第164話 転落 三
バレンシアとニアの目の前をブレスが駆け抜けていく、ヴィルに苦渋の決断を迫った炎がクレバスを落ちていく。
ヴィルとローラと共に、深い闇へと消えていく。
「ヴィル!ヴィルぅ!ダメだよお!!なんでっ……ヴィル――――!!」
「ニア!今は退きましょう!ここは危険よ!!」
クレバスの縁に座り込み、底の見えぬ闇へと手を伸ばすニアは今にも二人を追って飛び込んでしまいかねない勢いだ。
バレンシアはニアの前に腕を回して肩を抑え、洞窟まで引き上げようと試みる。
「待って、止めないで!ヴィルが、ヴィルがぁ……!」
「お願いニア!今は堪えて……っ!お願いよ……っ!!」
ニアの気持ちが痛い程によく分かるバレンシアだからこそ、引き留めるその行為が心苦しかった。
だが今の自分達に出来る事は何一つ無い、ただ少しでも多くの人数が助かる選択肢を取らなければならないそれだけだ。
――だが行動に移すのに時間を掛け過ぎた、ブレスでヴィルとローラを焼いた黒龍が次に標的に選んだのは、最も近くに居たバレンシアとニアだった。
近くで雪を踏む足音と共にザックの怒号が響く。
「危ねぇッ!!」
「きゃっ!!」
駆け寄るザックが二人の体を掻っ攫う――直後衝撃が三人を吹き飛ばす。
ザックに抱えられたままの二人は訳も分からず雪の上を転がり、やがて止まる。
三人が止まったのは先程までいた氷龍の顎からやや離れた地点、どうやら黒龍の攻撃を受けてここまで飛ばされてしまったらしい。
一先ず緊迫した状況を脱した事に安堵しつつ、バレンシアは自分とニアを助けてくれたザックに礼を述べようとして気付く。
「ありがとう、助かったわ。もう大丈夫だから……ザック……?」
二人に覆い被さったままのザックから返答は無い、続けて声を掛けようとして手がべとつく感覚。
――場違いな感触にふと手の平を見てみれば、バレンシアの手は赤黒く染まっていた。
「ザック!?しっかりして!ザック!!」
「……頼むぜ、ニア……今は一人でも犠牲を減らさなくちゃならねぇんだ……そうじゃなきゃ戻って来るヴィルに顔向けできねぇ、そうだろ」
「うん……!うん……っ!」
ザックの献身を受けて多少なりとも冷静な思考を取り戻したニアが、眦に涙を浮かべながら繰り返し頷く。
ヴィルとローラの事はある、だが今は自分達が助かる事が先決なのだと。
「それでいい……そうと決まりゃすぐに洞窟に……ぐうぅぅ、畜生、痛ぇ……」
気丈に笑みすら浮かべて立ち上がろうとするザックだったが傷は深い。
その背中には三本の爪痕が刻まれており、中には骨まで届いているものもある、一人では歩く事も困難だ。
「大丈夫かシアぁ!!」
バレンシアとニアが二人掛かりで腕を担いで運ぼうとしているそこへ、ザックが抜けた穴を埋める立ち回りを見せていたヴァルフォイルが合流する。
その手にはヴィルの投げ捨てた短剣が握られており、三人を庇うように油断無く黒龍へと構えを取りながら安否を問う。
「その血ぁ……ザックか。よく守ったぜ、オメェ。あとはオレに任せやがれ」
「どうするつもりなの、ヴァルフォイル」
「あの龍はオレが引き受けてやんぜ。シア達はその隙に洞窟に走りやがれ」
「それは……」
「ヴィルがやり切りやがったんだ。なら、オレができねぇはずねぇよなぁ!」
そう吼えるヴァルフォイルの背中に悲壮な覚悟は微塵も存在しない、あるのはただ成し遂げるという前向きで純粋な覚悟だけだ。
いずれにせよこのまま四人で洞窟へ向かえば、それを追う黒龍が洞窟の場所を嗅ぎ付けてしまいかねない。
もしそのままブレスなど吐かれてしまえば、逃げ場の無い洞窟は竈となって全員を焼くだろう。
多くを生かす為には、誰かが囮となって黒龍の陽動を行う必要があるのだ。
そしてこの場で最もその役割に適しているのは……
「――分かった。骨は拾ってあげるから安心してやってきなさい」
「ハッ!流石にこのクソ寒い雪の中で探させんのはやべぇからな、なんとか一人で帰って来てみせるぜ」
バレンシアは心の底から納得した訳では無い、寧ろ到底納得出来ないと言って良い。
ただでさえヴィルとローラが落ちたのだ、その上ヴァルフォイルまで失うなど考えたくもない。
だからこれは戦地へ赴くヴァルフォイルへの激励だ、決して死ぬなと、そう伝える為のいつものやり取り。
――ニヤリと笑うヴァルフォイルと黒龍が駆け出す、それと同時に三人は洞窟へと歩き出していく。
成人男性と遜色無い体格のザックを抱え、足場の悪い積雪の上を歩いているのだ、その歩みは遅い。
「こっちに来やがれェェェェェ!!」
ヴァルフォイルが叫ぶ、脳裏に浮かべるのはヴィルが黒龍相手に見せた立ち回り。
魔術も身体強化も無しに軽々と立ち回り、直前の負傷をまるで感じさせない翻弄っぷり。
その姿に自分を重ねる、出来る筈だ、やれる筈だ、そうでなくてはいつまで経ってもあの背中に追い付けないのだから。
そんな覚悟を胸に黒龍と相対するヴァルフォイル、だが現実は無常で非情だ。
「なッ!テメェ!オレを無視しやがるってのか!?」
大地を駆ける黒龍のそれはヴァルフォイルへの突進では無かった、それは助走、ヴァルフォイルを跳び越えバレンシア達を狙う為の準備だったのだ。
野生の生物の中には手負いの獲物を優先して狙うものが居る、それは生命の本能であり、魔獣である龍もまた例外では無い。
一度己が爪を刻んだ獲物が逃げようとしている、その事実は黒龍にとって何より許し難い事実だった。
反転するヴァルフォイルが黒龍の背を追うが間に合わない、空中から急襲する黒龍は爪の狙いをザックに定め、全力で叩き付ける。
「シア――――!!」
純白の雪が紅に染まる、それは何の不思議も無くあり得た未来だっただろう。
だが――
「――それ以上の勝手を許すものか」
倒れ込むバレンシア達に影が差す、陽光を照り返す金が靡く。
黒龍とバレンシア達の間に割って入ったその人物は左手を黒龍に掲げ、たった一言を呟く。
「――爆ぜろ」
――グラシエルの魔力が膨れ上がる、黒龍を巻き込んで爆発する。
その威力は今まさに振り下ろさんとしていた黒龍の爪と頭を仰け反らせる程で、三人は間一髪難を逃れた。
「先生!」
「ヴァルフォイル!今だ!!」
「オレだけ見てろや!クソボケがアァァアアッ!!」
無視されたヴァルフォイルが黒龍に追い付く――そしてその怒りのままに、ヴァルフォイルの短剣が黒龍の逆鱗を突き刺した。
黒龍が絶叫する。
「――――ッッ!!」
「うおっ!クソッ!」
痛みと怒りから暴れ回る黒龍、深々と突き刺さった短剣は抜ける気配が無く、そのまま持ち上げられそうになったヴァルフォイルは咄嗟に手を離して離脱する。
怒りに燃える黒龍の瞳はただ一人、己の急所を抉ったヴァルフォイルだけを映していた。
「ハッ!やっとオレを見やがったなクソ龍が。刺したのはオレだ、ついて来やがれ!!」
「――――ッッ!!」
咆哮と同時にヴァルフォイルが駆ける、黒龍もまた怒りのままに追い縋る。
ヴァルフォイルは比較的小柄な体格を生かしながら、緩急を付けた動きで黒龍を翻弄しつつ、バレンシア達の視界から遠ざかって行く。
その激しい攻防、否、逃避行を尻目にバレンシアとニアはグラシエルの助けを借りつつ、ザックに肩を貸しながら洞窟へと辿り着いた――三名のクラスメイトを除いて。
「先生!それにシアとニアも、戻ったんだね!ってザック!?大丈夫!?」
「リリア、スウェナさんを読んで頂戴。今すぐに手当てをしないと危険な状態だわ」
「う、うん。今奥で治療してくれてるから連れていこ。先生も一緒に……」
「私は後で構わん。ザックを優先してやれ」
「では吾輩がザックを連れてゆこう。二人はここで休んでいるがいい」
Sクラス一番の力持ちであるカストールは、ザックを軽々と背負い上げると、リリアと洞窟の奥へと歩いて行った。
見届けたバレンシアとニアは、ようやく訪れた休息の機会にその場に座り込む。
と、そこでアンナが気付いた。
「あれ?ヴィルくんはどこですか?まだ見てないような気が……」
「…………」
その問いにニアは答えられない、ザックの言葉で一時は意識の隅に追いやる事が出来ていたものの、こうして考える時間を得てしまった事で絶望が蘇ってしまっているのだ。
故に、最悪の知らせを伝えるのはバレンシアの役割だった。
「ヴィルは…………落ちたわ、氷龍の顎に。ローラと一緒に」
「そん、な……」
「ヴァルフォイルは黒龍の囮を引き受けてそのまま。無事でいるかどうかは……」
「「「「…………」」」」
洞窟に絶望が淀む、下山を再開しようとした矢先のこの報だ、希望から転じた絶望に誰一人として口を開く事が出来ない。
魔力の使えない霊峰で、深さの知れない巨大なクレバスに落ちたという事実、その意味は子供にだって分かる。
ニアが体を丸め、膝に顔を埋めるようにして塞ぎ込む、微かに聞こえるすすり泣きがただただ痛々しかった。
「ローラ、ヴィル……」
堪らずバレンシアが口にする、失ってしまった学友の名。
その呟きは、静寂が満ちる洞窟内で誰の耳に届く事も無く消えていった。
―――――――――――――――――――――――
――落ちていく、落ちていく、一寸先すら見通せない闇の中を、ただひたすらに落ちていく。
光すら追って来ない暗闇の中、何一つとして視界に映るものは無く、だた落ちているという感覚だけがあった。
普通、魔力の使えない環境で落ち続ければ悲鳴の一つや二つ挙げてもおかしくないだろう。
だがクレバス内は静寂が保たれ、目を閉じたままのヴィルの耳にはごうごうと空気が鳴る音しか聞こえていなかった。
「――――」
左手に感じる温もり、ローラは黒龍の攻撃を受けた時点から意識が無く、今も重力に身を任せている。
対するヴィルは口こそ開いていないものの意識ははっきりしており、その意識は今彼自身の内側へと向けられていた。
――ヴィルの思考が加速する。
(深度は不明。魔術の使えない環境は変化無し。早急に手を打たなければ落下死は確実)
魔力を高めていく、抗魔石の魔力操作を阻害する力を上回る集中力で以て荒ぶる魔力をねじ伏せていく。
その行為は容易なものではない、特異な魔術特性により日頃から精緻な魔力操作に長けているヴィルだからこそ出来た芸当だった。
(魔術全体の回復をする時間は無い。パスを通すのは今必要な箇所だけで良い)
時間さえ掛ければ普段の半分程度の魔術行使は可能になるだろうが、それには計り知れない日数を必要としてしまう。
だが魔術の一部分を復旧する程度ならば容易くは無いが、やってやれない事も無い。
ヴィルはまず最初に代償魔術の魔法陣を魔術演算領域内に構築すると、迷う事無く発動する。
「――――」
無感情に心臓を停止させ、その代償に手に入れた魔力と魔力操作を用いて次に開くのは、エネルギー操作魔術の内のエネルギー分解。
現実換算で二秒、構築したエネルギー分解を重力へと適応し、自身とローラに掛かる重力を中和していく。
(落下速度の変化は軽微。加速の原因を排除する)
魔術を発動出来たとはいえこの環境だ、効果の程に期待は出来ない。
空中でローラの腕を引き、怪我を悪化させないよう細心の注意を払いながら重い鞄を外す。
これで落下速度の軽減はやりやすくなった、だが抗魔石の影響とここまでの加速が落下死の回避を許さない。
死神の足音がすぐそこまで迫っている、首筋に鋭利な鎌が突き付けられている。
ヴィルはそれを振り払うようにローラを横抱きに、クレバスの側面へ足を着け、斜め下方向へと思い切りに蹴り出す。
直後、落下速度の弱まった二人に共に落下していた岩石が急接近、ヴィルはそれらを空中で避け、時に蹴脚で排除しながら再び壁を斜め下へと蹴る。
そうして落下速度の軽減を繰り返している最中の事、ヴィルの耳朶を気になる音が叩く。
(水流の音?川か。なら――)
ヴィルは再び意識を内側へと向けて代償魔術を発動、心臓の激痛と引き換えにエネルギー分解を全力を超えて発動、自身の体を下に、ローラを上に固定し背中からの着水へと備える。
――衝撃。
「――――ぁ……」
――水流に揉まれる中、ヴィルは自身の体の致命的な部分が損壊した事実を知覚した。
それは生命活動を存続する上で無くてはならない根幹、人体を支える柱が砕けた感覚。
下が岩や氷では無く水であった事は不幸中の幸いだったが、一定の落下速度を超えると水は岩と同程度の硬度と化す。
意識が薄れていく、一度手放せば二度と帰って来られない事を理解していて尚、意識を握っていられない。
最後の空気が吐き出される、体を内側から冷やすように肺を水が満たしていく。
力が抜ける、血の流れが止まる、心臓の鼓動が絶える――思考が、停止する――――
「――――――――」
――状況は、完全に落ち切った。
という訳で、次回は章を超えて『シークレット・ノブレス』という物語の根幹に関わる重要な回になります、お楽しみに!
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