第167話 地底の景色 二
「――『角豚』」
その魔獣の名前を、ヴィルは『角豚』と呼んだ。
五メートル近い体長に一メートルはある巨大な蹄、殺意に染まる瞳が暗闇の中でギラギラと輝いている。
そして何より特徴的なのが湾曲した二本の赤黒い角。
氷柱を軽々打ち倒したその角は、魔獣の膂力と相まって人を容易く貫く事だろう。
あたしは当然の事ながら、身体強化も使えないここではヴィルとて例外では無い。
「荷物を預ける。ローラは振り返らず、すぐに後ろに走るんだ。洞窟を見つけたらすぐ奥に避難して」
「あんたはどうすんの?」
「……時間を稼ぐしか、ないだろうね」
荷物を地面に下ろし短剣を構えるヴィル。
その短い刃渡りは、あの巨大な魔獣を相手にするにはあまりにも心許ない。
加えてここでは身体強化が使えないのだ、苦戦を強いられる所か無駄な抵抗とすら言える。
生き残る可能性の高さで言えば、それこそあたしを囮に一人で逃げた方がよっぽど高いのだ。
それでも他人を見捨てない、それがヴィル・マクラーレンという人間だ。
あたしは出来る限り姿勢を崩さないように、目線は逸らさず鞄とランタンを掴んだ。
「――――ッッ!!」
「――行くんだ!!」
咆哮と同時に『角豚』が突っ込んで来る、ヴィルが先を指差して叫ぶ。
あたしは鞄を引き摺るようにして駆け出し、指示された方向へとがむしゃらに走る。
背後では地面を揺らす激闘が繰り広げられているが、それがヴィルの防戦一方である事は振り返らずとも知れた事だ。
あんな短剣一本で魔獣をどうにか出来るとしたら、それは勇者か化け物のどちらかだ。
いや、そんな事を考えている暇は無い、今はただ洞窟を探す事に集中しなくては。
「けど、そんなことしたって……っ」
意味が無い……そう、意味が無いのだ。
仮にあたし一人が生き残った所で何が出来る訳でも無い、ただ無為に力尽きるのを待つだけだ。
かといってヴィルを助けようとあの場に留まった所で、やはりあたしに出来る事など何一つとして無い。
囮になる勇気も犠牲になる勇気も無い、半端なあたしは結局、こうして逃げる事しか出来ないのだ。
「そもそも、なんで……」
何故この場所に魔獣が居るのか。
龍はまだいい、あれは空を飛ぶ生き物だ、どこか遠い場所からやって来たと考えれば多少無理でも説明はつく。
だがあの『角豚』はどうだ、こんな出口も無いクレバスの底で一体どうやって発生したというのか。
魔獣とは元来魔力溜まりから生まれるもの、抗魔石の影響下にある霊峰ではそれも望めない。
何故という問いと洞窟を探さなければという目的は、そのどちらも果たされる事は無かった。
――突如大量の氷柱を砕きながら、目の前に人くらいの質量の物体が着弾する。
それは見覚えのある姿で……
「ヴィル!?」
「……そうか。思ってたより稼げなかったか」
地面に倒れたまま、悔し気に唸るヴィルの頬には打撲痕があり、服のあちこちから血が滲んでいる。
手に持っていた短剣は根元からぽっきりと折れてしまっており、もう武器としての役目は果たせないだろう。
時間にして三十秒あったかどうか、それが一年Sクラスで一番の実力を持つヴィルが稼いだ時間だった。
「くっ……!」
「ちょっ……!」
あたしが倒れたヴィルに近付くと、血相を変えたヴィルが勢いよく立ち上がり、あたしを鞄ごと押し倒してきた。
突然の事態に頭が真っ白になる、よもやこの期に及んであたしをどうにかしようというのか。
そんな場違いな思考は、『角豚』がついさっきまであたしが立っていた場所を通過した事で掻き消えた。
『角豚』が壁に激突、地底に破壊音を轟かせる。
もしあんな突進をまともに受けていれば、あたしの全身はバラバラに砕けていた事だろう。
寒さとは別の理由で震える身体を抑えつつ、あたしはヴィルに礼を言おうと立ち上がろうとした。
「ありがとう、助かっ……」
「まだだ!」
ヴィルの声が鋭く響く。
見れば『角豚』は壁に激突して生じた氷の破片を振り払いながら、再びこちらに向けて突進して来ていた。
喉の奥で声にならない悲鳴が上がる、ここは袋小路、『角豚』の巨体を掻い潜れる逃げ道などどこにもない。
同時、ヴィルが正面から『角豚』に突撃していく。
「おおおおおおおおお!!」
勇ましく吼えるヴィル、けれどその手に武器は無い。
足を緩めず駆けながら両手を広げ――激突の瞬間、『角豚』の顔面を抑えて力比べが始まる。
けれどその力比べは、初めから結末の分かり切った力比べでもあった。
「ぐっ、くっ……!」
がりがりと音を立てて靴が地面を削る、ヴィルが押し負けていく。
いや、むしろあんな巨大な魔獣相手に身体強化無しで競り合っている事自体褒められるべきなのだろう。
けれどその健闘も虚しく、ヴィルの身体は徐々に押し負けて壁際に居るあたしの方へと追いやられて来る。
そして、
「ごめんローラっ!」
「きゃっ!」
そう言うとヴィルは身体を反転、背で『角豚』の突進を受けると、手の平と足を突き出すようにしてあたしとの間に空間を作り、あたしは守られるように壁へと押し付けられた。
あたしは悲鳴を上げながらも、身動き一つ取れなかった。
ヴィルの表情は厳しい、歯を食い縛って全力であたしを守ろうとしてくれている。
けれどその代償として、魔獣の膂力に耐えかねてヴィルの両腕が悲鳴を上げている。
「ヴィルっ!」
「大、丈夫……ローラは?」
「あたしは平気、だけど……」
「なら、良かった。すぐに、これを、どかすから……」
笑みすら見せて強がるヴィル。
その額には、ここが凍死も容易な環境とは思えない大量の汗が流れていた。
これはあたしの死への恐怖から来る冷や汗とは違う、あたしを守るためにかいた名誉の汗だ。
ヴィルは『角豚』を押し返そうと肘を伸ばすが、『角豚』もただ馬鹿の一つ覚えに押し続けるばかりではない。
「ぐっ!くっ!がっ!」
何度も何度も、執拗に頭をぶつけてくる『角豚』。
その度ヴィルの口からは苦鳴と血が漏れ、攻撃を耐える身体が傾ぐ。
このままではじり貧だ、何か手を打たなければならないが、あたしを庇っているこの状況ではそうもいかない。
と、
「何……?」
ヴィルの様子がおかしい、それは決して悪い変化ではない、好転の兆しだ。
――ヴィルの身体から、可視化され光り輝く魔力が立ち昇る。
それは身体強化に似た輝き、だがそれは以前見たものよりも強烈な光だった。
どうしてこの状況下でいきなり魔力を扱えるようになったのか、不思議に思う気持ちはある。
だが今重要なのはその後の結果だ。
「はぁああああ!!」
頭突きを繰り返す『角豚』の攻撃の合間を突いたヴィルの体当たりが、身体強化の膂力を伴って『角豚』を押し返す。
仰け反る『角豚』――その隙を見逃さず、ヴィルの繰り出す二度の掌底が顎と鼻を直撃する。
「―――――!!」
予期せぬ反撃と痛みに悶絶する『角豚』が二歩三歩と後退る。
――そこからヴィルによる反撃が始まった。
右の蹴脚が再度鼻を折る、左の刺突が閃光と化して眼球を抉る、跳び膝蹴りが視力を失った右顔面を追撃する。
『角豚』の巨体が揺らぐ度、ヴィルの攻撃は一切の情け容赦無く繰り返された。
「すごい……」
相手が魔獣とはいえ害する事を躊躇わない恐ろしさと、この状況で的確に一撃一撃を加えていく頼もしさがあたしの中に同居している。
ランタンがあっても尚数歩先すら見えないような状況で、暗闇に溶けるヴィルがどうやって相手の正確な位置を捉えているのかは分からない。
ただ、ヴィルは一度たりとも攻撃を外す事は無かった。
『角豚』もただやられるだけでなく反撃を試みているが、自慢の角も蹴りもヴィルには届かない。
これならやれる、そう思っていたのだが、
「決定打が……」
唯一の武器である短剣は既に折れている、つまりヴィルの攻撃手段は徒手空拳しかないという事になる。
それは持久力において人を遥かに凌駕する魔獣を相手にするには、あまりにも厳しすぎる条件だ。
しかもそれだけではない、あたしは武術に関して詳しい事は分からないが、以前見た時よりも打撃の威力が……いや、身体能力の出力が落ちているように見える。
抗魔石の影響かそれとも何かしらの不調か、しかしヴィルはそれも織り込み済みだった。
「これで――」
『角豚』の突進を華麗に避け、鼻を踏み台に跳び上がったヴィルが巨大な右角へと取り付く。
振り払おうと暴れる『角豚』に対し、ヴィルはしっかりと角に足を回して体を固定、角の根元に掌を当てて叫ぶ。
「――折れろ!!」
――重い破砕音と共に、『角豚』の角が根元からへし折れる。
『角豚』の絶叫が反響し、砕けた角が地面へと落下する。
発勁というのだろうか、根元に向かうにつれ太くなっていたあの角を砕くとはどういう威力をしているのか。
『角豚』の怒りに任せた突撃を、ヴィルは地面を滑るように股の間を潜り抜けて避ける――その両手に折った角を抱えて。
立ち上がるヴィルは腰溜めに、不格好な突撃槍のように魔獣の角を構えて疾走する。
対する『角豚』も躊躇わない、確実に己の敵を殺そうとヴィルに突進する。
両者の距離は縮まり、縮まり、縮まり――そして。
「――ふう……危なかったけど何とかなったね」
『角豚』の巨体が地面に落ちる、疲労感を滲ませるヴィルが立ち上がる、それが戦いの終結だった。
暗闇の奥から、凄まじい勢いで血の波がやって来る。
あたしは慌てて立ち上がり、意を決して血の池に一歩を踏み出しヴィルの下へと近づいて行く。
「こんなのを相手に……」
目の前に来て改めてよく分かる、『角豚』の巨大さと凶悪さが。
地面に投げ捨てられた角は、とてもではないがあたしでは持ち上げる事すら出来そうにない。
いや、今はそれよりも。
「ヴィ……っ……!」
思わず息を呑む、それ程までにランタンに照らされたヴィルの立ち姿は凄惨だった。
最後に見た時は打撲痕や血の滲む怪我が見えていたが、今はそれら全てが魔獣の返り血でドス黒く染まってしまっている。
返り血を頭から浴びたのか綺麗な銀髪も血の色に染まり、元の色が分からない。
かける言葉が無かった。
「ヴィ……」
「ローラ、先を急ごう」
「え?でも魔獣は倒したんだし一旦休んだ方が……」
「魔獣がこれ一匹とは限らない。これは僕の予想だけど、霊峰の内部は抗魔石の影響が無いんだよ。だから霊峰特有の高濃度の魔力が相まって、地下で強力な魔獣が発生してるんだと思う」
「地下って……」
「ここよりもっと深く、人類の未到達領域だよ」
ここが、一体どれだけの深さなのかあたしには分からない。
けれど日の光すら届かないここよりももっと下の世界があるのだと聞かされたあたしは、足元がぐらつくような不安感を覚えた。
ともあれ『角豚』はヴィルが倒した、当分は安全な場所を探す事に集中して――
「!これは……」
「何?この振動?」
「血の匂いを嗅ぎ付けたんだ!今すぐ移動を……」
――視線が合った。
それも二つや三つなどでは無い、もっと多い、おぞましい程に。
赤の目が、緑の目が、黄の目が、こちらを見ている。
「走って!!」
ヴィルが鞄を奪って走る、手を引かれるままにあたしも走る。
後ろから追いかけて来る気配がする、大量の足音と咆哮が反響して頭が痛い。
魔獣との戦闘は、魔獣からの逃走劇へと形を変えた。
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