第169話 断念
薄暗い洞窟の中は、数日を経て尚未だ沈鬱な空気が蟠っていた。
三十人近くが集まって誰一人として口を開く事は無く、滴る水滴の音と少女のすすり泣く声が静かに木霊している。
すすり泣く少女はニア、膝を抱えたまま顔を埋め、学友以上の存在を失った悲しみに小さな肩を震わせていた。
――ローラ・フレイス、そしてヴィル・マクラーレン。
決して失ってはならなかった人物であり、誰もが失うとは思っていなかった人物だった。
特にニアとヴィルは幼少期、孤児院で暮らしている頃から共に生活してきた仲であり、その悲しみはクラスでも一番だろう。
隣に座るバレンシアもニアと共に目の前で落ちていくヴィルの表情を見た身だ、その絶望の深さは察して余りある。
血の滲む努力を重ねて霊峰登山を迎えた、様々な困難を乗り越えて頂上の景色を見た……そうして希望の先に待っていた絶望は、筆舌に尽くし難い。
だが、ただ蹲っているばかりでは状況は好転しない、行動しなければならない。
短く息を吐き決意を固めたバレンシアは、ゆっくりと立ち上がり、横目でニアを見る。
……行動しなければ変わらない、だが今のニアにそれを求めるのは酷というものだ。
バレンシアは近くに居たレヴィアに目配せ、ニアを頼むと視線で訴え、頷くレヴィアに任せ洞窟の奥へと歩いて行く。
その道中、岩壁に背を預け、右手で左腕を抱いて佇むグラシエルの姿があった。
「先生」
「バレンシアか。ザックなら今は治療も終わって奥で寝ている所だろう。とはいえ治癒魔術は使えんからな、薬と包帯を使った原始的な治療だが」
「そうですか。……先生はその腕は大丈夫なんですか?」
バレンシアの視線の先、隠すように庇っているグラシエルの左腕は、最後に見た時は先の黒龍に対する目くらましの爆発で醜く焼け爛れていた。
今は治療も終えたようで、白い包帯で覆われている。
「こんなものザックの傷に比べれば大した事はないさ。あの爆破で生徒の安全を買えたと思えば安い」
「ここでは魔術は使えない筈では?」
「フッ。あんなもの魔術でも何でもない。ただ魔力量にものを言わせてばら撒いて点火しただけの、魔術のなり損ないだ。お陰で左腕もこの有様だしな」
鼻を鳴らし、ひらひらと痛々しい手を振るグラシエル。
グラシエルは扱う魔術も然る事ながら、保有魔力量も王国随一、伊達に宮廷魔術師筆頭を務めている訳では無い。
それだけの魔力量があれば、或いは不完全な形でも魔術を行使する事が出来るのかもしれないと、バレンシアは常識外れの力技にひとまずの納得をした。
「……ヴィルとローラの件は残念だった。担任として不甲斐無い」
「そんな、もう終わった事みたいに……」
「――ならお前は信じているのか?深さ千メートルとも二千メートルとも言われる氷龍の顎に落ちて無事でいると?本気で?」
「っ……!それは……」
「希望的観測が過ぎる話だ。私程の魔力量ならこの環境でも多少魔術の真似事は出来る、さっき見せたみたいにな。だがその魔力量を以てしても、千メートルの高さから落ちればまず間違いなく助からん。ましてや気を失ったローラを抱えてなど不可能だ。ヴィルの事だ、最後まで諦めずに足掻いただろうが……」
「…………」
バレンシアは唇を噛み締め、拳を震わせる。
淡々と語るグラシエルの言葉は冷たい、だが真理だ。
魔術が扱えたとしても助かるかどうか怪しい高さ、加えて霊峰の特性がヴィルの生存に影を差す。
考えたくはないがローラを見捨てれば生き残る可能性が高まると思う一方で、ヴィルが自分一人が助かる可能性に賭けるとは思えないという信頼があった。
グラシエルの言う通り、ヴィルとローラはとうに死んでいる――バレンシアはそうは思えなかった。
助からないと考える理由は分かる、バレンシアも何度も考え帰結した結論だ。
けれどそれでも、バレンシアにはヴィルが誰かの予想の内に収まるとはとても思えないのだ。
極小の可能性、或いは不可能の更に先に生を掴み取っているのではないか、そんな希望がどうしても消えてくれない。
「まあその辺りの話し合いもそろそろ始まる所だしな。折角だ、お前も参加してくといい。私の治療が終わってからにはなるが」
「……では、お言葉に甘えて」
考え込むバレンシアに、グラシエルは今後の方針を決める話し合いへの参加を誘う。
バレンシアとしては願ったり叶ったりの状況、ローラやヴィル、囮を務めたヴァルフォイルをどう扱うかは真っ先に知りたい情報だ。
それにこの洞窟で他にやる事も無い、バレンシアは少し考えてからグラシエルの提案に頷いた。
―――――
左腕に包帯を巻いて三角巾を着けたグラシエル、その包帯からは微かに薬品の臭いがしている。
治癒魔術を使えないここでは最良の治療だが、当然傷が治った訳では無い。
医者のスウェナからは絶対安静を言い渡されていた筈だが、当の本人はそれを歯牙にもかけず平然と会議に参加している。
とはいえ状況が状況だ、霊峰登山に同行している教師の中で最も地位の高い担任教師として、参加しない訳にはいかないだろう。
ガイドが四人と教師が四人、そして図らずもたった一人生徒代表となったバレンシアが揃った所で、今後の動向を決める会議は始まった。
議長を務めるのはガイドリーダーであるアルティス、立ち上がった彼が音頭を取る。
「それでは全員揃った事ですし、会議を始めましょうか。まずは……」
「会議が始まったばかりで申し訳ありませんが、少々質問をよろしいですか?」
「バレンシアさん?ええ、勿論構いませんが」
「ありがとうございます。先程全員揃ったと仰いましたけれど、他のガイドの方はどうされたんですか?スウェナさんがザックについているのは分かっているのですが、気になって」
バレンシアの質問に、ガイドと教師陣に沈鬱な空気が広がる。
誰もが視線を落とす中、隣に座るグラシエルがバレンシアの肩に手を置いて答える。
「――ガイドの内三人は戻らなかった。恐らく最初のブレスで焼かれたか、その後に巻き上げられた雪で窒息したんだろう」
「そんな……それは、悪い事を聞いてしまいました。申し訳ありません」
「いえ、このタイミングで生徒さん側に悪い報告をしたくないと止めたのはこちら側ですので。気になさる必要はありませんよ」
痛みを堪えるような笑みを浮かべながら、首を振るアルティスが言葉を継ぐ。
「私は……むしろ謝らなければならないのは私の方です。ガイドリーダーでありながら、私はこの霊峰で何も為せなかった。お預かりした大切な生徒さんをクレバス帯で危険に晒し、登頂後に足止めを食らい、そのせいで……」
アルティスの声が詰まる。
その場の全員が彼の肩の震えに気づいたが、誰一人として咎める者はいなかった。
アルティスの言葉には重みがあり、それは彼の責任感の強さ故だった。
だが、彼は一人では無かった。
「……アルティス、確かにお前にも責任はあるだろう、だが全てではない。あのタイミングで龍が襲ってくるなど誰もが予想すらしていなかった事態だ。その責任は、ガイドたる我々全員が背負うべきものだ」
「ダカン……」
「だから今は……」
「ああ、今は」
目元を袖で乱暴に拭い、前を向くアルティス。
その瞳には、力強い光が宿っていた。
そうしてようやく会議が始まりかけたその時、洞窟の入口から何やら騒がしい声が近付いて来る気配がある。
「――よぉ、シア。大事な会議中に悪かったな」
「っ……!あなた……」
刺々しい赤の頭髪、やや背の低い小柄な体格とそこに満ちる闘気。
氷点下を下回るこの環境で走り続けていたせいか、肩から湯気を立ち昇らせて息を荒げている。
見事本懐を果たし、会心の笑みを浮かべるその青年こそ――
「――ヴァルフォイル」
「ハッ!オレの骨は誰にも拾わせねぇ、宣言通り戻ってきてやったぜ」
バレンシアをはじめとする会議に出席する全員が、驚愕に目を見開いた。
誰もがその生存を絶望視していた、黒龍を引き付ける囮役を買って出たヴァルフォイルが生還したのだ。
ヴィルとローラに続いてのガイドの訃報を経て、ここに来て初の希望に、場に多少の活気が戻る。
「あなた、無事だったのね」
「おう、何とかな。雪に埋まった時は寒さで凍えて死ぬかと思ったぜ。ま、走りまくって身体ぁ温まってたかんな、ギリギリくたばらずに済んだぜ」
「本当しぶといんだから……けど、あなただけでも生きていて良かったわ」
バレンシアは湧き上がる安堵の波に押され、普段なら吐露しない素直な気持ちを口にする。
日頃バルフォイルに対し憎まれ口を叩いているバレンシアだが、それは幼馴染特有の距離感あってのもので、決してヴァルフォイル憎しという訳では無い。
実際バレンシアの心は、ヴァルフォイルの生還で安定を取り戻している。
そしてヴァルフォイルが持ち帰ったのは自身の命だけではない、更にこの先の行動を検討する上で貴重な情報も持ち帰る事に成功していた。
「そういや朗報だぜ。あの黒龍、オレを見失った後飛んで消えやがったんだが、その方向がここと反対方向だったんだよ」
「それは本当ですか!?」
「お、おう、マジだぜマジ。そうじゃなきゃ、いくらオレがバカだからって真っ直ぐ戻ってきたりしてねぇよ。あー確か……東の方だったな」
急に立ち上がって目を見開くアルティスに若干引き気味になりつつも、ヴァルフォイルは何とか当時の状況や方角を思い出しながら説明を行う。
その情報は、アルティスに決断を迫るのに十分な価値を有していた。
「……ありがとうございます、ヴァルフォイルさん。これで次に取るべき行動は決まりました」
そう呟くアルティスだったが、その表情は芳しくない。
瞑目し、一つの覚悟を持って心を押し潰す、苦渋の決断を彼は行おうとしていた。
「――準備が整い次第、今日中にこの洞窟を出て八合目の山小屋へと向かいます。そして山小屋での補給を済ませ、霊峰を下山します」
「……え?」
思わず、バレンシアの口から声が漏れる。
それはヴィルとローラの生存を信じるバレンシアにとって、許容する事の出来ない決断だった。
「待って下さい。二人を置いて下山するだなんて、そんなこと出来る訳がありません」
「バレンシアさんの気持ちは、痛いほどよく分かります。私も友人を失った、みんなを探したい気持ちも、生きている可能性を信じたい気持ちも……せめて遺体を見つけてあげたいという気持ちも」
「なら!」
「ですがそんな余裕はどこにもないのです。深い雪を掘り起こすには道具が足りない。氷龍の顎を降下できるロープが足りない。そして何より……食料が底を突きかけています」
「っ…………」
アルティスの言葉にバレンシアが息を呑む。
三十人をまかなうだけの食料は合計すれば、いくら乾燥させ圧縮したものであっても相当な重量になる。
テントや寝袋など様々な道具を必要とする霊峰登山において、食料の過剰な持ち込みはかえって自らの首を絞める結果に繋がりかねない。
その為各合目の山小屋で食料の補給を行い、次の山小屋へと出発する形を取っていたのだ。
一人一人に配分された一合分の食料の量は最低限を少し上回る程度、ただでさえ洞窟で足止めを食らっていた上での洞窟への避難で、手持ちの食料は殆ど使い切ってしまった。
それはバレンシアがどれだけ力を尽くしても説得出来ない、絶対の制限だった。
「……このまま、引き下がれと言うのですか。犠牲を容認すると」
バレンシアの問いを受けたアルティスは瞑目したまま動かない。
だがそれは葛藤や苦悩の沈黙ではない、彼は既にそれらを乗り越えている。
これは冥福を祈る鎮魂だ、再度非情で合理的な判断下す事への謝罪だった。
アルティスが深く頷く。
「確かに犠牲者は出てしまいました。その事実は今の私達には変えられない。ですが、ここで立ち止まっていてはさらに被害が広がるだけです。私達がすべきことは、今ある命を守り、これ以上の犠牲を防ぐ為に行動する事なのです」
アルティスの言う事は正しい、バレンシアも頭ではそう理解している。
だが本当にそれで良いのかと、心が抵抗を続けている。
ヴィルとローラが生きているかもしれないのに、その可能性を切り捨ててまで下山する事が正しいのか。
そんな葛藤に苦しむバレンシアの心を、アルティスは見透かしていた。
「何も行方不明になった人たちを見捨てると言っているのではありません。皆さんを麓まで送り届けた後、私達で行方不明者の捜索を行います。氷龍の顎もロープを用いて可能な限り降下して、ヴィルさんとローラさんの痕跡を探します。だから今は」
「……今は……」
落ち着いた様子で呟き、バレンシアは思わず上を見る。
顔を上げた先には何もない、ただ変わらず岩の天井があるだけだ。
そう、今は何をしても何も変わらない、少なくとも事態が好転する事は無い。
ならば、やれることはもう一つしかない。
――霊峰登山を始めてから丁度一か月、一行は人員を欠いたまま霊峰の下山を開始した。
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