第162話 転落 一
今回の霊峰登山の目標である頂上到達を成し遂げたSクラスは、上を目指していたこれまでから一転、麓を目指し下山を行っていた。
下山には引き続き西ルートを使用する、それはつまり十九日目までに通った道を丸々引き返すという事であり、更に換言すれば必死の思いで乗り越えて来た三カ所の難所を再度攻略しなくてはならないという事でもある。
これが登山前のSクラスであれば絶望感に言葉を失っていたかもしれないが、一度頂の景色を拝んだ一行には、達成感と共に一種の全能感のような感情が存在していた。
今なら、霊峰登頂を成し遂げたこのメンバーであればどんな難所であっても乗り越えられる、そんな全能感だ。
それは油断ではない、慢心ではない、経験と成功体験から来る力強い自信と自負だった。
事実頂上での記念撮影を終えた一行はその足で再度第三の難所、勇者の刀身に挑戦し、特段の苦戦も見せず見事踏破する事に成功している。
一度通った道だからという経験や慣れを差し置いても、進行速度や疲労の蓄積は一度目の挑戦よりも明らかに少なく、効率的な身体の使い方で下る事が出来ていた。
そうして、一行は下山の途を着々と歩んで行く。
二十一日目には九合目の山小屋へと辿り着き、二十二日目はそれまでの疲労を取る日に充て、休息日として一日を終えた。
二十三日目、二十四日目共に何事も無く、呼吸補助の魔術具を外す事の出来る八合目の山小屋まで後少しという所まで迫っていたSクラスに、思わぬ試練が降りかかる。
それは、
「雪、止まねえな」
「そうねえ。もう丸一日動けないだなんて。後は下りるだけだっていうのに、ツイてないわねえ」
外を見ながら溜息を吐くフェローに、暇を持て余したレヴィアが脚をぱたぱたと動かしながら答える。
Sクラスは現在、吹雪の影響で洞窟内での待機を余儀なくされていた。
その洞窟は八合目の山小屋から少し離れた巨大クレバス『氷龍の顎』のすぐ目の前に存在する。
人工的に彫られた洞窟では無く自然の産物であるそこは、入口こそ狭いものの奥まで長く広がっており、二十余名を収容しても十分なくらいだった。
ただそれは広さが確保出来ているというだけで、地面はでこぼこで冷えており、娯楽も無い為ひたすらに会話を回して時間を浪費しているだけである。
更に言えば、
「アルティスさん。やっぱりまだ動けそうにないんですか?」
「そうですね。いつ動けるかというのは天候次第なので何とも言えませんが、最低でもあと一日は動けないと思っておいた方が良いかもしれませんね」
「そんなぁ~」
洞窟から出られる見込みが無いというのも、一行の精神を削る結果に繋がっていた。
ヴィルの質問に対するアルティスの返答を聞いて、ニアががっくりと肩を落とす。
数日前の状況から一転、暗く落ち込んでいく空気を慮って、二人の生徒が状況を打破せんと動きを見せた。
「ん?なんかいい匂いするな」
「言われてみれば確かに……これ紅茶?」
最初に気が付いたのはザック、続いてクレアも目敏く、この場合は鼻敏くだろうか、薄暗い洞窟に似合わない香りに鼻を鳴らす。
遅れてヴィルも二人の言う香りを嗅ぎ取る、どうやら洞窟の入口の方で誰かが紅茶を淹れているらしい。
やがて洞窟中に香りを行き渡った所で、紅茶の入ったコップを持った二人の生徒が姿を現す。
「さあ皆様、暗い気持ちでいても状況は好転しませんわ。紅茶でも飲んで少しはゆっくり落ち着きなさいな」
「一人一つ平等にお配りしますので良ければ飲んで下さい。ミルクと砂糖は少しですが残りがあるので、必要な方は仰って下さいね」
そう言って洞窟の入り口側から順に紅茶を振る舞っていくマーガレッタとフェリシス。
それを見たヴィル達は立ち上がると、二人の配給活動を手伝い、一通り紅茶を配り終えると一塊になって座り一服する。
一斉に紅茶に口を付ける、と、殆どの者がある事に気が付いた。
「あ!この紅茶って九合目の山小屋で淹れてくれた紅茶だよね?まだ茶葉残ってたんだ」
「ええ、よく気が付きましたわね。ニアの言う通りこの紅茶はこの間の残りの茶葉で淹れたものですわ」
微笑むマーガレッタは、自分の淹れた紅茶の味を理解してくれたニアにご満悦の様子だ。
ニアの言う通り、その紅茶は九合目の山小屋で一度味わったものであり、マーガレッタが折角の霊峰登山という事で私的に持ち込んだものでもあった。
以前魔剣の件でヴィルやニアやフェリシスに迷惑を掛けて謹慎、復学を果たした際、ヴィルの言葉もあって口では当人以外には謝らないとクラスメイトの前で主張したマーガレッタだが、本人は本人なりに気にしていたのだろう。
紅茶の差し入れはそのちょっとした詫びの意味もあるのではないか、ヴィルは個人的にそう予想していた。
ちなみにマーガレッタは何も言っていなかったが、この茶葉は上級貴族御用達のかなりの高級品である。
気が滅入る状況は一転、マーガレッタのサプライズで僅かながらも安らぎを得られる時間が訪れた。
「それにしても何も言わなくても分かるだなんて、ニアは舌が繊細ですのね。わたくしも振る舞った甲斐があったというものですわ。ああ、ヴィルは気が付かなかったとは言わせませんわよ?」
「いきなり飛び火するね?心配しなくても、クレアじゃないんだから香りでも味でも分かってたよ」
「何よそれ。アタシをバカにしてるワケ?……まあ紅茶の味なんてこれっぽっちもわかんないんだケド……」
「クレアは子供舌ですものねぇ。ほら、ミルクと砂糖はここですわよ」
「ホンットムカつく女だわアンタ。どっちもいらないわよ。どうせそのままの味で楽しまないと~とか言うに決まってんだから」
「あら、わたくしはそんなこと言いませんわよ。紅茶は飲む人が好みに合わせてこそですもの。それに、わたくしが手ずからこの茶葉を使って淹れた紅茶ですわよ?どんな飲み方でも美味しいに決まってますわ!」
「…………」
意外な言葉に気圧されたクレアは、一言も発さずマーガレッタからミルクと砂糖を受け取り紅茶に入れて一口。
その口から白い吐息が漏れ出るのを見て、マーガレッタはしてやったりと笑い紅茶を口に含む。
余りの茶葉で淹れたという小さな一杯が、洞窟内に閉じ込められている閉塞感を少しだけ和らげていた。
それは人の輪からやや外れた位置に座っていたローラについても例外では無い。
ヴィルはローラが一人で居るのを見るや、紅茶片手に近付き隣に座る。
ただでさえ狭い洞窟内だ、いきなり隣に座られたとしても逃れる場所は無く、もう何度も繰り返されているやり取りだけあってか、ローラは既に諦めた様子だ。
或いは霊峰登山という苦難を共有した事で少し心を許してくれたのかなどと考えつつ、ヴィルは写真機を覗き込んでいたローラに話し掛ける。
「もしかして頂上で撮った写真を見てるのかい?良ければ僕も見せてもらっても構わないかな?」
「……別にいいけど、変なことして壊さないでよ」
「分かってるよ。それでは失礼して」
そう言うとヴィルは、ローラから写真機を受け取りレンズ部分を覗き込む。
そこには頂上で撮ったものだけでなく、道中ローラが撮っていた撮影した景色やクラスメイトの姿があった。
どれもブレ一つ無く丁寧に撮影されており、撮影者の技量の高さが表れていた。
「凄いね。こんなに綺麗に写るものなのか」
「これくらいどこにでもある写真でしょ」
「確かに新聞なんかでよく見る見出しと遜色無いように見えるけど、逆を言えばプロの撮る写真と同レベルだよ、これ。好きじゃなきゃ撮れない写真だと思うな」
「………いちいち大げさなのよ、あんたは」
居心地悪そうに身を捩るローラは表情こそ冷たいが、その身に纏う空気はどこか満更でもなさそうに見えた。
いつもの毒舌にもキレが無い、その事にヴィルは頬を緩ませる。
「こんなに綺麗な写真があればどれだけ時間が経っても思い出話をするのに困らなさそうだね。皆喜ぶよ」
「……別に、人のために撮った写真じゃない。自分のためよ。ただそれだけ」
「それでもだよ。この写真はずっと消えない皆の宝物になる、きっとね」
「…………」
ローラは相変わらず答えを返さないが、やはりヴィルにはその瞳にどこか柔らかく暖かな光が宿っているように思えてならなかった。
そんな事を考えながらローラの撮影した写真の数々を眺めていると、紅茶を飲み終えて暇になったらしいニアがヴィルの肩に手を回しながら手元を覗き込む。
「あ、ヴィル~。何見てんの?」
「ローラの撮った写真を見せてもらってたんだよ。どれも凄く綺麗に撮れててね、プロ顔負けの腕前なんだよ」
「へーすごいじゃん!あたしにも見せて~」
「ちょっと……!絶対壊さないでよ!」
それからクラスの全員でローラの写真を見るくだりを挟みつつ、暗く沈んだ夜は意外な賑やかさで過ぎ去っていったのだった。
―――――
そして一夜明けた翌朝、吹雪は奇跡的に収まり、洞窟の外には昨日までの荒れた天候が嘘のような雲一つ無い青空が広がっていた。
まだ早朝ではあるが、太陽の光を待ち望んでいた一行は一人また一人と外に出ては伸びをして、久方ぶりの快晴を満喫していた。
「よし。地面の状態も大丈夫そうだし、これなら先へ進めそうです!朝食を済ませ次第出発の準備をしましょう!」
アルティスの宣言に、生徒達からは待ってましたとばかりに歓声が上がる。
そうして訪れた出発の時、ヴィルも息の詰まる状況を脱した事に安堵しつつ、この先に待ち構える折り返しの難所に思いを馳せ――ふと、地上に影が落ちている事に気が付く。
空は雲一つ無い快晴、鳥も霊峰特有の寒気を嫌ってこの辺りを飛ぶ事は無い、ならば一体何が陽光を遮っているのか。
心臓を握られたような嫌な予感に喉を鳴らしつつ、影を落としているものの正体を見ようとヴィルはゆっくりと目線を上へと上げる。
そこにあったもの、否、居たものは――
「何あれ?」
――両翼を広げ、そも天敵の存在しない大空を我が物顔で駆ける。
「黒い……?」
――それは生きる物の頂点、世界最強の座を欲しいままにする食物連鎖の頂点。
「――龍」
――大きく開いた顎から極光が放たれ、突き刺さり、辺りが白に染まる。
強者たる己を見上げる不届きな弱者を一掃する、凶悪なブレスが全てを消し去っていく。
――状況が、転げ落ちていく。
ただ登って終わらせる訳は無いんですよねぇ、と
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