルの方が適任だ、冒険者として活動していたヴィルは敵意に敏感で、どんな些細な違和感でも拾い上げ対応するだろう。
そしてヴィルは睡眠を取りながら、いざという時は瞬時に意識を覚醒させるという変態的な技能も所持している。
あたしも当初は本当かどうか疑っていたものだが、実際二度三度と有言実行して見せられては信じる他に無い。
昼は辺りの探索を行い、夜は見張りをしつつ時には眠らずに魔獣の骨から道具を作り備える……本当にすごい事だと思う。
可能な限り避けたい最悪の事態ではあるが、あたしが知る限り一緒に遭難するのに最も頼りになるのはヴィル・マクラーレンだと断言出来る――それに同行する人は堪ったものではないが。
「……ローラ、気分でも悪いのかな?あんまり食が進んでいないようだけど……」
明かりの乏しい洞窟の中、ヴィルが心底心配そうな目であたしを見てくる。
そこに他意や下心は一切なく、どこまでも純粋なあたしへの配慮が見て取れた。
朝から晩まで動いて疲れているだろうに、こうして夕食まで作って他人の心配まで、心の底から尊敬する。
あたしは惨めで仕方が無い。
「……あんたは食べないの?」
「僕は後で食べるよ。夜もあるからね」
この洞窟に来てから、あたしはヴィルが食事している場面を一度も見た事が無い。
食べないのかと問うと、いつも夜営のために遅れて食べると言うのだ。
なんてバカな嘘なんだろう、そしてそれを真に受けていたあたしはもっとバカだ。
「そうだよね、食べてる所あたしに見せる訳ないわよね。――だって、あんたが食べるものなんてもうとっくになくなってるんだから」
「…………」
睨み付けるあたしに、ヴィルは変わらずいつも通りの笑みを浮かべている。
いや、いつも通りではない、その笑みにはほんの少しの諦観が混じっていた。
「……いつから気付いてた?」
「ずっと気にはなってたけど、最近になって確信した。初日に見た食料の量じゃ、一週間も二人分の食事を用意出来っこない。けど実際あたしは食べてたし、ってことはあんたが食べてないって事でしょ」
「そっか、ばれてたのか。上手くいってたと思ったんだけど、流石に一週間は厳しかったかな」
ヴィルが頭を掻きながら苦笑する、それはまるで悪戯がバレて恥ずかしそうにする少年のようだった。
その仕草に、あたしは無性に腹が立った。
だって、これではヴィルが悪者のようではないか。
「……なんで、そんなこと」
「クレバスに落ちて、ただでさえストレスが溜まってると思ったから、せめて食事だけは普通に食べて欲しかったんだよ。食欲は伊達に人間の三大欲求に数えられてる訳じゃない、欠けば精神面で強い負荷が掛かる。今の状況でローラをそんな風にはしたくなかっ――」
「そんなこと頼んでない!!」
「…………」
叫び声が反響する、洞窟に静寂が満ちる。
ヴィルは驚きの表情で固まっている、それは初めて見る表情だった。
虚を突かれたように、傷ついたように、思わず目を背けたくなるようなキツさがある。
それでも目を逸らす訳にはいかない、あたしはあたしの抱える感情を吐き出さずにはいられなかった。
「ヴィル、あんた自分が何やってんのか分かってんの?足怪我してるあたしに呑気に料理作ってご飯食べさせてさ。自分は昼に探索して夜も見張りしながら作業して働きまくって……バカじゃないの!?」
「ローラ……」
「おまけに自分の分の食料まで足手まといに振舞っちゃってさ!元はと言えば落ちるあたしを助けようとしてあんたも落ちたんじゃない!抱えなくてもいいリスクばっか抱えて、そんなことして何がしたいの!?なんであたしにそこまでできるの!?自分を犠牲にするのが正しいって、本気で思ってるの!?」
あたしを見捨ててさえいれば、ヴィルはこれからも輝かしい未来を歩む事が出来ていた。
クラスメイトを失った悲しみに胸を痛めながらも前を向いて、有名な大会で名を残し、歴代でも最高の成績で学園を首席で卒業したかもしれない。
卒業後は騎士団にでも入って名を上げて、爵位を得て、或いは英雄と呼ばれる存在にもなれたかもしれない。
けど、そんな未来もあたしを助けようとしたせいで全てご破算だ。
「…………ごめん」
「っ……!謝らないでよ!!悪いのはあんたじゃなくてあたしでしょ!?」
――そうだ、悪いのはあたしだ。
ずっとあたしのために行動してくれているヴィルに対して、こうして理不尽な怒りをぶつけている。
霊峰登山での疲労とここでのストレス、自分ばかり犠牲にするヴィルへの怒り、そして何より、こんな状況で足を引っ張る事しか出来ないあたし自身への怒りが、あたしの中で爆発していた。
「あんたはずっと動きっぱなしで、あたしはずっと何にもしてないままで……納得してないのはあたしなの!あんたは何も悪くない、悪くないけどさ……」
自己嫌悪と無力感に涙が零れる。
自分でも何を言っているか分からない言動の支離滅裂さと、激情を抑えられない情緒不安定に嫌気が差す。
ヒステリックに喚いて、きっとヴィルも困っているだろう。
けど、けれど、それでも――
「――もっと、あたしを頼ってよ……」
けれどそれでも、口を突いて出た言葉はあたしの掛け値なしの本音だったんだと思う。
何かしたい、何かさせて欲しいではなく頼って欲しい、それはきっと……ヴィルに頼りっぱなしのあたしが、ヴィルに寄り掛かって欲しいという願い。
あたしは何て弱く、自分勝手な人間なんだろう。
クレバスの底で一週間、あたしはずっと自分の事ばかり考えていたのに、今になってヴィルの行動に文句を付けている。
無茶をするな、一人で抱え込むな、そう言いながらもそれを強いたのは、弱くて支えなくてはとヴィルに思わせたあたし自身に他ならない。
――けれどそれでもと、あたしは何度でも繰り返す。
「あたしは……あんたのことが苦手。いっつもニコニコ笑ってて、誰にでも平等に優しくて、何でも出来て……感覚的というか、本能的にちょっと怖かったし。笑ってる裏で何考えてるか分かんないし、そういうやつのこと、あたしは信用してこなかったから」
あたしは家の都合もあって、昔から笑顔の裏でろくでもない行為を行う奴らをよく見てきた。
そいつらのことを悪く言うと、決まって母が身内の人に対してそんな言い方をするなと注意してきたものだ。
もっともあたしはそいつらのことも、母の事も身内などと思った事は無かったが。
だからそうした経験から、善人面をした人には心を許さないようにしていた。
……けれど、
「けど、あんたはどこか違う。どうして、あんたは他人のためにここまでできるの?」
学園で見せていた善性は、この極限状態においても一切崩れる事は無かった。
ヴィルには裏は無い、より正確に言うならばこのいっそ嘘臭い程の善性が表なのだ。
もし仮に、まだ裏の顔を隠し通せているのであれば、それはそれで凄い事だとあたしは思う。
だからこそ、ヴィルのその信念の奥にあるものをあたしは知りたかった。
「……小さい頃、僕には家庭教師みたいに勉強を教えてくれる人が居たんだ。孤児院出身だから肉親はいなかったけど、本当の姉みたいに思ってた」
突然の独白、それは一見あたしの質問への回答とはかけ離れたものにも思える。
けれど少し俯いて、懐かしむように目を細めて話すヴィルの表情は真剣で、すぐにそれがヴィルの理由なのだと分かった。
「その人は本当に凄い人でね、頭が良くて何でも知ってて、魔術も出来て、誰にでも優しく手を差し伸べる、そんな人だったんだ。だから僕もそうなろうとした。勉強も剣も努力して、誰かの助けになれたら、その人に恩返し出来たらって。けど結局……僕は恩返しするどころか、恩を仇で返してしまったんだ」
ヴィルに重く圧し掛かる後悔、一対一で告白されるその行為はどこか懺悔にも似ていた。
シスターなんて柄ではない、柄ではないけれど真似でも良い、今はただヴィルの話が聞きたかった。
「それがあんたのせいだったってこと?」
「……だったなら、僕ももっと自分を責められたのかもしれないね。残念ながら恩を仇で返す原因となったのは僕だけど、僕自身が元凶という訳ではなかったんだよ。きっと誰も悪くない、ただしわ寄せがその人にいってしまったというだけなんだ。けどそれでも、僕はその人にただ失わせる事しか出来なかった事が辛かった」
「その贖罪のために人を助けるの?」
「贖罪……そうだね。僕は失わせたものを清算しなくちゃならない。その人が得る筈だったものを捧げ続けなくちゃならない。そういう思いも確かにあるよ。けど、ただあの人ならそうするって、真似をしているだけなのかもしれないとも思うんだ。人は助け合うものだって、そう習ったから。だから僕にとって、人を助けるのは当たり前の事なんだよ」
ヴィルの覚悟を聞いて、あたしは何も言えなくなってしまった。
当たり前の事なのだと、当然のように言うヴィルの姿はあまりに揺ぎなくて、重くて、あたし程度の言葉では変える事など到底できないと理解してしまったからだ。
けれど、あたしが口を出せる事もある。
「……今、人は助け合いって言ってたけど、あたし、助けられた覚えはあっても助けさせてもらった覚えはないんだけど?」
「あー…………」
「あたしがやるよりあんたがやる方が早いし、正確だってのは分かってるつもり。探索に連れていけとか戦わせろなんて無茶は言わない。けどさ、料理とか見張りとか夜の作業とか、そういうのは任せて欲しい。……って、そうじゃないか。その前に……」
助けさせて欲しい、そう言うのは簡単だ。
ヴィルが一人で全部やろうとしていたのは事実だし、それを咎める権利は確かにあたしにある。
けれど全ての責任がヴィルにある訳でもまたない。
「――ごめん」
「どうして、ローラが謝るんだい?」
「ここに落ちて来てからのこと、その前のことも全部。助けてもらったのにぶったことと、何も協力してこなかったことと……今理不尽にキレたことと。あと、これまでの態度とか色々」
虫の良い話ではある、これまでずっと避けてきて、すげなく接してきて、嫌ってきた相手がいきなり態度を変えてくるのだ。
普通なら抵抗を覚える所だろうし、あたしでもはぁ?と思うだろう。
――けれどヴィルはきっと拒まない、そんな信頼と安心感があった。
「前に生徒会室でも言ったけど、ちゃんとできてなかったから改めて言わせて。あたしがあんたを嫌ってたのはあんたのせいじゃない。これからは気を付ける……っていうか、もうそういうのはなくなったから、だから……これからは、普通に付き合ってくれるとうれしい、んだけど……」
言葉の最後が尻すぼみにしどろもどろになったのは、それでも万が一、拒まれたらどうしようという不安だった。
嫌われる事には慣れていた、それは小さい頃からあたしにとっては普通の事で、ただ人が去って行くのを見ているしかしなかった。
きっと初めてだ、こんなにも誰かに嫌われたくないと思えたのは。
――だからいつもより深く刻まれたヴィルの笑顔が、あたしにはとても眩しく見えた。
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